本書が受けるかもしれない誤解についての釈明――『怪獣から読む戦後ポピュラー・カルチャー――特撮映画・SFジャンル形成史』を書いて

森下 達

 エピローグにも書いたとおり、本書は、筆者の博士学位論文がもとになっている。博士論文を母校に提出したのは2014年12月のこと。そのときには、まさか2016年に新しいゴジラ映画が封切られることになろうとは――そして、それにふれた文章を書籍化した拙論に付け加えることになろうとは――夢にも思っていなかった。
 2015年7月、『シン・ゴジラ』(監督:庵野秀明、2016年)の製作発表に胸をときめかせた3カ月ののち、博士(文学)の学位を取得することに成功した筆者は、前後して改稿作業に力を注いでいった。最終的には、400字詰め原稿用紙に換算して150枚ほどの分量を削っている。もともとの論文にあった回り道や脱線を削除していけばいいのだから、これはそれほど大変な作業ではなかったのだが、問題は書名だった。
 すでに読んだ方はわかってくださると思うが、本書はいささか特殊な問題設定をおこなっている。特撮映画やSFを扱った本、というと、まず思い浮かぶのは、そのジャンルに包摂される作品に対する著者自身の熱い思いを紡いでいくことでジャンルの根本精神を深く深く掘り下げる体のものだろう。ファン向けのムックから評論本、学術的な香りをもった著作まで、読みの深さや議論の精度はそれぞれだが、こうしたスタイルを採用した書籍がもっとも広く世の中に流通している。
 そのほかに、著者の関心が作品よりも背後の社会に向けられている本も、学術書を中心にしばしば見ることができる。すなわち、ポピュラー・カルチャー作品を、社会の空気や時代の風潮をなんらかのかたちで反映しているものとして捉え、その変遷から社会の変化の重要な一側面を切り取って叙述する、というスタイルの書籍だ。
 だが困ったことに、本書はそのどちらでもないのだった。本書が焦点を当てるのは、前者の本がしばしば当たり前に存在するものとして議論の前提にする「特撮映画」や「SF」という「ジャンル」が、はたしてどのようにして形作られていったのか、ということだ。検討の過程では、ジャンルに包摂される作品そのものが第一に問題になるわけだから、この点では前者の著作にも通じる要素が本書にはある。しかし、ジャンルの存在を議論の前提とはしないので、これだけにとどまらず、主として同時代の作品評に着目して、当時どういったジャンル認識が通用していたのかも問題にしていく。その際、ジャンル形成の力学を、時代や社会との関係でもって論じることが多い点では、後者の著作にも近いところがある。こうした重層的な分析によって、ポピュラー・カルチャーという領域が「政治」や「社会」から切り離されたものとして形成されていった、その一断面を描き出してみようというのが本書の意図だった(成功しているかどうかについては、読者諸兄の判断を仰ぎたい)。
 しかし、このような執筆意図を、どのような書名でわかりやすくパッケージングすればいいのか。博士論文では、「「特撮映画」・「SF(日本SF)」ジャンルの成立と「核」の想像力――戦後日本におけるポピュラー・カルチャー領域の形成をめぐって」とタイトルを付したが、いかにも論文っぽくてぎこちなく、商業書籍の題名にはふさわしくない。研究者仲間に相談したら、『怪獣と政治』というすてきな書名を提案してくれたものの、なんの本かわからず「Amazon」が分類に困るということでこれもダメ。編集を担当してくださった矢野未知生さんからもさまざまなアイデアをいただき、紆余曲折を経て、『怪獣から読む戦後ポピュラー・カルチャー――特撮映画・SFジャンル形成史』に決定した。
 とはいえ、この書名が、「戦後ポピュラー・カルチャー」という領域の存在を前提にしたうえで、、、、、、、、、、、、、、、「怪獣というキャラクターがそこでどのような活躍をしてきたか」を歴史的に解説した本だという印象を与えかねないものでもあることに、筆者は一抹の不安を抱いてもいる。そのような期待を胸に本書を手に取り、購入するジャンルのファンがいるのではないかという懸念も、いまだにないではない。怪獣対決路線の映画が論じられていないとか、ガメラのほうが好きなんだとか、ウルトラマンを出せとか、「期待していたのと違う!」と、さまざまな不満を抱く方もいらっしゃるかもしれない。本当にすみませんでした、と、まずはこの場を借りて頭を下げておきたい。
 と同時に、「そういう趣味的な解説本ではなくて、あなたが興味をもっているそれらの領域がどのように形成されたかを外側から見る本なんです」ということも、あらためてここで強調しておこう。ポピュラー・カルチャーにはまった経験がある人にこそ、じっくりと読んでほしい。本書の問題設定を理解していただいたうえで、お付き合いいただければ幸いです。

 

本書の敵はディズニーマニアとディズニー? ――『ディズニーランドの社会学――脱ディズニー化するTDR』を書いて

新井克弥

 本書の執筆については、2つの「恐れる読者」を想定した。そして、これへの対応にかなりの時間を費やした。

 1つは本書でDヲタと表記したディズニーマニアの一群だ。彼らにとってディズニー世界は自らのアイデンティティーのよりどころ、そしてTDR(東京ディズニーランド+東京ディズニーシー)は、それを確認しに向かう聖地。この部分に、いわば「ツッコミ」を入れているのが本書なので、必然的に彼らのアイデンティティーに抵触することになる。アイデンティティー=自己同一性という言葉が示すように、これらディズニー世界は彼らの人格を反映する、あるいはディズニーのことは自分のことというふうに認識している(ただし、膨大なディズニー情報から自らにとって親和性が高いものを抽出して、自分だけのディズニー=マイディズニーを構築しているのだけど)。そのために、TDRにツッコミを入れることは、筆者の意図の有無にかかわらず、結果として彼らの存在や人格にツッコミを入れることにもなる。
 当然、TDRが批判的に書かれていると受け取ればDヲタは傷つくわけで、そうなると一挙に反撃ののろしが上がることが想定される。その際の典型的な反撃法は内容のトリビアルなところに着目し、そこにツッコミを入れるというものだ。具体的には表記や事実関係の誤りへの指摘という形をとる。細部の誤りを指摘し、「こんなことさえ間違えているから、この筆者が書いていることはデタラメだ」と、細部の誤りを槍玉にあげながら、全体、とりわけ展開そのものを否定するやり方で、このパターンは筆者に対するブログのコメントでさんざん経験している。とにかく、彼らは知識がハンパではないので難敵ではある。
 書き手としては、当たり前だが中身をちゃんと読んでもらいたい。そこで、こうした指摘をできるだけ封じようと、2つの側面についてかなりの時間を割くことにした。1つは「事実関係の確認」。筆者とディズニーの関わりは50年に及んでいて、本書ではこの間の記憶をたどるかたちでの表記をいくつか含んでいるが、自分の記憶のなかで確認がとれていない内容については、最終的にすべて掲載を諦めた。例えば1983年のディズニーランドの開園と同時にプロモーションの一環としてディズニーアニメの短篇がテレビ放映された際、番組のCMのなかに松田聖子が登場するものがあったのだけれど、今回、本書を記すまで、このCMは服部セイコー(現セイコーホールディングス)の時計と思い込んでいたのだ。これは当時、廉価ブランドとして同社がALBAを発表し、このキャラクターに松田(「聖子のセイコー」というわけ)を起用していたからだ。ところがあらためて調べてみると、これがなんと靴の月星(現ムーンスター)だった。人間の記憶などあてにならないものだ。

 もう1つは、ディズニーに関わる名称の表記だ。ディズニー世界には膨大な語彙が広がっている。基本的に横文字のカタカナ化なのでスペースに該当する部分を「・」で結べばいいと考えたいのだが、事はそんなに甘くない。登記されている商標に沿っていなければならない。たとえば東京ディズニーシーのミュージカルが催される建物は「ブロードウェイ・ミュージックシアター」で、ミュージックとシアターの間に「・」がない。また、ここで上映されている「ビッグバンドビート」も、これで一文字という扱い。これらはすべてディズニー(TDR)のオフィシャルサイトに準拠して表記することにした。記載する項目が非常に多い分、このチェックだけでも大変な作業だった。
 とはいうものの、それでも最終的には何らかの間違いを指摘されるのは避けられないだろう(例えば、厳密なことを言えばTDRは2つのパークだけでなく、隣接する商店街イクスピアリなども含むのだけれど、こちらとしては、このへんはいくらなんでも省略してもいいでしょ?とは考えているのだが、こんなところにさえツッコミを入れてくる恐れがある)。

 もう1つの「恐れる読者」はディズニーカンパニー、そしてTDRを運営するオリエンタルランドだ。執筆にあたっては紙面をより視覚的で見やすくするために、当初かなりの量のイラストを挟んでいた。しかしこれに編集のほうから「待った」がかかる。「弁護士に相談したところ、著作権のことで裁判を起こされる可能性が高いので、原則カットでお願いします」。ということで、ディズニーに関わるイラストは本文中にパレードのフロートに関するものがたった1つ、しかも徹底的に単純化したものということで落ち着いた(117ページ参照)。カバーのイラストも○が3つとティアラの組み合わせ。この○3つはミッキーの顔と耳の比率とは微妙に異なっている。つまり、あくまで「○3つ」。そしてその上に描かれているのも、あくまで「ただのティアラ」。とはいうものの2つを並べると、一般読者には何を意味しているのかはわかってしまう寸法。「その手があったか!」と思わせるような巧妙なイラストに仕上げていただき、デザイナーには感謝している。

「恐れる読者」には、とにかく彼らを攻撃しているわけではまったくないこと、そしてディズニーという文化が、結果として現在日本でこのように受容されていること、さらにこの受容形態が今後とも続くことで、よりJapanオリジナルなものになっていくことを理解してもらえればと考えている。

 現在、年間3,000万人強の入場者を誇るTDRだが、その歴史は本家と比べればまだまだ。この先ずっとTDRが続き、ディズニー世界がもっと日常的な存在になったとき、言い換えれば、アメリカのように、夢中にならなくてもそこにあるものになったとき、ディズニー世界は完全に日本の伝統文化に組み入れられたことになるのだろう。そうなるのはまだ数十年先と筆者は考えている。

 

石井敦先生に捧ぐ ――『人物でたどる日本の図書館の歴史』を書いて

小川 徹/奥泉和久/小黒浩司

 近代日本図書館史研究の先駆者である石井敦は、いまから20年ほど前に『簡約日本図書館先賢事典(未定稿)』(1995年)という本を自費出版した。石井はその「まえがき」で、同書を編んだ目的を次のように述べている。

    個々の図書館でひたすら利用者へのサービスに尽してきた人、資料の重要性を深く認識し、周囲の無理解にもめげず、散逸しそうな資料を発掘し、収集し、組織化してきた人たちなど、100年以上の歴史をもつ日本の図書館界にはたくさんいたのである。こういう先輩たちの仕事をもっと明らかにし、司書の社会的評価を獲得すると共に、これから図書館員を目指す人たちを増やしたい。また図書館にこういう専門的な人が必要なことを証明したい。

 石井はさらに次のようにも述べているが、それは彼の図書館史研究が、図書館とそこで働く人々に対する敬意によって立つものであることを示している。

    もっと積極的に先輩たちの業績を見直し、どれだけ地域の文化発展に寄与してきたか、学生や研究者たちのために役立ってきたか、同業者として評価すべきだろう。自分たちの先輩の仕事を無視することは、まさに天に唾するもの、自らの仕事の無視でもある。自分の仕事に誇りをもつならば、先輩たちの仕事にも同様、目を向けて然るべきだろう。今日からみれば、無意味に見える仕事も、当時の厳しい環境の中では心血を注いで取組んだものもあったこと、そこには利用者への限りないサービス精神の発露していたこと、資料(書物)の社会的価値を洞察し、信念をもって官憲から守ってきたことなどなど、丹念に掘り起こし、再評価すべきだと思う。

 今日、図書館をめぐる環境には厳しいものがある。それだけに、地域社会のなかに図書館を定着させようとした先人の努力の跡を掘り起こし、そこから何かを学び取る作業をゆるがせにしてはいけないと考える。
 私たち3人が『人物でたどる日本の図書館の歴史』をまとめた原点はここにある。その思いを汲み取ってくだされば幸いである。

 

青春の記録は苦悩に満ちている ――『80年代音楽に恋して』を書いて

落合真司

 1980年代は、わたしが高校生・大学生として過ごした貴重な時間。
 ネットもスマホもない時代のきらめいた青春の日々。
 その青春は常に音楽とともにあった。

 いきなり格好をつけて3行書いてみたが、拙著の「あとがき」あるいは「執筆裏話」として書こうとすると、もう苦悩しかないので、格好などつけず正直に苦悩のメイキング・エピソードを綴っていく。

《苦悩1》
 7年ぶりの出版だ。編集に関わる仕事はしていたものの、専門学校の講師やデザインの仕事に専念していたため、完全なブランクと言える。スポーツ選手が引退してから7年後に復帰するのがどれだけ大変か想像してもらいたい。とにかく書けないのだ。「えっと、原稿ってどうやって書いていたんだっけ?」という状態。「もう終わったな、自分」と毎日へこんで病んで自暴自棄になったりもした。
 超人的なスピードで原稿を書きまくって多数のヒット作を生み出している西尾維新先生は絶対に現在の人じゃない、きっと未来人で時間をコントロールするテクノロジーをもっているんだ、とバカなことを考えて自分を無理やり納得させた。10分もしないうちに再び自己嫌悪に陥るのだが。
 それでも少しずつ書かなければ本当に人として終わってしまいそうなので、キーボードをカタカタ叩いてみる。10分原稿を書いて50分休むというダメ人間。無駄に部屋の掃除を始めたりマンガを読んだりするクズ人間。
 気持ちが乗ってすらすら書けるときもあるが、あるアーティストのデビュー・アルバムについて書こうと思うと、当然あらためて聴き直すことになる。じっくり何度も聴く。別のアルバムも聴いてみる。気がつくと何時間もたっている。きょうはこれで終わりにしよう。言うまでもなく翌日もこのループ。

《苦悩2》
 ずっと以前、「神戸新聞」に「愛しの80年代」というタイトルでコラムを書いたことがある。それが思った以上に好評だった。「あ、これはいけるかも」と手応えを感じたが、オヤジの(昔はよかった的な)昔話ほどつまらないものはない。だからそういう書き方は避けて、しっかり時代背景と音楽をリンクさせようとする。
 ところが、どんなに調べて分析して考えても、時代性と音楽性に密接な関係が見えてこない。どうしよう。ますます原稿が進まなくなる。

《苦悩3》
 わが青春の80年代。ネタには困らない。そう思っていたが、本当にたくさんのことがあったのにうまく思い出せない。高校生のギャグマンガを描いているマンガ家が、「高校時代にバカなことをたくさんしたはずなのになかなか思い出せず、ネタがなくて困っている」と語っていたことがあったが、まさにそれ! 原稿は依然として進まず。

《苦悩4》
 レコードのジャケットを掲載することになった。スキャンするために探してみるが見つからない。見つかっても掲載したいアルバムではないものが出てくる。
 多くの音楽ファンはそうだと思うが、愛聴していたレコードがCD化された時点でCDを買うので、それまでのレコードは押し入れの奥のほうにしまい込んでしまったりすると思う。引っ越しを繰り返し、やがてレコードは行方不明になる。わたしも同じである。
 できればCDではなくレコードのジャケットを掲載したい。そこで、中古レコード店やネットオークションを探し回って手に入れることにした。これが意外にも高額なのだ。300円ほどで買えるだろうと思っていたら、定価よりも高い値がついていることもあり、とんだ出費になってしまった。
 これまた多くの人が経験すると思うが、ネットで何かを探していると、あっという間に時間が過ぎてしまう。つまり、そういうことだ。原稿はまったく進まない。

《苦悩5》
 気がつくと3年がたっていた。やっと書き上がった。読み直して愕然。書き始めた頃と最近とで文章のテイストが変わっているではないか。書き直しかぁ、ぞっとするなぁ。
 また、80年代音楽は自分にとって結局何だったのか、クリーンヒットな答えが見つからないまま編集作業が進み、再校の段階でやっと書き直すという危険な行為に出てしまう。
 
《苦悩の果ての感謝》
 原稿もまともに書けないくせに、装丁を自分でやりたいと申し出てしまうバカな自分。
 だが、すでに構想はあった。デザインの専門学校で進級制作を担当したとき、80年代風のすてきなイラストを描く学生がいた。オタク系ネット世界ではそこそこ有名な絵師だったその学生にカバーイラストをお願いしようと思い、久しぶりに連絡を入れてみた。卒業して仕事をしているはずなので、忙しくて描いてくれないかもしれないが、まあダメ元で。すると、絵の活動をしながら、実はまだ卒業せずに学校に残っているとのこと(同じ学校にいて顔を合わせない不思議)。よし、これは描いてくれるかも。
 おかげですてきな装丁になった。
 そして、こんなダメ人間なわたしに付き合ってくれた青弓社の矢野さんや編集者、営業のおかげで、やっと今度こそ本当に完成した。「本を一冊完成させるってこんなに大変なんだ」とあらためて思い知り、同時に多くの人に感謝する本になった。ありがとうございました。

 

植民地の図書館事業を再考するために ――『図書館をめぐる日中の近代』を書いて

小黒浩司

 本書の執筆・校正と並行して、戦前期の図書館用品のカタログを復刻する計画を進めてきた。こちらは現在その解題などの校正中だが、ゲラを見ていてあらためて気付いたことがある。
 図書館用品店のカタログには、それぞれの用品類を採用した図書館などの名称が写真入りで多く掲載されているが、その相当部分を植民地の図書館が占めている。植民地では図書館事業の改善に意欲的で、それが新しい用品の導入につながったと考えられる。植民地の図書館事業が内地に比べて「進んでいた」ことの一つの表れなのかもしれない。
 一方、用品店は内地の図書館への売り込みに苦労していた。そこでその打開策として植民地の図書館に積極的な攻勢をかけた結果でもあるのだろう。それでは、内地での販売がなぜ振るわなかったのだろうか。その理由としては次のようなことが考えられる。
 例えば木製の目録カードケースであれば、わざわざ用品店に注文しなくても、近所の木工業者に作らせたほうが手っ取り早いし、何かと融通がきいた。しかも総じて安上がりだった。
 品質の面でも問題はなかった。日本には伝統的な技術、高度な技術を有する木工業者(指物師)が多数存在していた。船箪笥などを見ればその優れた技がわかるだろう。地元業者も、専門店に勝るとも劣らない製品をたやすく作ることができたのである。
 さらには従来からの出入り業者への配慮も必要だろうし、地域の産業の保護・振興も考えなければならなかっただろう。新興のよそ者の用品店への発注は、さまざまな点から異例だったと考えられる。
 これに対して、植民地には「しがらみ」がなかった(もちろん、植民地でも本来は現地企業の育成を図らなければならないはずなのだが)。図書館は購入したいと思う用品を買うことができた。「金に糸目を付けない」経営が可能だったのである。
 図書館用品店は植民地の図書館との取引によって利益を確保し、技術を高めることができた。この国の図書館用品業の黎明期を支え、その後の発展の基礎を築いたのは外地の図書館だった。それは単に図書館用品だけではなく、この国の近代の産業全体の構図だろうし、他の列強諸国にもある程度共通していた事情だろう。
 植民地の図書館事業に対して、日本の植民地経営総体に対して、肯定的な評価をする人たちが少なくない。しかし、そうした見方こそがこの国の「近代」に対する偏向した見方であり、世界史的な視点に欠けた論といえるだろう。

 

2016年5月の2ヶ月後は7月です ――『アガンベンの名を借りて』(と『スタシス』)を刊行する理由

高桑和巳

 高桑和巳と申します。フランスとイタリアの現代思想を研究・紹介しています。仕事のなかでは、とくに翻訳に力を入れています。フランスについてはミシェル・フーコーやジャック・デリダを、イタリアはもっぱらジョルジョ・アガンベンを対象としています。アガンベンの翻訳はずいぶん出しました。2016年4月の時点で合計7冊になります(ついでに、英語の入門書も1冊翻訳しています)。
 しかし、翻訳をこれだけ出しているのに、私は単著を出していませんでした。なるほど、アガンベンに関しては折りに触れていろいろなことを話したり書いたりしてはきたのですが、その内容を1冊にまとめるということをしてこなかった。
 そんな私に青弓社さんが声を掛けてくださったのが2015年9月のことです。アガンベンを主題とした単著を出す気はないかという、ありがたいお誘いでした。しかし、正直に申して、書き下ろしは時間的にも能力的にも現実的ではないと思えました。とはいえ、せっかくいただいたお話なので何かできないかと考えました。
 ほどなく思いついたのが、これまでに各所で書き、話してきた玉石混淆の内容を――「玉」が少しでも入っていることを祈りますが――、取捨選択せずそのまま1冊にまとめてしまう、というアイディアでした。アガンベンをめぐる私のおもちゃ箱をひっくりかえしてそのまま提示する、というわけです。
 タイトルも『アガンベンの名を借りて』としました。この本は、もしかすると風変わりなアガンベン入門として活用してもらえるかもしれないけれども、むしろ――身も蓋もない言いかたをしてしまえば――自分が彼の思想を口実やきっかけとして自由に考えてきた結果を提示するものになるだろう。そして、そのことがひるがえって、彼の名を借りて自分なりに哲学をするよう読者のかたがたに促すことになるかもしれない、というわけです。
 このような自己流の提示に躊躇がなかったわけではありませんが、このアイディアを採用することを最終的に後押ししたのは、他ならぬ現在の政治情勢でした。私も遅ればせながら2015年の夏以降、反安保法制の運動に参加してきました。本を出せば、それは、この件に関する自分の発言を――それほど多くはありませんが――公に吟味していただく機会にもなる(それらの発言はアガンベンの思想を下敷きにしていました)。私はそのように考え、本の最後の部分を反安保法制に充てて構成しました。
 さて、この本についての話から少しだけ逸れることをお許しください。
 私がこの本の構成について考え、整序作業をおこなっていたのは2015年10月から年末にかけてです。ちょうどその時期、私はとある大学でイタリア語講読の授業を担当していました。私が講読用に選んでおいたのはアガンベンの『スタシス』という本でした。この選定は、私が反安保法制の運動に参加するよりも前の2015年春に済ませていました。ちょうど刊行されたばかりの原書をざっと斜め読みして「面白そうだ」と思い、テクストに指定しておいたのでした。
 精読を進めるうちに、受講者の皆さんと私は奇妙な感覚に何度も襲われました。作者は古代ギリシアについて、あるいは17世紀のイギリスについて語っているにもかかわらず、そこで語られているのはいまの日本の情勢のことであるとしか見えなかったのです。これはすぐに日本語で読めるようにしなければならない。
 というわけで、急遽、この翻訳の企画も(別の版元さんとですが)同時に進めることにしました。
 では、この2冊をいつまでに刊行しなければならないか? もとより、別々に立った企画ですから、それぞれのスケジュールに沿って、それぞれのペースで刊行までの作業を進めればよいだけのことです。刊行時期を無理に揃える必要もない。しかし私は、遅くとも2016年5月の連休までには両方とも刊行されていてしかるべきだと、デッドラインを勝手に考えていました。
 なぜか? 2ヶ月後にあたる7月に参議院議員選挙がおこなわれるからです。幸か不幸か、いま、ここで重大な意味をもってしまった政治思想の貢献を、選挙の前に余裕をもって提示し、それを使いたいと思う読者のかたがたに役立てていただく。そのためには、これがギリギリの時期だと思えたわけです。
 正直に言って、かなり大変な作業ではありました。しかし、編集サイドのご尽力もあり、スケジュールを遅らせることなく2冊とも刊行までこぎつけることができました。後悔だけはしたくなかったので、ここまで無事にたどりつけてまずはホッとしています。
 とはいえもちろん、これで終わりではありません。
 まずは目前の結果に向けて、そしてその先に続いていくもののためにも、読み、考え、行動していければと思っています。

 

風化させてはならない宝塚の記録――『白井鐵造と宝塚歌劇――「レビューの王様」の人と作品』を書いて

田畑きよ子

 白井鐵造は、いまも歌い継がれる「すみれの花咲く頃」の訳詞者であり、宝塚歌劇一筋にその基礎を築いた人物でもある。そのために白井の研究者は後を絶たず、さらに、白井の自伝『宝塚と私』(中林出版、1967年)、そして、愛弟子の高木史朗『レビューの王様――白井鉄造と宝塚』(河出書房新社、1983年)が刊行されていて、白井論は出尽くした感がある。それなのに、なぜいまさら、白井鐵造なのか? 
 大阪にある阪急文化財団池田文庫を退職後、3年かけて白井と向き合ったのにはいくつかの理由がある。その一つには、胸中に多くの“なぜ”が渦巻いていたからである。例を挙げれば、13歳で故郷を離れて染め物会社に奉公に出た白井が、なぜ音楽の道を志したのか。どのようにして宝塚へとたどり着いて、豪華絢爛の「夢世界」を築き上げたのか、その経緯は明白ではなかった。「すみれの花咲く頃」の元歌は「リラの花咲く頃」、しかし、なぜ、白井は「リラの花」を「すみれの花」に置き換えたのか。その誕生秘話は明かされず、ずっと歌は独り歩きしてきた。いわば肝心要の節目が曖昧なのである。これらを資料に基づいて明らかにしてみよう、白井の業績を一本の線につないでみたいと考えたのが、本書執筆のきっかけである。
 それは取りも直さず、白井が残した約1万3,000点に及ぶ資料群のなかの、パリ留学の際に舞台を観て記録をつづったノートやパリのミュージックホールのプログラム類、洋雑誌などの整理に携わった証しでもある。白井が生前に集めていた資料群をめぐっては、白井が住んでいた伊丹市と阪急電鉄がちょっとした争奪戦を繰り広げて、当時、新聞でも話題になっている。結局、白井の遺言が決め手になってそっくり池田文庫に寄贈された。実際に、1984年(昭和59年)2月23日にダンボール160個分をトラック6往復で搬入したと記録に残っている。
 こんな経緯で受け入れられたにもかかわらず、和図書以外の資料は未整理のまま書架に積まれていたようだ。皮肉にも、私がこれらの資料と出合ったのは、1995年(平成7年)1月17日の未明に起こった阪神・淡路大震災がきっかけだった。書庫内の書架が崩れて本や雑誌や資料は床に飛び散り、余震のたびに本が落ちてくるような状態だった。しばらくして運び出し作業が進められて、それらは閲覧室や展示室に並んだ。白井の資料はそのなかにあった。寄贈を受けてから11年もたっていた。司書としてのノウハウを教えてくれた先輩がシャンソンの楽譜の整理を担当し、それ以外の雑多な資料類は私が受け持った。こうしてみると、白井の原資料にいちばん近いところにいた者として、白井の業績を一本の線につなぐ仕事は、いわば天命というべきものだったのかもしれない。整理作業それ自体が大変な労力を要するものだったが、その作業が白井鐵造研究の何よりの絶好の機会であり、そのチャンスをこのような形で本書に生かせたことは、感謝すべきことだと思っている。

 白井が亡くなったのは、1983年(昭和58年)12月である。没後30年以上もたっているのだから、風評が流れて憶測が乱れ飛び、本来の白井鐵造像は見失われている。真の姿をあぶり出すには、資料をよりどころに論を編むこと以外に方法はない、と私は考えた。もともと司書や学芸員として仕事を重ねてきたので、それは当然のことなのだが、意外に労力を要して困難を極めた。とはいえ『パリゼット』(月組、1930年)や『花詩集』(月組、1933年)、『虞美人』(星組、1951年)などの主立った作品に関するコピーは、「白井鐵造生誕百年展」(2000年)の企画の際にファイリングしていた。もう一つの味方は、「宝塚歌劇90周年展」(2004年)を担当したとき、「歌劇」や脚本集(一時期、小林一三や白井などの論考が載っている)などを創刊号から92年(平成4年)頃まで読み通していたことである。歴史をきっちりととらえたいという思いから試みたのだが、雑誌名と執筆者、発行年月を記して、記事の要点も入力している。今回、これが大いに役立った。しかし、引用したくても発行年を書き忘れていたり、雑誌名があやふやで資料に届かなかったりすることもあった。さらに、「歌劇」の読書投稿欄「高声低声」や小林一三が大菊福左衛門のペンネームで「歌劇」誌上に掲載していた辛口の公演評を中心に、今回改めて調査した。こうして、駆け引きなしの白井の人と作品が浮かび上がったのである。これは、白井鐵造がファンの声に一喜一憂しながら成長していった記録でもあり、同時にタカラヅカの出版物の歴史でもあるのだ。歌劇団当局が、各方面の批評家の意見や読者の声を、その酷評さえも克明につづってきたからこそなしえた仕事である。
 70歳のデビュー作である本書はことのほか難産だったが、いざ産声をあげてみると、驚くほどの好評価で迎えられた。「風化させてはならない貴重な記録」「今後長きにわたって宝塚研究者の進む道を照らすもの」などの葉書が届いた。また、本書には演出家による称揚を所収しているが、その一人の岡田敬二先生からは、「すごい労作! 感動して二回も読みましたよ」というメッセージをいただいた。友達からは「根性と努力に乾杯!」と花が届き、白井の厳しい指導ぶりを語ってくれた宝塚OGからは激励の電話や手紙が相次いだ。まだ身内の範囲ではあるが、小さな波紋が広がりつつある。
 やっと完成した自著を改めて読み返してみると、タカラヅカってすごい! 100年の歴史を築くのに、どれほどの汗と涙と根性と努力があったかを実感できるのである。宝塚の歴史の深さにいちばん感動したのは、実は、こうして白井の足跡をつづった私なのかもしれない。
 
「読売新聞」2016年2月13日付夕刊が「パリを歌う すみれの花」と題して、「花の種類を変えた背景に、「すみれこそがパリを象徴する花」という白井の強い思いがあったこと」を田畑きよ子が突き止めた、と社会面に大きく取り上げてくれた。「白井は、すみれを野に咲く控えめな花ではなく、レビューの本場を代表する花として捉えていた」ことを「宝塚グラフ」(1973年1月号、宝塚歌劇団出版部)の記事から発見したと報じている。この新聞記事と拙書を、毎日放送の浜村淳さん宛てに送ったら、「白井先生とは、宝塚の花の道ですれ違ったことがある。あのときお話をしておけばよかった……」と、ご本人から直接電話をいただいた。翌日のMBSラジオ『ありがとう浜村淳です』では、「よく調査されている。本を読んでから舞台を観るとまた違った観劇が楽しめる」と紹介してくださった。
 タカラヅカは、歌舞伎のように代々芸を引き継いでその芸を極めていくというようなことはないが、個々の、それぞれの個性的な演技が光る。そしてスターもいつかは卒業してトップも次々に変わっていく。だからこそ、宝塚はいつまでもフレッシュさを失わない、という構図が成り立つ。そのぶん宝塚は新陳代謝が激しい、花の短い命を競い合うような集団であり、ここに宝塚の人気の秘訣がある。こうしたアマチュアリズムが根底にある宝塚だからこそ、美しい色彩と甘美な音楽が似合い、歌あり、舞いあり、演技ありの舞台が、新時代の演劇として成り立ったのである。
 白井が育ててきた宝塚レビューは、新たな発展の道を歩み続けている。これが宝塚歌劇100年の歴史に、そして次の100年へとつながる道なのだ。本書は、白井の過去の栄光にスポットを当てて昔を懐かしむものではない。原点に戻って、「宝塚とは何か」と考える機会になれば幸いである。
「文字が小さい」「内容が濃くてなかなか読み進まない」という声が届くが、書くのに3年かかったのだから、3年かけるつもりでじっくりと読んでほしいと思っている。

散逸した史料を丹念に収集して――『帝国日本の交通網――つながらなかった大東亜共栄圏』を書いて

若林 宣

 書いているときは夢中で気づかなかったが、こうしてできあがってみると、総論的なものではないどころか、マイナーな話ばかりをあれこれと詰め込んだ変わった本になったように思う。一体、どうしてこうなったのだろう。
 本書を著すにあたって意識したのは、まず情報の得がたさである。国内の国鉄であれば、技術者の名前から個々の車輌の性能にいたるまで、調べることは比較的困難ではない。その一方で、日本の支配下にあったにもかかわらず、朝鮮や台湾の鉄道に関しては、沿革でさえ知ることは難しい。本書では、そういう難しい分野を特に選んでみたつもりである。たとえば第4章では南洋群島での航路の開設や伸張について記したが、これは、この地域に関しては基本的な情報そのものが得がたい状況を考えてのことである。ゆくゆくは、サイパンなどの築港事業などについても調べたいと考えている。また第1章では満鉄などの「三線連絡運賃問題」を取り上げたが、門戸開放という原則が徹底されていなかったことにつき、国際問題という観点からの研究の進展を望みたいと考えている。
 次に、意識したのは抵抗と弾圧である。
 たとえば第1章では、植民地の鉄道について、単なる「何年にどこからどこまで敷設」式の記述ではなく、どのような土地になぜ、どのようにして鉄道を敷いたのかについて意識するようにした。とりわけ朝鮮半島では、日本による併合前に、日本の手によって線路が敷かれている。はたしてそこに朝鮮側からの抵抗はなかったのだろうか。もしあったとすれば、それに対する日本側から弾圧はなかったのだろうか。こういった植民地での交通機関に関係してくる抵抗と弾圧については、第2章でも台湾の航空事業の記述で強く意識して書いたつもりである。第6章も、とりわけ日中戦争での中国側の抵抗については意識して書いた。
 だが、どれほど強圧的な政策の下におかれようと、人々は生きていかなければならない。戦前、「東洋のマンチェスター」ともいわれた大阪には、朝鮮半島各地から労働者が多数流れ込んだ。そのうち済州島出身者の来阪と帰郷を支えた阪済航路は、内発的に誕生した朝鮮人主導の組合も参入して激しい競争が発生するなど独特の歴史を有している。そのことにいくばくかのページ数を割いたのは、「生きていかなければならない」人たちの足跡を少しでも多くの人に知ってもらいたかったからである。なおこの件に関しては、当時の新聞記事のほか、杉原達『越境する民――近代大阪の朝鮮人史研究』(新幹社、1998年)を大いに参考にした。拙著で関心をもっていただけたら、ぜひとも同書にも当たっていただきたい。そこには、悲喜こもごもな人々の息吹が収められている。
 内モンゴルは、帝国日本のなかでも特異な地位にあった。日中戦争前は関東軍を中心とする工作の手が秘密裏に進められ、中国の中央政府の手が一時的とはいえ及びにくくなった地域である。内地からは遠隔であり、残された資料も乏しい。そのため一般書に頼ることは難しい状況にある。この地域については、知る人ぞ知る欧亜連絡航空と内蒙工作の関係や、察東事件前後の、これまで知られることがなかったチャハルの自動車交通事業について取り上げた。いずれも内モンゴルを舞台としながら、まったくモンゴル人のためではなく、日本人によって日本のためにおこなわれたところに特徴がある。とりわけ際立っているのは自動車事業で、それまでの中国人による事業を排しながら、建前でさえもモンゴル人を立てることがなく、日本人によって独占してしまったのである。
 第6章での南方占領地の鉄道は、すこぶる情報に乏しい分野である。そこで本書では主として橋梁修理に注目し、これまで陸軍の鉄道聯隊を中心とした記述から離れ、その華々しく描かれてきた成果に疑問を呈し、いままでは顧みられることが少なかった軍属部隊に光を当ててみた。鉄道聯隊の復旧があくまで仮復旧にとどまること、および本格復旧の時期がかなり遅いことを明らかにできたのは収穫だと思う。しかし一方では、収奪の問題などにも触れてはみたものの、こちらは思うようにいかなかったことを認めざるをえない。この問題については、いつかあらためて筆を執りたいと思う。
 1940年(昭和15年)7月、第2次近衛文麿内閣が発足した。このとき外務大臣に就任した松岡洋右は記者会見で、日満支を一環とする大東亜共栄圏の確立を外交方針として述べた。これが「大東亜共栄圏」という言葉が使われた最初の例とされるが、しかしそれより後の南進の結果手中に収めた広大な占領地を一貫経営するための交通手段を確立することは、経済力その他の理由から、最後まで実現させることはできなかった。そのディテールについて、本書を通じて少しでもみなさんに伝えることができればと思っている次第である。

 

私たちの出発点――『クラシック音楽と女性たち』を書いて

玉川裕子

『クラシック音楽と女性たち』を上梓してから、1カ月半あまりが過ぎた。「あとがき」にも書いたことだが、この本が誕生したそもそものきっかけは、執筆者全員が会員である、女性と音楽研究フォーラムが2013年に結成20周年を迎えたことだった。
 同フォーラムでは、これまで会員の研究発表や講師を招いての研究会を中心に、女性作曲家の作品による種々のコンサートを開催してきた。詳細についてはフォーラムのウェブサイト(http://www.ac.auone-net.jp/~women/)を参照していただきたいが、ほかの企画への協力なども含めると、20年の間に開いたコンサートは、レクチャーコンサートなども含めて15回前後にのぼる。それに対して出版活動は、アメリカの音楽学分野でのフェミニズム/ジェンダー研究の第一人者であるスーザン・マクレアリの『フェミニン・エンディング――音楽・ジェンダー・セクシュアリティ』の翻訳(新水社、1997年)1点にとどまる。ほかに、フォーラム創立から15年にわたって代表を務めた小林緑編著による『女性作曲家列伝』(〔平凡社選書〕、平凡社、1999年)があるが、同書には多くのフォーラム会員が執筆しているとはいえ、出版自体はフォーラムとしての事業ではなかった。
 こうしたなか、発足20年を機に、これまで私たちが考えてきたことを改めて世に問うような書籍を出版したいという声が起こった。2012年初秋のことである。もちろん、出版事情が厳しい状況にあることは承知していた。それでも怖いもの知らずのメンバーの声に押されて出版社探しを始めると、なんと引き受けてくださる出版社が見つかったのである。それが青弓社だった。対応してくださった編集の矢野未知生氏は、男性大作曲家のミューズとしての女性をテーマとする書籍はちらほら見かけるにしても、クラシック音楽での女性そのものの活動を正面から取り上げた書籍はこれまでにほとんどないのでぜひ作りましょう、とおっしゃってくださった。それから足かけ4年、本書はついに日の目を見たが、辛抱強く私たちの作業を見守ってくださった矢野さんには、この場を借りて改めてお礼を申し上げたい。
 ところで、女性と音楽研究フォーラムの会員は、なぜ入会したのだろうか。演奏家から教育者、研究者まで、多方面の職業に携わる個々のメンバーの入会の動機はさまざまである。なかでもいちばん多いのは、女性作曲家と彼女たちの作品に引かれたという理由だろう。クラシック音楽というと男性の作曲家しか存在しないようなイメージがあるが、あるきっかけで女性作曲家もあまた存在したことを知って、これまで彼女たちとその作品が知られていなかった理由を考えながら、できるだけ多くの人に、できるだけ多くの女性作曲家とその作品を紹介したいと考えている会員。あるいは、ある特定の女性作曲家の曲と出合って魅了され、その作品を紹介していきたいと考えている会員。また、作曲家や音楽作品とは違うルートで、女性と音楽の関わりに関心を抱いた会員もいる。たとえば、近代日本での自らの体験や、学術テーマとして家庭教育を考えるなかで、音楽が女性の嗜みとされていた事情に関心を抱いた研究者など。
 編著者である私自身についていえば、個人的体験が出発点になっている。1960年代前半のある日、我が家にアップライトピアノがやってきた。「ピアノやる?」と母にきかれた記憶はない。高度経済成長が始まった時期に、典型的な都市中産階級の家庭で育った娘は、ピアノをやるのが当たり前だった。やるからには徹底的にと考える母のもと、優等生の娘は15年後に音楽大学に入学した。しかしこの頃から従順だった娘は考え始める。なぜ、私はピアノをやっているのだろう? しかも、日本という文化圏で筝や三味線ではなく、西洋音楽を。答えを出す前に音大を卒業。私たちを迎えたのはバラ色の未来ではなく、どうやって食べていくかという問題だった。近代社会で女の子がピアノを習うのは自立のためではないらしいということに気づいた私は、そのほかさまざまな偶然の出会いもあって、この問題を胸に抱きながら研究の道に入っていくことになった。
 当時の私を知る友人の一人が、本書の感想をさっそく送ってくれた。そのなかで、私が30年前と同じテーマを相も変わらず扱っていることに半ばあきれながら(たぶん)、状況が大きく変わっていることもあわせて指摘してくれた。ピアノ教師をしている彼女によると、カルチャーセンターでもピアノ教室は閑古鳥が鳴き、わずかな生徒も年配の方が多いとのこと。そのうちの女性は、働いている母親にかわって孫の面倒をみなければならず、練習時間をとるのに苦労しているとも書かれていた。また70代の男性が『乙女の祈り』を弾きたいと、練習してレッスンにもってきたこともあったという。
 状況は変わった。しかし、いったいどういう方向に向かっているのだろう。よりよい方向に向かっているのだろうか。音楽と関わる道はさまざまなのだから、ピアノを習う子どもが少なくなったことを嘆くのはお門違いだろう。昔、私の世代の女の子たち(と少数の男の子たち)が、いやいやながらピアノを弾かされ、(クラシック)音楽嫌いになるケースが続出していたことを思えば、現代の子どもたちがピアノのレッスンを強要されないのは、むしろ歓迎すべきことだろう。年配の方たちも、好きな曲を楽しんで弾く自由がある。巷には音楽があふれ、その気になれば古今東西のさまざまな音楽にアクセスすることができる。なによりも、多くの女性音楽家たちが活躍しているではないか。
 でもはたして、女性たちは、そして男性たちも、過去3世紀に比べて、より自由に音楽と関わっているのだろうか。もし自由だとして、この自由な音楽との関わりは、すべての人に開かれているのだろうか。2015年に世界で起こった出来事を見るにつけ、音楽によって人種や宗教やジェンダーの垣根が揺さぶられて取り払われ、憎悪を乗り越え、誰もがより豊かな生を謳歌する可能性が開ける、と信じるほど私たちは無邪気ではいられない。そうであればこそ、少なくとも音楽との関わりが差別や他者の排除に加担するような結果にならないよう、注意深く考えていく必要はありそうだ。女性と音楽との関わりを切り口に過去の音楽の営みを振り返ることは、その小さな一歩である。私たちは新たな出発点に立っている。

(2015年12月29日執筆)

 

赤い楳図、黒い楳図、白い楳図――『楳図かずお論――マンガ表現と想像力の恐怖』を書いて

高橋明彦

 2015年が終わろうとしている。今年は全般的にろくでもない年だったように思うが、私にとっては楳図かずおデビュー60周年に間に合って、デビュー作『森の兄妹』刊行日の6月25日に合わせて本書を発表できたという意味でだけ、いい年だった。難産だったこの本は、私も一時期は、出てくれるだけでもう十分、誰も読んでくれなくたっていいよとさえ思っていたのだが、そうした悲しい予感に反して、それなりに好評をもって迎えられ、たいへんありがたいことだと感じている。まず、楳図先生からは拙宅宛てにお花を贈っていただいた。また、書評としては、松田有泉(「サンデー毎日」〔毎日新聞出版〕)、トミヤマユキコ(「図書新聞」)、武田徹(「朝日新聞」)、飯倉洋一(「西日本新聞」)、栗原裕一郎(「週刊読書人」)、風間誠史(「北陸古典研究」〔北陸古典研究会〕)の各氏に書いていただくことができて、望外の幸せとはこのことである。ネットで評してくださった方々も含めて、あらためてお礼を申し上げたい。なお、これらの文章は私の個人サイト(「半魚文庫」〔http://www.kanazawa-bidai.ac.jp/~hangyo/〕)からリンクを張ってあって、すべて読めるようにした。拙著がどれほどすばらしい本なのかは、これらの書評を読んでくれると、それはもう非常によくわかるようになっているのだ。
 冗談はおくとしても、そうすると今度は私自身が自著を評する番かな、とも思う。という次第で、いろいろ書きたい気もするが、いまは次の3点を記しておこう。
 1つ目は、楳図理解に関する私のもくろみについてである。もくろみとはもちろん、これまでの楳図観の更新にある。神田昇和さんによる(感謝!)特徴的 Characteristic(キャラの立った)な装丁の配色になぞらえるなら、楳図には、赤・黒・白の3つの様相がある。赤い楳図とは、テレビやイベントで見せる楽しく愉快な姿であり、「グワシ!」の楳図かずおである(なお、グワシは物をつかむときの擬音を旧仮名遣いで表記したもので、楳図氏本人は「ガシ!」と発音している。楳図マメ知識)。ふだんの氏はハイテンションなわけではなく、あれはあくまでサービス精神旺盛ゆえの一様相なのだ。黒い楳図とは、残酷で陰惨な猟奇趣味の楳図かずおである。『赤んぼ少女』のタマミは、差別され怖がられ憎まれ、そして死んでいった。しかしそこに感じられる憐憫には、甘美な陶酔への誘惑がないだろうか。美にこだわり醜さを恐れ、その間に停滞し沈殿し、汚辱にまみれたわが憐れさに自己陶酔するような、倒錯的な世界である。自分は理想を捨てた下劣で汚れたケモノにすぎないのだ(ちょうどいま日本が罹患している悪性感冒の闇・病みのように)。この黒い楳図を一言で表している楳図自身による言葉が「人など好きになったから、おまえ今日からへび少女」である。知は絶望するためにはたらいている。
 白い楳図とは、理知的かつ倫理的で、知的洞察ゆえに絶望を抱きつつも、その果てに希望を見いだそうとする、求道者であり預言者としての楳図かずおである。
 赤・黒・白の3つの様相は、互いに混じり合い中和されることなく、対立しつつ共存している。さて、私の『楳図かずお論』は、この白い楳図を強調したものである。つまり本書の楳図理解には多少の偏りがある。それは、これまで赤い楳図がデフォルトで、それは決して間違いではないが、あまりに浅い表面的な理解であったし、それに対して楳図に黒さを見いだすことこそが楳図理解だったような面があった、と私は感じてきたからだ。本書はそうした傾向に対する抵抗であり、状況に応じた戦略をとるものであり、実際私は本書で『洗礼』も『赤んぼ少女』も『神の左手悪魔の右手』も、黒ではなく、白い物語として読解したのである。
 なお、白い楳図の具体像は、認識論から存在論へと遷移した恐怖として、一般化することができる。認識論的恐怖を一言で表している楳図の言葉が「追っかければギャグ、追っかけられれば恐怖」であり、存在論的なそれを表す言葉が「宇宙ではどんな想像も許される」であるが、これらの詳細については本書でるる述べている。念のため簡単に繰り返すなら、前者は立ち位置によって対象の意味が変化する遠近法主義 perspectivism である。後者は、この世界が存在する必然性はどこにもなかったかもしれないという、偶然的な可能性がもつ恐怖である。ただしこの恐怖は、「可能性が可能性のままでいられるありかた」(九鬼周造)をいうものであり、人間の自由の源泉でもあるのだ。
 2つ目に移ろう。本書において私は自身の文学論(芸術論)を再編成した。楳図論を書きつづってきたこの10年は、私が若い頃から信奉してきた記号学・テクスト理論・脱構築を捨て去るプロセスだった、ともいえる。サバラ!わが青春よ。
 たしかに記号学とテクスト理論が主張したように、超越論的シニフィエ(作品の絶対的意味)は不在であり、意味は未決定である。しかし、いつもどんなときも作品の意味は未決定なのか。私がかくかくしかじかのものとしてこの作品を読むということは、まったくなんらの根拠をもたない空疎で偶然的な暗闇の飛躍でしかないのか。そうではない、と言いたい様々な理論がありうるだろうが、私は本書において、アンリ・ベルクソンの身体論やジル・ドゥルーズのイデア論を利用してこれを述べている。まず、ベルクソンに依拠した、機械論と目的論とをともに超える「ゆるやかな目的論」については、索引を頼りに本書で探してお読みいただければ幸いである。読解は、ああも読めるこうも読めるという単なる知的ゲーム(脱構築)ではなく、それなくしては私が私として生きていけないような、一つの行動性である。それはある種の反知性主義であり(2015年に流行したそれとは違う意味です)、認識(テオリア)に対して行動(プラクティス)を駆動させるものである。
 ドゥルーズについては、本書では個体化の問題(虚構と現実の関係の再編成として)、シーニュの習得論(ベルクソンの知覚との比定において)、モナド解釈(可能世界論批判として)などではふれたが、イデア論については書ききれなかったので、備忘のために記しておこう。元祖たるプラトンのイデア論は本質分有説と呼ぶべきもので、まずイデアの何たるかはあらかじめ決まっている。その本質=正解たるイデアに対して、個々の実在はそれぞれの出来不出来が分有率のごとくに点数化され、序列づけられた存在である。反哲学や脱構築はイデアの完全なる否定を目指したものであろうが、ドゥルーズのイデア論は完全な否定ではなく、問題解決説と呼ぶべき、転倒的なある種の肯定である。イデアとは純然たる問題であって、個々の実在は問いに対する解として、自らを自らが置かれた状況に応じて解として、肯定しうる存在である。出来不出来はさておき、自分はこの状況に応じたあり方で生きているのだ。例えば、美というイデアを体現しているような完璧な美術作品がこの世にすでに存在していたとしても、それでも私にもまだ新たな作品を作る権利があるのは、このドゥルーズ的なイデア論を認めているからである。
 さて、ドゥルーズは、プラトンに加えてイマヌエル・カントも批判しているが、実はカントもまた反プラトン的であって、ドゥルーズに近いらしい。柄谷行人は、カントのイデア(理念)論が構成的理念と統整的理念とに区別されていることを重視している(柄谷行人『世界共和国へ――資本=ネーション=国家を超えて』〔〔岩波新書〕、岩波書店、2006年〕など)。構成的(constitutive)が本質分有的であるのに対して、統整的(regulative)とは、正解は決まっていないが、解を引き出すための目標のようなものだという。言い方を換えればそれは問題解決的である。少し話は飛ぶが、丸山真男に「「である」ことと「する」こと」という有名な論文がある(丸山真男『日本の思想』〔岩波新書〕、岩波書店、1961年)。これもおそらく系譜的にはカントの子孫であり、ドゥルーズや柄谷の兄であろう。デアルは構成的であり、スルが統整的なのだ。丸山には「憲法第9条をめぐる若干の考察」(丸山真男『後衛の位置から――『現代政治の思想と行動』追補』未来社、1982年)という論文があって、今年読んでみて感銘を受けたが、ここでも同じ構えが生かされている。9条は戦争を放棄したデアルの状態を宣言するものでなく、また平和の柵を設置して権力を制限させるものでもなく(それは静的消極的だとしてさほど評価していない)、政策決定を平和へと方向づけスルのだといっている(ただし、丸山は実効的 operative という言葉を使っている)。9条第2項と現実の自衛隊や国家間紛争の存在とは決して矛盾せず、9条が有する動的積極的な実効性は現実の矛盾を超えてなしうる平和運動としてはたらく、というのである。
 いい思想には、モダンもポストモダンもないのだろう。丸山には「現代における態度決定」(『新装版 現代政治の思想と行動』未来社、2006年)というエッセーもある。真理を求める無限プロセスであるところのテオリア(認識)をあきらめ断ち切るときにはじめて行動が可能になるといっているのだが、読解もまた、ああも読めるこうも読めるという知的ゲームではなく、その作品が私の状況にとって、あなたの状況にとって、どんな有効性をもつかということにだけ意味があるのだ。
 3つ目である。本書では『14歳』を具体的に論じることがなかった。いま、私は自分の授業で『14歳』を4年かけて講義している。来年は3年目だが、そう遠くないうちに、私の楳図研究第2弾として『14歳』論を完成させ、出版しようと考えている。分量は手軽な新書程度がいいなあ。タイトルはもう決まっている。「楳図かずおの生命思想――『14歳』を読む」。『14歳』は楳図の現在最後のマンガ作品でSF超大作である。日本の首相や世界の首脳会議を描いて、そしてバイオテクノロジーやメディア戦略、暴力とテロル、貧困と奴隷制、エネルギーと環境問題を描いて、きわめて今日的であり、今年的な作品である。人間的尺度を超えて、そこには生命全体への、愚直なまでの愛がある。それは、恐怖と背中合わせの自由と希望である。
 甘美な絶望をとりあえず拒否して、白い楳図を見習いたいと思う。とはいえ、年内にこの原稿を矢野未知生氏(本書を刊行にまで導いてくれた)に送ることが、いまの私がなしうるせめてもの誠意でしかない。2016年はもっとひどいことが起きるかもしれないが、未来に希望をつかむとき、元気な赤い楳図が再び復活するだろう。グワシ!

(2015年12月25日執筆)