ダーウィン生誕100周年の頃の日本――『天皇制と進化論』を書いて

右田裕規

 今年はチャールズ・ダーウィンの生誕200周年にあたるという。彼の故郷イギリスの事情はわからないが、日本のメディアはダーウィンの特集をぼちぼち組み始めている。誕生月(11月)が近づくにしたがって、その企画や特集の数はさらに多くなるだろう。このたび青弓社から刊行した『天皇制と進化論』も、そういう流れに便乗できればと願っている。
 それはともかく、今年が生誕200年ということは、1世紀前が生誕100周年である。和暦でいうと明治42年(1909年)になる。この1909年頃から、日本でのダーウィン人気は相当な高まりを見せた。マスコミがダーウィンの特集を組んだり、学界が記念行事を開いたり、ビーグル号と日本との関係にまつわる噂話で盛り上がったりと、やはりさまざまな企画で祝っている。昔も今も人間が考えることは変わらないと、そのようにもいえるだろうか。
  とはいえ、100年という時間は長い。1909年の日本人が、ダーウィンやダーウィン進化論をどう受け止めたかは、当然ながら、2009年の日本人とは多少違っている。最大の違いは、進化論が「皇国史観」に反する「危険思想」として社会的に見なされていたという点である。天皇家や民族のルーツを神話の神々に求める「日本固有」の人類観を、真っ向から否定する科学理論。ダーウィン進化論は、そういう意味合いのもと、近代の日本社会に普及していった。
  とくに1900年代(明治40年代)は、皇国史観と進化論の対立にまつわる「事件」があれこれと起こり始めた時期である。皇国史観の信奉者が進化論批判をさかんに繰り出し、進化論の参考書が発禁処分をくらい、左翼運動家たちが(進化論から見た)天皇家の「真のルーツ」を暴露する内容のビラをばらまく、というようなことが、この頃から次々と起こり始めていた。そのなかでどうして1909年(明治42年)のマスコミや学界はダーウィンの生誕100周年を盛大に祝うことができたのか、不思議に思われるくらいである。
 『天皇制と進化論』では、それらの話も含めながら、皇国史観と進化論の対立の歴史を、当時の支配層の目線から追った。彼らは、進化論と皇国史観の対立という問題をどのようにとらえ、どのように処理していったのか。この点を歴史的に追跡した中身になっている。端的にいうと、それは混乱の歴史である。生誕100周年と200周年の間の日本では、皇国史観とダーウィン進化論の対立をめぐって、実にさまざまな政治的ハプニングが生じていく。たとえば「現人神」がアマチュア生物学者としての道を進み、しかもそのことが社会的にも周知の事実になっているという、昭和初期に起こった不可解な事態もまた、その一つである。そういうハプニングの記録を集めた本として、ご一読いただければと思う。

思索し続けるということ――『SF映画とヒューマニティ――サイボーグの腑』を書いて

浅見克彦

  書き物にタイトルをつけようとして、あーでもないこーでもないといろいろ考えていると、しばしば出口のない袋小路に入り込んでしまう。だが、今回の「サイボーグの腑」という副題は、構想の「詰め将棋」に疲れてベッドに体を横たえたときに、何げなく湧き出てきた。恐らくは、デヴィッド・クローネンバーグの世界に接しながら思考を紡ぎ出そうとしていたことが影響したのだろう。とはいえ、このタイトルに魅力を覚えたのは、それがサイボーグ表象に頻出する「ヒューマニティ」の色合いを、微妙に表していたからだ。サイボーグ表象に織り込まれた人間性は、メタリックでエレクトロニックなその身体に「腑」がおさまっているような矛盾を抱えていると同時に、その奥底には私たちが嫌悪する内臓と同じように、「ヒューマニティ」を否定する内実が潜んでもいる。しかも「腑」は、どれほど徹底して否定しようとしても、人間が捨てさることができない存在の基本でもある。
 つまり、この少々異様な副題が意味するところは、サイボーグ表象を通じて人間の現在を考えるということにほかならない。サイボーグ表象には現代文化を生きる人間存在の実情が投影されている、という理解が本書の骨格をなしているということだ。実を言えば、こうした理解の枠組みそのものは、決して目新しいものではない。ジェームズ・G・バラードはフランス語版『クラッシュ』に寄せた序文で、SFが描き出す世界には現代人の心の状態が映し出されていると書いていたし、室井尚の『情報宇宙論』(岩波書店)にも同様の主旨の分析を見ることができる。そして、押井守が『イノセンス 創作ノート』(徳間書店スタジオジブリ事業本部)で提出している「人間はなぜ人形に惹かれるのか」「人間にとって他者とは何か」という問いも、同じ枠組みのなかに位置づけられるものだ。その意味では、この書物は少なくとも20年以上も前から問われ続けてきた古い問題を扱っていると言うべきだろう。ただし、そうした自己の鏡像を描き出す物語やサイボーグ存在を、人間がなぜ繰り返し生み出すのか、そしてそうした表象のディスクールが人間をどのような自己意識に導くのかという問いには、これまで十分な答えが出されてこなかった。この本は、この痒いところを掻いてみたい、という主旨の書き物だと言っていい。問題が古かろうと新鮮味がなかろうと、十分な答えが出ていなければ思考し、文字を連ねていく。書き手なる者、とりわけ理論に携わる者は、こうした課題に背を向けてはならないと思う。
  最後にもう一つ。今回は、自分のこれまでの書き物に色気がなかったことを反省し、文字どおり色彩のイメージ世界が立ち上がるような文章を目指した。とりわけ、映像作品を批評するさいにこの点に心を配ったつもりだ。首尾のほどは読者の評価を待つしかないが、文章が映像の迫力を伝えきれていない個所があることは認めなければなるまい。だが、絵と文字というのは、互いの緊張関係のなかで独特の匂いを発するということもある。書き物が映像と相似的になることではなく、映像に寄り添いながらもそれとは違う変異体を生み出すことが大事なのではないだろうか。もちろん、あえてこの緊張の強度を高めながら、映像への「不可能」な介入を仕掛けることは、書き手が諦めてはならない刺激的な冒険なのだけれども。

〈人々の暮らし〉へのこだわり――『戦時グラフ雑誌の宣伝戦――十五年戦争下の「日本」イメージ』を書いて

井上祐子

  昨今の経済状況は〈100年に1度の危機〉と言われている。前回の経済危機(世界恐慌)はちょうど80年前の1929年、アメリカの株価の大暴落に始まり、今回同様急速に世界各国に波及していった。1930年代は世界各国が恐慌から抜け出そうともがくなかでファシズム国家が台頭して国際体制を揺るがし、国際政治的にも危機に陥る時代であり、最終的には第二次世界大戦へ突入していく。日本もまた例外ではなく、その渦中にあった。本書はその時代の日本の社会、戦争、そして日本とアジアの人々の暮らしを写して海外に「日本」を伝えていたグラフ雑誌を紹介したものである。
  私は15年前に戦時下の社会について勉強したいと思って大学院に入ったが、そのときにはこのような研究をすることになろうとは予想もしていなかった。研究分野を決めかねている私に、「広告とかどう?」と勧めてくださったのは、当時の指導教授であり、以来ずっとお世話になっている恩師赤澤史朗先生である。純粋芸術よりも大衆文化的なものの方が好きな私は、「それはいいかも」と思い、飛び付いた。それから戦時下の広告やポスター、漫画などいろいろな印刷メディアを眺める日々が始まる。グラフ雑誌についても国内向けの「アサヒグラフ」「写真週報」「同盟グラフ」などには一通り目を通し、海外向けの「FRONT」を含めて、論文にも少し書いた。
  拙稿に目を留めてくださった青弓社から当初提案された企画は『「NIPPON」と「FRONT」』というタイトルで、2002年から復刻版の刊行が始まった「NIPPON」を題材にして、「FRONT」と比較考察しながらグラフ雑誌が展開した対外宣伝について論じるというものだった。「アサヒグラフ海外版」の存在を知ったのがいつだったか覚えていないが、私はそこに「アサヒグラフ海外版」も入れ、むしろ「アサヒグラフ海外版」を軸に書きたいと申し出た。青弓社編集部の矢野未知生氏には快諾をいただき、「アサヒグラフ海外版」を引き継いでアジア・太平洋戦争期に出される「太陽」、ジャワ現地で出されていた「ジャワ・バルー」、毎日新聞社が発行していた「SAKURA」も入れて、新聞社のグラフ雑誌を軸として、歴史的経緯を踏まえながら各グラフ雑誌を比較考察していくという本書のスタイルが決まった。
  新聞社、そのなかでも朝日新聞社のグラフ雑誌を軸にした理由は、論文風に硬く言えば、「FRONT」や「NIPPON」とは異なる特質をもち、〈宣伝〉と〈記録〉の間で揺れ動く新聞社のグラフ雑誌を取り上げることで戦時下のグラフ雑誌がもっていた可能性と問題性に関する考察を深めたかったからということになるだろう。しかし、これはいささか格好よすぎる答えで、ザックバランに本音を言えば、スマートでおしゃれな「FRONT」や「NIPPON」よりも、社会や生活の〈記録〉にも力を注ぎ、日本とアジアのさまざまな人々の暮らしを取り上げた泥臭い「アサヒグラフ海外版」の方が私の性に合っていたというのがいちばん大きな理由である。
  思い出話で恐縮だが、私が歴史に興味をもちはじめたのは小学校6年生のときである。当時の担任の先生は、教育熱心な青年教師だった。歴史の宿題は年表の作成だったが、その年表が普通とは少し違っていた。普通の年表のように大きな事件や政治や経済、外交上の出来事を書く欄もあったのだが、それに加えて「農民など人々の暮らし」という欄があって、その欄の方がむしろ大きかった。そこを埋めるには教科書だけでは足りず、参考書や百科事典を調べては書き込んでいた。ちなみにテストも普通のテストではなく、「~について述べよ」という記術式で、「大変よろしい」という二重丸の評価をいただくのがその頃の私の密かな喜びだった。先生は、大きな歴史の流れの背後にある一般の人々の暮らしを見つめることが大切で、両者を結びつけて理解していくことが歴史を学ぶということだと教えたかったのだろう。〈歴史〉といえば〈人々の暮らし〉と思ってしまう習い性は、このときに形成されたのだと思う。
  このようなわけで〈人々の暮らし〉がふんだんに掲載されている朝日新聞社のグラフ雑誌を見ることは、私には興味深い作業だった。しかし、その後が大変だった。内容を追いかけるばかりでは論にはならないのだが、内容に興味をそそられるあまりその紹介に傾斜して、論を組み立てることから離れていく。書いては消し、消しては考え、問題意識を確認し、軌道修正を繰り返した。
  試行錯誤のなかでようやく書き上げた拙い著作ではあるが、図版は豊富に入れることができたので、戦時下の社会を身近に感じていただけるのではないかと思っている。歴史に興味をおもちの方にはもちろん読んでみていただきたいし、「歴史はあんまり……」と思っている方にも一度当時の日本やアジアの人々の姿をのぞいてみていただけたらうれしい。本書がみなさんと戦時下のグラフ雑誌、そしてそのなかに写し出された人々とを結ぶメディア(媒介物)になれば幸いである。

「食」から広がる世界――『もんじゃの社会史――東京・月島の近・現代の変容』を書いて

武田尚子

 「もんじゃ」を切り口に、「食を考えるおもしろさ」を味わっていただきたいと思い、この本を書いた。私たちの頭のなかのグルメ・リストをチェックしてみると、なぜか地名とフードが一緒になってインプットされている場合が多いことに気がつく。月島もんじゃをはじめ、仙台の牛タン、宇都宮の餃子、尾道ラーメンなど、全国レベルで知られているもの、地方レベルで浸透しているものなどさまざまだが、たぶん誰でもすぐに2、3は名前を挙げることができるだろう。ローカルな地名がつくと特別の味わいであるように思われ、食欲をそそられる。
  このようなタイプのローカル・フードは、かつて高度成長期に生協などによって流通ルートが開かれて、地方の農産物が都市の消費者に直接届けられるようになった産直品タイプのローカル・フードとは異なる性格のものである。また、おみやげとして持ち帰る地方名産の郷土菓子とも異なるものである。グルメの時代に新たに登場してきたのは、ある程度の規模の都市で、そこの飲食店に腰をおろして味覚を楽しむローカル・フードである。供される空間やローカルな雰囲気もエンジョイする大事な要素である。だから、アクセスが不便な田舎のローカル・フードではなく、アクセスがいい土地のローカル・フードが有名になりやすい。グルメの時代に登場してきたローカル・フードは、利便性がいい都市におけるローカル・フードとしてプロデュースされたもので、外部から集客するための「媒体(メディア)」として、効果を発揮している。
  「ローカル」と「外部」を媒介しているローカル・フードは、詳しく考えてみるに値する味わい深い食品である。「月島もんじゃ」もこのようなローカル・フードの1つである。単純に昔ながらのローカル色を維持しているだけでは、メジャーにはなりにくい。適度にローカルなテイストを残しながら、外部から来た人をキャッチする何か「旨み」が必要とされる。つまり、ローカル・フードは、もともとその地域に根ざす何か由来があったわけだが、オリジナルなテイストは徐々に変化し、異なる「旨み」が加わり、メジャー化にいたるという、変化の過程があったと考えられる。この本で描きたかったのはその変化の過程であった。
  現代社会は、それぞれの人の好みに合わせた消費が楽しめる高度消費社会である。「食」に関する情報量は増え、流通ルートも多様化し、「食」の「媒介」機能は高まっている。「食」は、高度消費/レジャー社会の重要なアイテムの1つとなっていて、「食」に対する現代人の関心をじょうずに利用することが重要になっている。「食」の「媒介」機能の高まりは、情報・商品の流通、交通機関など社会的基盤の整備、ツーリズム/ビジネスによる人の移動の活発化など、マクロ社会の変化によって促進されている。私たち個々人は、このような環境のマクロ社会のなかで、「食」について恒常的に刺激されつづけている消費者であり、情報を取捨選択して、自分なりの食の楽しみの世界を創り出しているフード・ハンターでもある。「味わう」ことが、生活の楽しみを増す時代に私たちは生きている。味わうことによって、身体にエネルギーが満ち、活力が充実する。自分をとりまく社会についても関心が高まる。一石ン鳥の「食」の楽しさを堪能するメニューはいろいろある。『もんじゃの社会史』を読んだ方々の楽しみの世界がひろがるとうれしい。

ジャンケレヴィッチファン倍増のために――『哲学教師ジャンケレヴィッチ』を訳して

原 章二

  ジャンケレヴィッチのファンは欧米ばかりか日本にも結構たくさんいる。だからその著作も15冊以上邦訳されている。しかし、この希有な哲学者・音楽家・音楽学者の人となり、その哲学と音楽観の相貌を身近から全体的に語ったもの、特にフランスでジャンケレヴィッチがどのように受け取られていたかをフランス人が語ったもの、しかもできるだけ哲学用語を使わずにその本質を語ったものは、これまで日本語で読むことができなかった。
 その意味で、どうみても不肖の弟子にすぎない私にとって、この翻訳はこの歳になってでもやるしかなかった。考えてみれば、師事というと大げさで、単に修士論文と博士論文を見てもらったうちの一人にすぎないのだが、ともあれその一員となったときの先生の歳に自分が近づいている。往事茫々とはいうが、先生のことは昨日のように、その華やいだ顔、話し方、口調、そのトーンまでいきいきと蘇る。こちらがまだ20代の若造で、なんでも吸収するだけの柔軟性をもっていたから当然だが、それにしても誰にとっても、この本のなかでも語られているように、先生の存在は鮮烈なまでに印象的だ。
 そんなわけで勇んで翻訳にとりかかった。本を手にした方はおわかりだと思うが、3分の1くらいのところまでは文字どおり先生の人となりを語っているので、懐かしく思い出しながら、また私と同世代で同じゼミナールに通っていた著者の文なので訳しやすかった。その余勢をかって、ほぼ半分まではよかった。しかし、そこからが大変だった。理由は私の怠惰もあるとはいえ、もう少しまともな理由もある。
 著者が「はじめに──感謝のしるしとしての不実」で明らかにしているように、ジャンケレヴィッチの著作からの引用と、著者がとった講義のノート・メモ(これがそもそもジャンケレヴィッチの実際に述べたことなのか、先生の話を聞きながら著者が思いついたことなのかがわからない)と、そして著者の地の文とが、入り乱れて区別のしようがないのだ。
  むろん、フランス語の原文では、前二者は引用の体裁をとっていて二重鍵括弧でくくられている(ただし、フランス語の本に通例の校正ミスがよくあって括弧の具合がよくわからないところもある)。それでもフランス語としてはまあ読めるのだが、そのまま日本語に訳すと文章の続き具合がどうもうまくいかない。
 これにはほんとうに難渋し、往生した。結局、予想外の年月がかかってしまった。どのように先の難所をクリアしたかといえば、著者が「はじめに」で述べていることを訳者もある程度おこなったのだ。つまり、訳出の過程で、自分も著者と同じ世代で、しかも同じころ同じ教室で講義を受けていたからには、自分がこの本を書いているつもりになって、そこから勢いをもらったのだ。たぶん、それは間違いではなかっただろうと思っている。ともかく、この本のおかげで先生の存在をふたたび身近に感じ、自分がいかに影響されていたかを思い知った。日本のジャンケレヴィッチのファンが少しでも増えて、若い人々をも巻き込んで、難しそうな硬い言葉をふりまわして観念遊戯に耽って学問しているつもりのお偉方が、おのれのカルタの城の心もとなさに少しは愕然とする契機になってくれればいいと思う。それは日本が変わることでもあるだろう。
 ジャンケレヴィッチが言うとおり、この本のなかでも繰り返されているとおり、「誰々がどう言った。だからどうしたというのだ。人生はそんなことのためにあるのではない」。
  まったくこの〈現代思想〉とやらの周辺をめぐって精妙な思索を展開しているつもりのお歴々の空疎さに対する一服の清涼剤としての役割だけは、この本が果たすことができるだろう。ただし、後半はゆっくり読まないとかなり面倒な記述もある。訳者としてはわかりやすく訳したつもりだが、2、3回読んでわからなかったら気にせずに、そこにジャンケレヴィッチの逆説が隠れているのだろう、著者リュブリナもよく消化せず、訳者もうまく訳せなかったのだろう、くらいに思って先に進み、本を閉じてそれで終わりにせずにジャンケレヴィッチのつぎの本に進んでくれたらありがたい。つぎにどれを読むかは「訳者あとがき」に書いておいた。
  最後になるが、著者の略歴はいろいろ調べてみたが、原書に記載されていることしかわからない。いかにもジャンケレヴィッチの弟子らしい振る舞いだ。そこで訳者も同じように年齢を記さなかった。リュブリナも書いているとおり、歳の上下など関係ない。若くても年寄りくさい連中はたくさんいる。歳をとってもジャンケレヴィッチのように若い人間もたくさんいる。

プライバシーをひけらかす人びと――『ポスト・プライバシー』を書いて

阪本俊生

  最近、プライバシーをひけらかす人の話をよく耳にする。集会所の片隅で若いカップルが仲良くしている。彼らは他人がいてもまったく平気といった感じである。電車や教室で鏡を見ながらの化粧直しは言うに及ばず、インターネットで「プライバシー」などと検索してみると、自室の生中継に出くわしたりもする。たくさん人がいる路上で、携帯電話で別れ話をしている女性は歩きながら泣きじゃくっている。感情にまかせて大声でしゃべっているので聞きたくなくとも聞こえてしまう。
  この前、「ミクシィ」なるものを知りたくて、ある学生に頼んで入会させてもらった。するとすぐに何人もの知らない方々から「マイミク」のお誘いが。もちろん各自それぞれの判断で情報に制限をかけているし、情報が本当なのかも定かでないが、それでもプライバシー情報のオンパレード。
  試しに学生のところを訪問すると、何だかとても接近した感じ。親近感がわくというよりはむしろ、いきなり部屋に上がり込んでいったような、大げさな言い方をすれば見てはならないものを見ている感覚に襲われて、はたして入会してよかったのだろうかと悩む私は、おそらく古いタイプの近代人なのだろう。もちろん彼らはプライバシーをひけらかしているわけではないが、それでもこんな世界があったのか、と改めて考えさせられた。
  プライバシーは変容しつつある。これについて明らかにしたいという思いから、この本を書きだしたのは10年前だった。そのときからプライバシーを取り巻く環境は大きく変化した。当時はインターネットも携帯電話もいまほどは浸透していなかったし、9・11のテロも起こっておらず、情報セキュリティへの関心もいまほど高くはなかった。ただその一方で、すでに監視カメラは増え始めていて、住民基本台帳ネットワークシステムをもたらした改正住民基本台帳法が国会で成立するなど、今日の情報化への方向に着々と進んでいた。
  プライバシーの変容の基本的方向性は、このときすでに定まっていたと思う。私のなかにあるのは、一言で表せば、環境経済学などが取り上げるエコツーリズムがいうところの「ゲーム牧場」のイメージである。これはアフリカなどでライオンやキリンなどの野生動物を野放しにして保護や管理をおこないながら生態系の維持にも役立てるというものだ。要するに野放しにしつつ、監視し、管理する。同じことが情報管理社会にもいえるとすれば、いわば「人間のゲーム牧場化」が進んでいるということになるだろう。
  これは東浩紀がいう環境管理型の社会に近いし、デイヴィッド・ライアンやジョージ・リッツァーも似たようなイメージをもっているといえるだろう。私自身もこれらに賛同する。しかし、私がこの本で書こうとしたのはこのことではない。
  この本は、実は、プライバシーの本でもなければ、監視社会論の本でもない。もちろんプライバシーをめぐって書いてはいる。しかしこの本のテーマは、個人と社会のかかわり方とその背景にある社会システムの変化だ。プライバシーを一つの社会意識としてとらえ、その変化を見ていくことから、私たちの社会的自己やアイデンティティの生まれ方について考え、さらにそれを変化させている社会システムの歴史的な変化をとらえようとしている。こう言うと引いてしまう人もいるかもしれないが、プライバシーを深く理解するうえで必要な視点の一つだと思っている。
  もちろんプライバシー意識は今日でも見られる。でもそのあり方は、以前と同じようでいて、微妙に変わってきているのではないだろうか。近代の主体の終わりとよくいわれたりするが、これは実際にどのようなかたちで起こっているのか。このような事態を示唆するような、実際の社会現象は見られないのだろうか。プライバシーへの着目はこうした取り組みの一環である。
  プライバシーの変化が、私たちのアイデンティティのあり方に変化をもたらしてきているとして、それは私たちをどのように変えつつあるのか。その結果、私たちはどうなっていくのか。これらについても、プライバシーの変化の考察はヒントを与えてくれるような気がする。
  プライバシー意識は近代に生まれた。そして今日、それは情報化のなかで、まさに問題の渦中にある。自動車の発明と普及が都市構造や生活スタイルを激変させたように、情報技術の発達と普及も私たちの生き方や存在のあり方を大きく変えつつあるだろう。しかもこちらは私たちのより身近なところ、すなわち身体や内面、親密性といったところに直接働きかけているように思える。
  すでにふれたように、この本はプライバシーについて書いたのではない。情報化がもたらすアイデンティティ形成の文化的・社会的様式の変化を、プライバシー意識の変容を通じて明らかにしようとしている。だから情報化に対する抵抗の戦略について語ろうとはしない。もしこのような抵抗との関連を問われたら、その抵抗が何のためであり、また何への抵抗であるのかについて、立ち止まって考えようというのがこの本である。

メイド・イン・ジャパンのメカなら何でも直すことができる〈日本人〉――『アメリカ雑誌に映る〈日本人〉――オリエンタリズムへのメディア論的接近』を書いて

小暮修三

  まずは、僕がまだアメリカ留学したばかりの頃のエピソードをひとつ。
  ある日、大学院生専用図書館のコンピュータ室でデータ処理をしていたところ、近くに座っていたアメリカ人女性が「オーマィガッ!」とPCを前に慌てふためき始めた。僕が彼女の方に目をやると、彼女は部屋を見渡し、僕と目が合うやこちらに近づいて話しかけてきた。
 「ごめんね、ちょっとファイルが消えちゃったんだけど、元に戻せるかな?」
  どうやら、レポートを書いている最中にデータが消えてしまったらしい。僕は、彼女が使っていたPCをイジり、自動バックアップ用のデータを開いてあげた。彼女は、感謝の言葉とともに、僕がどこから来たのか尋ねた。僕が日本だと答えると、「ちょっと待って」と言って、自分の大きなカバンのなかをかき回し始めた。お礼に何かくれるのかなという淡い期待に少しだけ胸を膨らませながら待っていると、僕の目の前にウォークマンを差し出して、こう言った。
 「これ、ちょっと音の調子が悪いんだけど、直せるかな?」
  あまりにパンチが効いた質問だったので、彼女が言っている意味が全くわからなかった。僕の目が泳いだ状態になると、彼女は日本人だったら直せるかと思って試しに聞いてみただけだと早口で続けた。僕が無理だと答えると、彼女は「じゃぁイイ」と言って何もなかったかのように自分の作業に戻っていった。もちろん、「わけのわからないことを人に頼んどいて、「じゃぁイイ」じゃねぇーよ、無礼なヤツだな、オメェ!」と言い返せなかったのは言うまでもない。
  その後、アジア人留学生やアジア系アメリカ人男性がメカに強く、特に日本人男性であればメカはお手の物だというステレオタイプ(固定観念)が、多くのアメリカ人に根強くあり、その背景となる言説がテクノ・オリエンタリズムと呼ばれていることを知った。少なくとも僕の滞米時期(2000年以降)、日本人男性のステレオタイプは、メガネをかけた出っ歯で、カメラを首に掛け、ジャルパックのカバンを肩から提げて、何にでもお辞儀し、バカ高いみやげ物を買いまくるニンジャの子孫というものではなかった。そこで、本書の「はじめに」で書いたように、アメリカ人の前では、あえて古い日本人男性のステレオタイプに拠った自己紹介をしてウケを狙ったのである。
  ここでウケるか否かは、そのステレオタイプの古典性をどれだけ相手と共有しているかにかかっている。特定の意味作用システムを共有していなければ、そこに「笑い」は生まれてこない。そして、幸か不幸か、当時のアメリカではテクノ・オリエンタリズムの視線の下で、古典的なオリエンタリズムに基づくネタが「笑い」の対象として認知されていたのである。しかしながら、僕がテクノ・オリエンタリズムに基づくネタとして「メイド・イン・ジャパンのメカなら何でも直すことができる」とボケた場合、それは「笑い」ではなく「事実」として受け入れられてしまっていただろう。つまり、そこには特定の意味作用システムが共有されていないのである。このような考察から、テクノ・オリエンタリズムという特定の意味作用システムと、その形成過程についての調査・分析が始まり、古典的なオリエンタリズムの形成も含めた内容の本書を世に問う次第となった。
  そのリサーチは、研究にたずさわる者のご多分に漏れずヒジョーに地味なもので、大学の図書館に常駐し、古雑誌のページをシコシコめくり、必要な部分をスキャンする作業の繰り返しだった。アメリカ人の友人からは、「スキャナーの番人」という称号まで与えられた。そして、あまりにも毎日のように図書館で作業しているものだから、常勤のスタッフと勘違いされてか、はたまたテクノ・オリエンタリスティックなステレオタイプのたまものか、アメリカ人学生にPCやソフトの使い方を聞かれたり、ノートPCの修理を頼まれたり、iPodの使い方まで尋ねられるまでに至る。実際には、そんなもん知らねぇっつーの。しかしながら、そのようなステレオティピカルな視線を日常的に浴びることも、リサーチの収穫のひとつではあった。
  さらにリサーチを進めるなかで、ここでも特筆すべき点は、世界に冠たる科学雑誌「ナショナル・ジオグラフィック」のほぼ1世紀前の写真の「パクリ」を発見したことである。本書でも触れたが、同誌記者の撮影とされる日本に関する最初の「カラー写真」の何枚かが、実際は、日本人カメラマンの撮影によるみやげ物用「彩色写真」をトリミング(切り取り加工)したものだった。これは、シコシコ何万枚もの同誌に掲載された写真を見続けてきた過程で生じた違和感から、日本の古写真をも調べたことによって見つけ出すことができた。この発見によって、オリエンタリズムの相互補完関係という僕のロジックが、より強固なものになったと信じている。と同時に、同誌と同誌日本版発行元から目の敵にされることが想像できる。誠に名誉なことである。

  そんなこんなの明け暮れで、このような研究契機、リサーチ、そしてさらに地味なPCモニター監視員と化した分析を経て書いた本書を、楽しみながら読んでもらえれば幸いである。

『精神病の日本近代』というゴール、そして新たな地平へ――『精神病の日本近代――憑く心身から病む心身へ』を書いて

兵頭晶子

  小学生の頃、家族で六甲山に近い公園へ遊びに行った。広々としてあまり人もいないその公園は、ゴルフ場と住宅地に囲まれていた。住宅地には公園から見えるように白い大きな垂れ幕が下がっていて、そこには「精神病院建設反対」と書かれていた。その一角だけが、緑豊かでのどかな景色には馴染まず、ある違和感を放っていた。
  たいていの子どもにとって(あるいは大人でも)、病院はあまり行きたくない場所だろう。待ち時間は長いし、注射でもされようものなら痛いうえに、薬は苦い。でも、幼い頃から体が弱かった私にとって、病院は点滴や薬で病気を治してくれ、助けてくれる場所だった。だから、どうして病院を建てることに反対するのかよくわからず、隣にいる父に尋ねた。父が何と答えたのか、いまではもう覚えていない。

  縁というのは不思議なもので、十年後、私は公園の隣にできた高校に通い始めた。近くに広い公園があるのが気に入って、その高校に決めたようなものだった。もっとも、在学中は友達とのおしゃべりや勉強に気を取られて、公園まで足を延ばすことは結局ほとんどなかったけれど。かつて精神病院建設が反対された土地は、老人ホームになっていた。
  そして。
  阪神・淡路大震災が起こる数カ月前、ひとりの男性が自殺した。──彼が大学時代からうつ病に罹っていたことを、通夜の席で、遺された子どもたちは初めて知った。

  その頃、「うつ病」という言葉が持つ響きは、いまとはかなり違っていた。だから、子どもたちがもう少し成長してから話そうと思っていたのかもしれない。それに、彼は単身赴任で各地を転々としていたから、ゆっくり話す機会もなかったのかもしれない。
 でも、もしこれが違う病気だったなら。子どもにもわかるように説明したのではないだろうか。たとえ一緒に暮らす時間が少なくても、確かに家族だったのだから。
 ではなぜ、彼は、うつ病という病気を伏せたまま死を選んでしまったのだろう。

  高校を卒業して大学生になった私は、たまたま同郷だった一つ年上の先輩から研究会に誘われた。研究会に参加するようになった私は、卒業論文のテーマを精神病にしようと思った。すると、被差別部落について研究していた先輩は次のようなことを言った。
「精神病は難しいと思うよ。部落と違って、「実態がある」から」
  なにしろ十年前の記憶なので、特に「実態」という表現が正確かどうか自信はないが、とにかく、そういう意味の指摘だったことは覚えている。

  だが。
  精神病と呼ばれる病気が実在することは、病気に悩む当事者や家族への差別を正当化するのだろうか。「間違っている」部落差別の対極に、「正しい」差別なんてあるのだろうか。この世の中に、「あっていい」差別など、はたして存在するのだろうか。
  だから私は精神病をテーマに選んだ。部落差別でもなく、ちょうどその頃、国が隔離政策の誤りを認めたハンセン病でもなく、いまなお差別が続いている精神病についてこそ研究しようと心に決めた。
  ──本書の始まりは、このような原風景のなかにあった。

  現在、私は、学習院大学と大阪大学で非常勤講師として二つの授業を担当している。学習院のほうは病気で入院された先生の代講なので、テーマが既に決まっていた。そこでほぼ十年ぶりに、被差別部落の問題を調べ直すことになった。そして、本当にあきれた話だが、部落差別がいまなお続いていることを知り、心の底から驚いた。
  確かに小学校や中学校で、うろ覚えながらも同和教育を受けたし、現在進行形の問題だからこそ、先輩もいまなお研究し続けているのだ。それでも、なぜだか信じられなかった。
  大正期に喜田貞吉が歴史学の立場から部落差別の迷妄を説き、水平社も設立され、精神病とは比較にならないほどのおびただしい研究が重ねられてきたにもかかわらず、「いわれなき差別」の筆頭とも言える部落差別が21世紀になったいまも続いているなんて、そんなことあるはずがないと思った。
  ──つまり私は、「正しい」とされる差別を追究するあまり、「間違っている」と宣言された差別の側を見落としてしまっていたのだ。

  いまなら、もっと違う本が書ける気がする。
  部落差別も、路上生活者の強制排除や日雇い労働者の住民登録削除に体現される非定住への排斥も、喜田や、同時代に民俗学を樹立した柳田国男が説いたような、前近代の残存などでは決してないことを。そうした差別をいまなお正当化し続ける原理が日本近代の基底にあり、その一環に精神病への差別も含まれているということを。
  もちろんそれは、本書を書き上げたからこそ見えてきた問題に他ならない。

  こうして、『精神病の日本近代』というひとつのゴールは、同時に、新たなスタートラインとなった。
  上記のような本を書き上げたとしたら、次は、どんな新しい扉が開くのだろう。
  ──その扉を開くのは、本書の読者であるあなた自身かもしれない。

1930年代の新聞の魔力――『近代日本の国際リゾート――一九三〇年代の国際観光ホテルを中心に』を書いて

砂本文彦

  この本は、戦前の新聞をずっと読み込んで見えてきたことに記述の多くを依っている。
  東京や大阪で発行された新聞はもちろんのこと、仙台、新潟、栃木、横浜、静岡、長野、松本、豊橋、名古屋、大津、広島、呉、新居浜、高知、佐賀、柳川、熊本、長崎、そして植民地だった京城(ソウル)、大田、釜山。こうした地方紙は現地に行って見る。授業の合間をぬっては各地の図書館を訪ね歩き、閲覧室にこもってせっせとめくる。
 1年は365日。新聞を5年分、10年分と見ていく。新聞のページ数にもよるが、例えば、1930年頃の「京城日報」は、朝から晩まで見ても2カ月分見るのがせいぜい。1年分を見ようとすると、単純に考えて1週間かかる計算だ。万事この調子なので、ずっと見ていると気絶しそうになる。だから、いつ読み終わるとか、そんなせこい計算はしない方がいい。
  最近は、新聞記事がデータベース化されているものもあって便利だが、これは案外もれていたりとか、それこそ文字でデータベース化されない広告やマンガ、タイトルがあいまいな写真は落ちていたりとかで、頼りすぎると足をすくわれる。記事の「余白」に思いがけない発見もあるから、やはり、ここはローテクでも、攻めの気持ちでがんがん新聞はめくりまくるべし。
  大学院生の頃からちまちまと新聞を見る根気が続いているわけは、新聞記事そのものがおもしろいからだ。とくに関心をもった1930年代は、20年代よりもページ数が増すとともに(それはそれで頭が痛いのだが)、内容も充実。1面の政治、外交、経済からめくって社会、文化、スポーツ、芸能、マンガ、そして広告はかなりおもしろい。さらに、どこそこの帝大生がカフェーの姉さんに入れあげて町の話題になった云々の痴話話なんかは、もう、笑うしかない。当時は、男は女に対し、女は男に対し、神秘的なものを感じていた。そのせいか「男の甲斐性とは?」「女も○△なの?」のような、異性を妙に意識した変な連載も真面目に堂々と出てくる。記事の根拠もそうあるわけではないようで、噂話も多くて、「そんなわけないだろう!(笑)」とひとりつっこみをしながら見ていた。この硬軟織り交ぜた紙面構成は、当時の雰囲気を味わえて、かなり笑える。

 わかった! 重要なのは、これだ。笑える感覚が1930年代にあったことだ。

 実は、『近代日本の国際リゾート――一九三〇年代の国際観光ホテルを中心に』も、そんな笑える感覚からできた分厚い本だ。あのとき、どうしてここまで「国際観光ホテル」をつくることが全国的なブームとなり、われ先と身銭を切ってまで外国人を呼ぼうとしたのか。当時のほとんどの日本人は、リゾートなんて見たことも行ったこともないのに。
  本書は、外国人向けの施設整備を始めてからのいきさつと利用の実態を記したが、実は、「外国人をわがまちに!」という類の話が新聞紙上に出てくるのを見るだけでも、充分におもしろい。「わがまちに、ホテルがいるんだ!」と熱にうなされる人々。そんな臨場感というか、高揚感というか、抑制が利かない「近代」というべきか。そういうことが、当時の新聞をめくるとダイレクトに伝わってくる。
  ただ、そんな新聞も、日中戦争ぐらいからあまりおもしろくなくなる。どの新聞をめくっても、わたしがほしい記事がぐっと減る。一時、落ち着いて持ち直すのだが、太平洋戦争開戦が近づくと次第に悲壮感が漂いはじめ、めくるこちらも気分が重い。
  鉄がない、木材がない、油がない。わたしの専門の建築で言えば、釘がないから家も建たない。竹筋コンクリートなんてものも開発される始末。そして1941年の秋頃から、ついに「この冬、暖をとる燃料はあるのか?」の記事まで出てくる。12月の真珠湾攻撃の数日前には、開戦不可避のような文字が挟み込まれ、開戦の翌日は、まさに教科書で見た「米英に宣戦布告」。こうなると、もう、観光やリゾート、住宅地開発とかの浮いた話は、出ようもない。このふたつの戦争の開戦で、新聞はその社会的な役割を大きく変質していったことを痛切に感じた。わたしの歴史文化的な研究の立場から言えば、一次資料としての価値が格段に弱まったことを意味する。
  あともうひとつ。当時の新聞は、新聞社によって編集カラーが全く異なる。現在の新聞は、新聞社としての「主張」は控えめに、支持球団の違いや経済面などの扱いに大小の差がある程度だが、当時の新聞は我田引水の極致というか、主張と噂だらけ。当時、人々は新聞に正しさを期待さえしていなかったのではないか? それよりは、新聞を通して読み手の力を試す社会、という感じか。地方紙はその傾向がもっと強くて、地元出身の誰それが東京で大活躍だとか、植民地で大事件だとか、あるようなないような話が紙面をところ狭しと躍る。新聞はスターを求めていた。そもそも当時の人々は、新聞に中立性なんか望んでもいなかったのだろう。
  そんな紙面構成だったせいか、新聞は戦中になってすべて右に倣うか廃刊に追い込まれ、戦後には改めて報道機関としての中立性が新聞に求められた。時代や紙面が異なれば、同じ新聞といっても、記事がもつ社会的な意義や、ときには正確性まで違ってくるのである。したがって、新聞を研究対象にするとき、字面を追うこと自体はほとんど意味をなさない。
  これではまるで、新聞が役に立たないような書きっぷりだが、決してそうではない。正確性はさておき、ともかくあちこちに散らばった記事を拾い集めると、それこそパズルを合わせるようにひとつの絵が見えてくるのである。多様な(雑多か?)報道があるからこそ、それを可能にしている。そもそもこうした異種格闘技のような新聞の雰囲気は、まるですべてをさらけ出す近所のおじさんのようで、人間臭くて、ある種の親しみをおぼえてしまう。とってもオープンマインドなのだ。
  人というのはいつも正しく倫理に忠実に生きているだけではない。わたしは、どうも、こうした訳のわからない新聞報道が許容された時代の方に、計り知れない魅力を感じてしまう。わたしが人として試されているような気もするのだ。どう考えるんだ?、お前、と。
  考える身体が自分にあることを問いかけ続けてくる1930年代の新聞。それを通してわが身の存在を21世紀のいまに感じられるのが、うれしい。みなさんも、この興奮を体験してほしい。

これまでとこれから――『音楽空間の社会学――文化における「ユーザー」とは何か』を書いて

粟谷佳司

  ポピュラー音楽研究の社会学者サイモン・フリスは、1988年に刊行した著書(Music for Pleasureのイントロダクション)で「ロックの時代精神」について書いていた。フリスによれば、ロックの時代はエルヴィス・プレスリーに始まり、ビートルズで頂点を迎え、セックス・ピストルズで終焉し、それ以降の音楽は時代精神が表現されていないという。私はそれから10年後の98年に刊行した論文でそのことについて論じた(「ロックの時代精神からオーディエンスへ」〔「ポピュラー音楽研究」第2号、日本ポピュラー音楽学会〕、あるいは「カルチュラル・スタディーズとポピュラー音楽のオーディエンス」〔東谷護編著『ポピュラー音楽へのまなざし――売る・読む・楽しむ』所収、勁草書房、2003年〕。なお、本書にはこの部分は収録していない)。このあたりの議論についてはこれから考えていこうと思っているが、本書で考察したのはこのようなロックの時代後のポピュラー音楽の実践ということになるだろうか。フリスについて言及した論文で私は、本書の「ユーザー」の議論にもつながる「オーディエンス」についてミシェル・ド・セルトーを取り上げた。
  本書の理論的バックグラウンドとしてカルチュラル・スタディーズがある。メディアと文化への関心によっているが、これは現代思想や文芸批評の著作を読み始めたころから続いているということに最近気づいた(1984年に出版された吉本隆明の『マス・イメージ論』〔福武書店〕あたりの著作やジャン・ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』〔今村仁司/塚原史訳、紀伊國屋書店〕、『シミュラークルとシミュレーション』〔竹原あき子訳、法政大学出版局〕など)。
  メディアと文化の問題として、本書で考察したアンリ・ルフェーヴル、マーシャル・マクルーハン、テオドール・アドルノなどの議論はこれからの研究で展開させていこうと考えているが、現在はマクルーハンの議論をよく読み直しながら、メディアの形式と音楽や文学などの表現について考えている。マクルーハンは、本書で取り上げたジョディー・バーランドやゲイリー・ゲノスコも言及している(ゲノスコは彼の著作のなかでマクルーハンとともにボードリヤールも取り上げている)。バーランドらはトロントを中心とした新しいコミュニケーション学派とでもいえる研究者だが、彼/彼女らは、カルチュラル・スタディーズや現代思想にも造詣が深く、同時代性を感じる。ちなみに、バーランドとゲノスコは、2004年にトロントでおこなわれたPROBING MCLUHAN: UNDERSTANDING MEDIA CULTURE というイベントでもともに講演している。
  本書はバーランドらの議論を手がかりにして、社会空間と「ユーザー」という観点から音楽やメディア文化の諸問題について論じた。事例の調査は主にミニコミやインターネット上に現れたオーディエンス(ユーザー)の声、主催者へのインタビューを中心におこなった。調査を進めていくうちに、音楽は喜びや悲しみなどさまざまな感情を表現し、心を癒すメディアであり、また人々を結び付ける力があることを実感した。
  音楽にかぎらず、ポピュラーな文化としてあるものは、それを「使用」することによる意味の生産という観点からも考えることができる。本書で取り上げた「つづら折りの宴」のようなイベントは、ポピュラー音楽を「使用」することで人々が協働して作り上げた文化の空間である。このような活動は、「ユーザー」という自律した存在をクローズアップするのだ。
  本書で取り扱った社会空間とメディアや音楽に関する諸問題は、これからも研究で引き続き考えたいテーマである。