最終回 ユーミンの生まれた街で――八王子と国道20号線/国道16号線

塚田修一(東京都市大学・大妻女子大学非常勤講師。共著に『アイドル論の教科書』『失われざる十年の記憶』(ともに青弓社)、『戦争社会学ブックガイド』(創元社)など)

八王子と国道20号線

 先頃上梓した『国道16号線スタディーズ』(青弓社、2018年)で扱いきれなかった国道16号線(以下、16号と略記)沿いの地域について気になる読者がいるかもしれない。そんな地域の一つ、東京都八王子市について、この場を借りて考察してみよう。
 八王子の性格にとってまずもって重要なのは、甲州街道、すなわち国道20号線(以下、20号と略記)である。
 甲州街道の宿場町として栄えた八王子は、交通の要衝でもあり、特に江戸時代後期から明治にかけては、上州や甲州からの生糸が、甲州街道を通って八王子に集まった。また、明治期の八王子は、西陣や桐生、福井などと並ぶほどの、国内でも有数の絹織物産地となる。その商品は「八王子織物」として全国に流通した(1)。

ユーミンと20号線

 この八王子で呉服商として財をなしたのが「荒井呉服店」だった(1912年創業)。アーティスト・松任谷由実の実家である。だから、ユーミンを規定しているのもやはり20号なのだ。彼女の楽曲がもつ「中産階級」性、大月隆寛の指摘を借りれば、「ただ単にカネを持っている、というのでなく、ある程度の「趣味」を支えうるだけのある程度のカネを持てる生活基盤を持ち、またそのカネを正しく「趣味」の分際を守ってゆく程度に使ってゆく、そんな生活上の価値観がぶれることのないある階級(2)」性は、この甲州街道=20号を通ってもたらされたものにほかならない。
「子供の時は自宅とお店がうなぎの寝床みたいに通りを二つ、表通りが甲州街道っていう国道20号線と、裏通りと、間が100メートル以上あるかしら。そこに細長くあって(3)」と語る、20号に面したこの家で、彼女の感受性は養われたという。
「家がイマジネーションかきたてられる場所でもあったっていうか。空想するのが好きな子だった。私のね、全国区の感じっていうのは、その頃の影響かもしれない。すごくたくさん大阪や京都の人の出入りがあったんで、関西弁とか関西ノリっていうのに慣れてたから(4)」
 また、デビュー後のユーミンは、都心からの帰り道にもやはり、都心と八王子を結ぶこの20号を通ることになる。ただし、彼女は20号の高速道路版である中央自動車道を使うことのほうが多かったのかもしれない。よく知られているように、都心から八王子に向かう中央自動車道の風景を歌ったのが「中央フリーウェイ」(『14番目の月』〔1976年〕収録)である。
 松任谷正隆からプロポーズを受けたのもやはり、20号の近くを走るクルマのなかだったようだ。
「〔松任谷正隆からの〕プロポーズも、クルマの中だった。送ってくれる途中でね。中央フリーウェイを八王子で出ちゃうとわりとすぐなんだけど、府中で出て、高幡不動のほうを通って帰ることがあったわけ。気にいってる景色があって、あちらに友達が住んでるということもあったしね。府中で出て、造成地みたいなところ通るときに彼がいったような覚えがあるなあ(5)」

八王子と16号

 だが、それでも気になるのは、八王子、そしてユーミンにおける16号の存在である。ユーミンの実家の「荒井呉服店」は、ちょうど20号と16号とが重なっている(だから、20号でもあり16号でもある)区間に面しているのである(写真1・2)。

写真1 八王子駅近くの国道20号線。この先から20号と16号が重なる(2018年4月26日撮影)
写真2 国道20号線/16号線に面した荒井呉服店(2018年4月26日撮影)

 明治期までの八王子で、現在の16号は産業道路だった。八王子に集まった生糸は、ここから現在の16号を通り、横浜へと運ばれ、諸外国へ輸出された。だからそこは「絹の道」や「日本のシルクロード」と呼ばれた。八王子市内の16号の近くには「絹の道資料館」がある。
 しかし、16号についてのユーミンの認識はそれとは異なるようだ。

ユーミンと16号線

 ユーミンが16号を歌った曲に、「哀しみのルート16」(『A GIRL IN SUMMER』〔2006年〕収録)がある。この曲について、ユーミン自身がこうコメントしている。
「ルート16、国道16号線というのは、横浜や横須賀と厚木、座間の基地を結ぶ米軍の物資を輸送する軍用道路でした。八王子の生まれで、基地も近かったし、私があの頃感じた独特のキッチュ感を、歌に織り込んで……。(略)思い浮かんだのは、国道を疾走する車。フロントガラスを叩きつける激しい雨、土砂降りの雨。昼間なのか、夜なのか、土砂降りの雨でわからない。時刻がわからない。それに前も、先も見えない。募る不安、焦燥感。今日限り、これっきり、という最後の別れのドライブ…………(6)」
 まず、「16号は軍用道路だった」という彼女の認識を確認しておきたい。『国道16号線スタディーズ』の第5章「「軍都」から「商業集積地」へ――国道十六号線と相模原」(塚田修一/後藤美緒/松下優一)でも記述したが、ベトナム戦争中は、アメリカ軍相模原補給廠で修理された戦車がこの道を通って横浜ノースドックへ運ばれた。「わりと湘南方面に友達がいろいろできて、海とか見に行ってたわけ。クルマ持ってる子とじゃないと付き合わなかったから(7)」というユーミンが、友達の車で送り迎えしてもらっていたとすれば、この「軍用道路」としての性格が濃かった時期の16号を通っていたはずである(9)。
 それにしても、「キッチュ」という評価が気になる。確認しておくが、ユーミンはアメリカ軍基地に対しては好意的である。少女時代に立川基地や横田基地に入り浸っていた思い出を語っているし(9)、立川基地を歌った楽曲として、「雨のステイション」(『COBALT HOUR』〔1975年〕収録)や「LOUNDRY――GATEの想い出」(『紅雀』〔1978年〕収録)があることもよく知られている。
 しかしユーミンは、それなりに身近であったはずの16号沿いの神奈川のアメリカ軍基地については歌わないのだ(10)。そしてそれらの基地を結ぶ16号を「キッチュ」と感じていたのである。実際、そんな16号を、ユーミンは「中央フリーウェイ」の実に30年後まで歌わなかった。
 ユーミンにとっての「アメリカ軍基地」とは、あくまで立川や横田のことなのだ。神奈川のアメリカ軍基地、そしてそれを結ぶ16号は、ユーミンにとっては、特別意識することなく、「素通り」するものとしてあったのだ。
 ――いや、こうしたユーミンの振る舞いは、多分、正しいのだ。この「意識されない」「素通りされる」というあり方こそ、本書で描き出した16号のあり方の一つ――本書第7章「不在の場所――春日部にみる「町」と「道」のつながり/つながらなさ」の鈴木智之の言葉を借り受ければ、「不在の場所」――にほかならないのだから。
 そして、「2000年代」以降に浮上する、16号のロードサイドのどこか殺伐とした空気感を「16号線的なるもの」と呼んでその背景を考察し、さらにはそこを生きるトラックドライバーについても考察した(第3章「幹線移動者たち――国道十六号線上のトラックドライバーと文化〔後藤美緒〕)にとってみれば、ユーミンが、2000年代になって「最後の別れのドライブ」の舞台として16号を歌ったこと、しかもその歌詞には「長距離便(トラック)」が歌い込まれていることに、ちょっとした必然性を感じてしまうのである。


(1)八王子市市史編集委員会編『新八王子市史 通史編5 近現代』上、八王子市、2016年、136―138ページ
(2)大月隆寛「みんな〈ユーミン〉になってしまった」『80年代の正体!――それはどんな時代だったのか ハッキリ言って「スカ」だっだ!』(別冊宝島)、JICC出版局、1990年、46ページ
(3)「永遠の不良少女と呼ばれたい」、角川書店編「月刊カドカワ」1993年1月号、角川書店、24ページ
(4)同記事23―24ページ
(5)松任谷由実『ルージュの伝言』(角川文庫)、角川書店、1984年、118―119ページ
(6)BARKS「最新作『A GIRL IN SUMMER』を松任谷由実本人が全曲解説!」(https://www.barks.jp/news/?id=1000023346)
(7)前掲『ルージュの伝言』55ページ
(8)多くの人は意識しないだろうが、「海を見ていた午後」(『MISSLIM』〔1974年〕収録)で歌われ、お洒落なデートスポットとなった横浜・山手(正確には根岸)のレストラン「ドルフィン」の近くには16号線が走っているのだ――八王子と「ドルフィン」を結ぶ道はこの16号線である。
(9)「八王子の家から、20分ぐらいで立川とか横田のベースへ行けたわけ。(略)だいたいはハーフの友達とか、みんな16ぐらいでもうクルマ持ってたから、そういう友達に迎えにきてもらうのよ。ベースに行くとPXでレコードも買えるのね。彼女たちはおしゃれとか男の子に夢中で、どうしてそんなにレコード買いあさるのよ、って変な眼で見てたけど、私はもうレコードに夢中。輸入盤は840円ぐらいだったんじゃないかな」(前掲『ルージュの伝言』42―43ページ)。
(10)岡崎武志は、「天気雨」(『14番目の月』〔1976年〕収録)に歌われる「白いハウス」は、米軍座間キャンプ内の米兵住宅のことではないかと推測している(岡崎武志『ここが私の東京』扶桑社、2016年)。ただし、それは16号線ではなく、「相模線にゆられて」ながめているものである。

 

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第8回 国道16号線の団地とニュータウンをめぐる――八千代市周辺を学生とドライブする

佐幸信介(日本大学教授。共著に『失われざる十年の記憶』〔青弓社〕、『触発する社会学』〔法政大学出版局〕など)

はじめに

 国道16号線(以下、16号と略記)を白井市や船橋市、八千代市、千葉市のあたりを車で走っていると、様々な「団地」や「ニュータウン」に出合うことができる。古いものも新しいものもある。
 郊外を論じる際に多摩ニュータウンが取り上げられることが多い。『失われざる十年の記憶――一九九〇年代の社会学』(青弓社、2012年)のなかで「郊外空間の反転した世界」を論じたときも、私自身が想定していたのは多摩センター周辺の郊外だった。しかし、16号を補助線にしてみると、あらためて東京以外の神奈川、埼玉、千葉にある多様な郊外型の集合住宅群の空間的なボリュームの大きさに気づかされる。16号は、団地やニュータンの歴史をたどり直すことができる格好のフィールド・ロードである。
「住宅55年体制」という言葉がある。戦後政治の55年体制に意味を重ねた言い方で、住宅の分野でも「戦後体制」が1955年に始まったことを指している。住宅金融公庫(1950年)、公営住宅法(1951年)に加えた住宅公団の設立(1955年)の3本によって戦後の住宅政策の整備が進められてきた。この戦後体制は、持ち家政策と住み替え(ハウジング・チェーン)によって、住宅階層を形成した。そして、「持ち家-ハウジング・チェーン-住宅階層」の垂直的な構造は、住むための空間を郊外へと水平的に拡張した。
 しかし、住宅公団は1981年に解散して、その後、住宅・都市整備公団(1981年)、都市基盤整備公団(1999年)、さらに都市再生機構――UR都市機構(2004年―)へと制度再編を経ることになる。現在では、ポスト戦後とか、ポスト・バブルといった言い方がなされ、90年代の後半以降、住宅55年体制のシステムは変容して、住宅の供給と需要のほとんどが市場の論理のなかで進められる。その結果、都市空間の新たなジェントリフィケーションの進行や社会的格差を生み出した。住宅も空き家問題をはじめシステム内が虫食い状態の空洞化が生じている。また、団地やニュータウンの高齢化も問題となっているが、それは人口的な高齢化だけでなく、住空間もまたエイジングするのだということをあらためて思い知る。

ドライブ1――八千代台団地に向かう

『国道16号線スタディーズ』の拙論「死者が住まう風景」を書くために、八千代市や佐倉市に在住している学生にも同行してもらい、八千代市周辺を車で2回ほどドライブした。1回目の取材は主に霊園をまわり、2回目は団地やニュータウンにまで範囲を広げることにした。霊園については、「死者が住まう風景」で検討しているので、このリレーエッセイでは団地やニュータウンに触れてみようと思う。
 まずは、公団住宅で最も古いものの1つである「八千代台団地」。1957年に入居が始まった。京成電鉄・八千代中央駅には石碑がある。テラスハウス型で、2階建ての住戸が連なる住棟がおよそ30棟。こじんまりとした集住空間である。八千代中央駅から5分ほどのところにあり、住宅街のなかにたたずんで建っているという印象。ここを見つけるのに多少迷ったが、八千代台団地を目にしたとき、ある種の感慨を覚える。確かに古くなっているが、同時期の阿佐ヶ谷住宅と同様に、50年代の住宅公団は高層の団地とは別のプランに挑んでいたことがうかがえる。

写真1 八千代中央駅前にある石碑(筆者撮影)
写真2 八千代台団地(筆者撮影)

 住棟の配置はシンプルだが、集住することが集落の形へと空間的に拡張していきそうな可能性があったのでないかと感じる。阿佐ヶ谷テラスハウスもそうだが、この団地もモダニズム的で、もしこの方向性が集合住宅の1つの軸になって試みがおこなわれていたら、私たちの戦後の住む経験も違うものになっていたのではないか。
 以前、仙台市の市営住宅をプランニングした小野田泰明さんに案内してもらったことがあるが、その集合住宅も集落的だった。八千代台団地を前にして、仙台の市営住宅のことを思い出すと、途絶えてしまった可能性の重要性を感じる。積層型の団地が★戦後的:傍点★な形式として量産されてきたのに対して、仙台の市営住宅のような集合住宅の公的な試みは、熊本の県営保田窪団地や、岐阜のハイタウン北方など限られたものしかない。

ドライブ2――高津団地・村上団地・米本団地

 次は、高津団地、村上団地、米本団地。ある意味で典型的な団地である。
 高津団地は1972年に入居開始。16号から成田街道を習志野方面に向かった、左側のエリアに造成されている。陸上自衛隊習志野演習場がすぐ近くにある。村上団地は、76年に入居開始。16号と東葉高速鉄道・村上駅が交叉するエリアに立っている。この団地は、長期にわたって建設されていて、92年まで新しい住棟が建設されていたようだ。米本団地は、70年に入居開始。16号沿いに立ち、村上駅や勝田台駅との間をバスが運行している。駅が徒歩圏内になく、16号とともに造成された団地である。
 米本団地、高津団地、村上団地の順に新しいが、立地は米本団地が異質である。丘陵地に林立する住棟群である。また、比較的新しい村上団地の住棟は、高層で立てられているものもあり、高層へと向かった住戸プランをみることができる。
 同行した学生たちの感想は、直接的で辛辣でさえある。「マンションだと直接外とつながっている感覚があるが、3つの団地はどこも敷地内には入っていけないような感じがあり、ここに住むにはフィルターが1つあるような印象」とか、「住んでもいいなあと思えるのは、○○団地だけ。町っぽい雰囲気があって、団地の外ともなじんでいる感じがする」「団地に住んだことなく、イメージがいままでもっていなかったけれど、古くなるというのにもいろいろなタイプがあるということがわかった」など。

写真3 高津団地(筆者撮影)
写真4 村上団地(筆者撮影)
写真5 米本団地(16号から、筆者撮影)

 少なくとも現時点では、千葉県の郊外にある団地は、学生にとっては住む対象からは除外されている。かといって集住のスタイルそのものを拒絶しているわけでもないようだ。東京都内の団地をリノベーションしたアートスペースに顔を出す者や、中央区のまだ残っている長屋形式の集合住宅や近くにある銭湯を気に入り、近所付き合いを楽しんでいる者もいたりして、その意味では住むことから派生する経験的な意味の幅を重視している。

ドライブ3――千葉ニュータウン

 印西市から北総線沿いに16号に向かって車を走らせると、これまでみてきた団地とはまったく異質な千葉ニュータウンの風景のなかに入り込んでいく。千葉ニュータウンは、印西市、白井市、船橋市の3つの市にまたがる広域かつ大規模なニュータウンである。駅は、北総線の西白井、白井、小室、千葉ニュータウン中央、印西牧の原、印旛日本医大と6つの駅の範囲におよぶ。計画は1966年に始まり、入居の開始は79年。未造成の更地のエリアがあり、その規模は現在でも拡張し続けている。

写真6 千葉ニュータウン(筆者撮影)

 荒涼感がある平地に突如として現われた千葉ニュータウンの姿に、「千葉ニュータウンだ!」と車内で声が上がる。北総線沿いの道路には、ファミリーレストラン、ラーメン屋、家電量販店、ホームセンターなどが乱立して、ロードサイドの典型的な風景だ。観覧車も見える。「ビッグホップガーデンって、ちょっと元気ないんだよね」「あの観覧車は、小さい頃1回だけ乗ったことがあるけど、あまりいかなくなった」「イオンモールができたことが影響しているんだろうか?」「ここのファミレスは、日本で一番くらいの売り上げらしい」「ここのスパもけっこうはやっていると思う」――団地では言葉少なだった学生たちが、千葉ニュータウンとロードサイドでは、会話が闊達になったことが印象的である。
「千葉ニュータウンといえば、神聖かまってちゃんのこの曲でしょ」と、車のカーステレオにスマートフォンからBluetoothでつなぎ、「26才の夏休み」という曲が流れ始める。
「26才の夏休み」は、千葉ニュータウンを歌った曲だ。ボーカルの「の子」は、千葉ニュータウンで育った。メンバー4人のうち、3人が幼なじみ。神聖かまってちゃんは、ライブのバンドである。そして、「YouTube」と「ニコニコ動画」とSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)でつながる。
「神聖かまってちゃんは、映画の『ロックンロールは鳴り止まないっ』(監督:入江悠、2011年)が、最初だった」「高校1年か2年のときだよね。あのときは、何か触れてはいけないバンドだと思っちゃってた。でも、高校のときは、ついつい聞いていた」「またライブにいきたくなった。単なるノリじゃなくて、自分もハラハラする感じってほかにないし」「非リア充とか言われたりするけど、そう言われることに、の子は嫌がっているって聞いたことがある」「激ヤバなバンドだよね」(ちなみに、激ヤバは肯定的表現)
 千葉ニュータウンから生まれたロックは、自動車のドライブにはふさわしくない。車から見える整った風景と、車内の音楽、会話とがねじれだす。それは、私自身が神聖かまってちゃんをめぐる学生の会話から、完全に孤立してしまったからかもしれない。スピーカーから流れる、の子の声は、千葉ニュータウンの「僕」の世界を叫んでいる。

 

Copyright Shinsuke Sakou
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第7回 ローソンの「まぶしさ」を想起する――大阪南部のロードサイドの私的記憶から

近森高明(慶應義塾大学准教授。著者に『ベンヤミンの迷宮都市』〔世界思想社〕、共著に『夜食の文化誌』〔青弓社〕ほか)

 均質化、没場所化、非-場所化、郊外化、モール化、ジェントリフィケーション、俗都市化、など――近年の都市空間に対する批評的言説の定型は、一言でいえば、「街がつまらなくなっている」ということである。チェーン店舗の増殖など、生活環境の均質化が進行し、街の個性が消えて、どこにでもある風景が広がっている。定番のテナントが並ぶショッピング・モールが隆盛する一方で、昔ながらの商店街が廃れ、かつてあった盛り場の輝きが失われている。あるいは、一見すると個性的に見える新興の街も、その「個性」は演出されたものにすぎず、記号的に飾られた表層をはがすと、その底には均質的なフォーマットが隠れている、など。
 ロードサイドショップが並び、巨大な看板がそれぞれに自己主張する国道16号線(以下、16号と略記)の風景は、こうした「つまらない」都市的景観の代表格だろう。都市ともいなかともつかないその場所には、交通のフローがあり、それなりの商業施設がそろい、大体のアイテムや情報にはアクセスできる。だがしかし、都市にふさわしい輝き、都市の都市らしさ、街の街らしさが、そこには決定的に欠けている――そのように批評的言説は語るだろう。なるほど、そうかもしれない。
 だが、ここで私たちは思い出すべきである。チェーン店舗やロードサイドショップが、かつてもっていた輝きとまぶしさを。それらはかつて、凡庸ではなく新鮮であり、荒廃のしるしではなく発展の予兆であり、日常への埋没ではなく、大げさにいえば「ここではないどこか」をのぞかせてくれる窓だった。

大阪南部のロードサイド

 個人的な話をする。関西育ちの私にとって、そもそも2000年代以降に都市論や現代社会論の領域で浮上してきた「16号」なるキーワードは、まったくピンとくるものではなかった。だが、ロードサイドショップが並ぶ風景という描写を聞いて、なるほどあれか、と思い当たった。ただし、思い当たる「あれ」は、ひとしなみに語られる16号的な郊外の「荒々しい」「殺伐とした」風景とは、少し違う何かを含んでいた。
 親が転勤族で、あちこちと動いていた(小学校だけで5つの学校に通った)私は、中学の3年間を大阪南部の貝塚市にある、とある海岸近くの場所で過ごした。あたりは田畑ばかりで、点々と宅地が並ぶ、何もないところだった。家の前に、旧国道26号線という交通量が比較的多い道路が通っていて、通学のため駅に向かうには、毎日、その道路を渡っていく必要があった。その道路は、正式には大阪府道204号堺阪南線という名称だが、地元では「旧26=キューニーロク」と呼んでいた(なお、まったくの偶然だが、戦前にはこの路線は「国道16号線」に指定されていた)。
 何もない、とはいえ、目立つ建物はあった。家の近くのパチンコ屋。少し遠くに見えるラブホテル(これは私が過ごした中学の3年間に、3度名前を変えた)。そして駅に行く途中にある靴流通センター。現在の観点からは、見事なまでに「荒々しい」ロードサイドの風景と見えるかもしれないが、当時の私にとって、それは所与の環境であり、とくに違和感はなかった。むしろ靴流通センターは、その巨大さと品ぞろえの多さに目を見張らされ、驚異の的だった。

ローソン出店の衝撃

 1988年、私が中学2年生のとき、近所の消費環境に革命が起きる。ローソンの出店である。それまで商店といえば、駅前の小さな文房具店や駄菓子屋しかなく、少し気が利いたものを手に入れるには、隣駅のダイエーにまで行かなければならなかった。そのような消費環境のなかでのローソンの登場は、中学生にとっては福音であり、衝撃であり、価値観の転換を引き起こす出来事だった。
 雑誌、菓子、日用品と、ありとあらゆるアイテムがそろっている。駅前の小さな駄菓子屋では見たことがない種類のガムやポテトチップスがある(まるでアメリカ文化の豊かさに衝撃を受けた、戦後間もなくの子どもである)。ガラス張りで、外から中の様子がわかり、夜には煌々と蛍光灯がともっている。BGMでも最新の曲がかかっている。それは旧26の郊外を生きる私にとって、近所に出前されてきた「都市」であり、都市的なるもののミニチュア版にほかならなかった(コンビニが都市のミニチュアだという指摘は、すでに若林幹夫がおこなっている)。「ローソン」は、中学生の同級生のあいだでかっこよさの代名詞になり、夜中に友達と連れだってローソンに遊びにいき、駐車場でアメリカンドッグを食べるという行為が、最先端の、きわめて洗練された行為として私たちには認識されていた。働いている店員もどこかしら垢抜けて見えたが、これはさすがに幻想がすぎたかもしれない。

ロードサイドの殺伐

 もちろん、旧26にも「殺伐とした」ロードサイドの側面がある。記憶に残っているのは、路上でひき殺された野良犬の姿である。死骸を見かけた初日には、それは姿形がはっきりとしていて、一部がぺしゃんこになり、黒々とした血の染みを道路の上に作っていた。誰も処理をしないまま、死骸は日を追うごとに形を変え、平板さを加えてゆく。駅に向かう通学路にあるので、どうしても毎日、その死骸を見ないわけにはいかない。1週間後には、ビーフジャーキーのように、かすかにそれとわかる毛と表皮が小さく、アスファルト上にこびりついていた。かつて犬だったそれは、無数のタイヤにひかれ、付着して、消え去ってしまった。このひかれた野良犬の姿は、私にとっての旧26の殺伐さを象徴している。

ロードサイドの「まぶしさ」を想起する

 ともあれ、「16号」というキーワードを聞くたびに、私には中学時代を過ごした旧26がそこに重なるのだが、それは「荒々しい」「殺伐とした」風景というよりも、退屈だが所与の環境にすぎず、そのなかにローソンがまばゆい光を放っている、そういう斑状のロードサイドとして想起されてくる。
 こうした見え方は、もしかすると旧26のロードサイドを、私が中学卒業とともに離れ、その時点での見え方がいわば冷凍保存された結果、現在から想起するとそのように見えるのかもしれない。もし旧26に私が住み続けていたとすれば、その連続的な変化のうちに、かつてのローソンのまぶしさが取り紛れ、忘却され、別の見え方になっていたかもしれない。いずれにせよ、「郊外化」や「非-場所化」ということで、何かがわかった気になってしまう語りの平板さ――あるいは生活環境の均質化という、それ自体が均質的な語りの「つまらなさ」――を批判的に留保しながら、「16号的なるもの」の豊かな多面性を語ろうとするなら、私たちはまず、こうしたチェーン店舗やロードサイドショップがかつてもっていた、ある種の「まぶしさ」を想起する必要があるのではないだろうか。

 

Copyright Takaaki Chikamori
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第6回 極私的テレビ・ドキュメンタリーの視聴記録

丸山友美(法政大学大学院博士後期課程、法政大学兼任講師)

 私は『国道16号線スタディーズ』で2つのドキュメンタリー番組を取り上げる予定だ。私がドキュメンタリーに関心をもっているからか、ゼミの先輩であり本書の編者である西田善行さんが、国道16号線(以下、16号と略記)を取り上げた2つのドキュメンタリー番組で書いてみないかと、声をかけてくれた。新しいことへの挑戦は大切だ。そう考えて、私は二つ返事で本書のもとになる研究会への参加を決めた。だが、番組を見始めた途端、私は大きなショックを受ける。

写真1 『ドキュメント72時間』第48回「オン・ザ・ロード――国道16号の“幸福論”」(NHK、2014年6月13日放送)タイトル画面
写真2 前掲「オン・ザ・ロード」の横浜のシーン

 番組の1つ、16号を取り上げた『ドキュメント72時間』に父が出てきたのである。いや、「父」がいるように見えてしまうのである。画面に現れた消防士が、私の父だとは断言できない。父に確認して自慢されても面倒なので、番組を見せることなど絶対にしない。けれども、歩き方、身のこなし、声のかけ方のどれをとっても、私には「父」にしか見えないのである。それは、商店街に1人で暮らす高齢者が救急搬送される場面。取材クルーは現場で近隣住民に話を聞きながら、高齢者の孤独を「16号の風景」として映そうとする。しかし、父がこのエピソードに映り込んでいると「気づいて」から、私の目は全身銀色の父ばかり追ってしまう。搬送者に声をかけ、ストレッチャーを動かす父。救急車に担架を乗せる父、指さし確認している父。私の頭は「16号」を探究するどころか、画面のいたるところに現れる「父」に振り回されてしまったのである。
 映画『アメリ』(監督:ジャン=ピエール・ジュネ、2001年)で主人公が告白するように、私は、画面のなかの物語から逸脱する存在に魅力を感じる。彼女が楽しむように、キスシーンのすぐ後ろの壁で這い回るハエがいないか探したり、俳優が脇見運転する時間を心のなかで数えたりする。メディア論の大家マーシャル・マクルーハンは、映画はシナリオに書かれた言葉よりはるかに豊富な現実(視覚的要素)を映すメディアであるために、余計なものを映し込むのだと指摘する(1)。人間の目よりも優れたカメラが、シナリオよりももっと複雑な現実を映像の内に撮り込んでしまうからだ。ただし、統語法のうえに成立する映画は、その豊富な現実を後景に押しやって、観客に物語世界に没頭するよう要求する。だから、観客はロマンチックな雰囲気を台無しにする壁のハエを見落とすし、事故を起こさない見事な脇見運転テクニックを、熱情を伴った女性への視線として読み込もうとする。『ドキュメント72時間』で出合った「私の現実」は、私がちょっと変わった観客ゆえに見つけてしまったものだった。
『ドキュメント72時間』は、16号の幸福を探すことを目標にしたドキュメンタリーだった。もしかしたら『ドキュメント72時間』は、日常の記録を装いながら、日常に存在する意識が及ばない“盲点”を映しているかもしれない。それは、「私」が見つけた「父」であり、極私的なフィルターを通して構築される“再発見”された16号の面白さである。
 もう1つのTVK『キンシオ』(2010年―)は、画家キン・シオタニのフィルターを通して16号を再発見する番組である。彼は、16号からかなり離れた公民館に車を走らせたり、旧街道(絹の道)を歩いたり、日光街道や奥州街道との交差点を丹念に確認したりする。『ドキュメント72時間』と比べると、キンシオの好みがてんこ盛りで、郊外型の店や人々の語りはほとんど登場しない。平たく言えば、「わかる人だけわかればいい」というタイプの、マニアックな場所や店ばかりなのだ(地元住民からすると「どうしてそこに?」と思う場所かもしれない(2))。キンシオのフィルターを通して再現された16号の面白さは、人々の日常からごっそり落ちた土地の記憶であり、その土地の記憶と出合うには、16号から思い切りはみ出す必要がある。神奈川の走水から千葉の富津に表れる「郊外的」な景色を見落として、彼は地域が育む記憶の積層に「16号の姿」を読み込んでいく。これが、キンシオのフィルターを通して再発見された16号の面白さである(3)。

写真3 『キンシオ』タイトル

 2つの番組には、16号の「内と外」という違いがあるように思える。そうであるならば、16号の幸福を探して、その内側にべったり張り付いた『ドキュメント72時間』には、どんな盲点が記録されているのだろう。このあたりを分析してみたら、国道を描くドキュメンタリーの面白さを説明できるかもしれない。


(1)マーシャル・マクルーハン『メディア論――人間の拡張の諸相』栗原裕/河本仲聖訳、みすず書房、1987年、276ページ
(2)キンシオは横浜では朝食のかわりに文明堂に立ち寄るが、私なら平沼にあるそば屋の角平を紹介したと思う。ここの「つけ天」はおいしさとボリュームを兼ね備え、「つけ天」発祥の店として、週末や大みそかには長蛇の列ができる。私たち執筆メンバーは、2016年3月に1泊2日のフィールドワークを実施した。そのときは、ファミリーレストランのほうが「16号らしい」と思い黙っていたが、瀬谷のサイゼリアで昼休みをとることになり、299円のミラノ風ドリアを口にしたとき、角平でつけ天を食べたほうがやる気が出たなと思ったことを白状しておく(だから、2日目に柏で「ホワイト餃子」を思い切り食べたときは幸せだった)。
(3)とてもマニアックな店や場所ばかりを取り上げる番組で、私が住む横浜を通り過ぎたあとは、何度も眠気に襲われた。しかし、だからこそ、地元民がキンシオの番組を見ると、「ああ、あそこだ!」と言わずにはいられない魅力がある(実際番組には、「見ているよ!」と声をかけてくる人が映り込んでいる)。『出没!アド街ック天国』(テレビ東京系、1995年―)と違うのは、街を知らない視聴者に観光したいと思わせるのではなく、街の住民が見落としている「街の魅力」を見つけることで、街を好きにさせてしまうところにあるように思う。

 

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第5回 杉戸から春日部へ――北村薫「円紫さんと私」シリーズの「町」と不在の国道16号線

鈴木智之(法政大学社会学部教授。著書に『顔の剥奪』〔青弓社〕など)

北村薫「円紫さんと私」シリーズにおける郊外の「町」

 ミステリー作家・北村薫は、デビュー作『空飛ぶ馬(1)』(1989年)を起点として、博識な落語家・春桜亭円紫を探偵役に、女子大学生の「私」を語り手に配したシリーズ作品――「円紫さんと私」シリーズ――を著している。これらの作品では、殺人事件のような重大な犯罪を契機としてではなく、日常生活のふとしたなりゆきのなかに浮かび上がる小さな「謎」をめぐって物語が展開される。
 他方で、一連の作品は語り手である「私」の「成長」の物語でもある。郊外の町に生まれ育ち、地元の女子高を卒業したあと東京の大学の文学部に進んだ「私」は、魅力ある教員や友人たち、そして落語家・円紫との交流のなかで、文学的教養を深めていくだけでなく、とりわけ「事件」との出会いを通じて人間的な成熟を遂げていく。各篇は、19歳から23歳になるまでの日々の緩やかな成長の軌跡を、1コマずつ丹念に追っていく。この間、「私」はずっと両親の家に暮らしていて、謎解きの対象になる「事件」もまたしばしばこの郊外の町に起こる。
 断片的にちりばめられた手がかりから、その「町」は埼玉県杉戸町から春日部市にかけてのエリアであることがわかる。杉戸は作者・北村薫が育った町であり、彼は早稲田大学を卒業後、県立春日部高校の教員を長く務めていた。そして、作中の語り手である「私」の家もまた杉戸にあると推察され、彼女は隣の市(春日部)の女子高に通い、大学生になってからもしばしば市立図書館に足を運んでいる。

「国道16号線」の不在

 杉戸、春日部は国道16号線(以下、16号と略記)沿道の町である(厳密にいえば、この道が杉戸町内を走ることはないのだが)。ところが、「円紫さんと私」シリーズのなかに、16号は一度も登場しない。「町」を舞台とする場面ではしばしば「国道」が描かれるが、それは常に「国道4号線」――旧日光街道――である。国道4号線(以下、4号と略記)は、「私」の生活圏内にあって、「物語」の展開に関わる場所として登場する。だが、16号は存在さえしないかのように、テクストの外部にうちやられている。しかし、作者である北村も作中の「私」も、この道と無縁の場所に暮らしていたわけではない。16号は、北村が教員を務めていた県立春日部高校のすぐ裏側を走っている。

写真1 国道16号線、浜川戸交差点(春日部市南栄町)。春日部高校の裏手にあたる。右前方に伸びているのが16号。左前方が工業団地
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 また作中でも、「私」の家がある杉戸と、通っていた高校や図書館がある春日部の町のあいだを16号は走っていて、「私」が春日部に行くときには、必ずこれを超えていかなければならない。作中に記されているように、「家」から「古利根川」の岸に沿って自転車を走らせるとすれば、「春日部大橋」の交差点で16号を渡ることになる。

写真2 国道16号線、春日部大橋の信号。古利根川との交点

 このように、16号は物語の舞台になるエリア(杉戸から春日部)の中央を走っている。ところが、物語の語り手からは完全に無視されてしまう。だが、このような位置づけ(物語空間からの脱落)は、それなりの必然性をもっているようにも思える。この道は徒歩や自転車を移動手段にする町の人々の往来には使われない産業道路であり、車で移動する習慣をもたない「私」にとっては、「不在」であるにも等しい道だからである。生活空間・物語空間としての「杉戸・春日部」と、「無縁の道」としての「16号」。その(没)関係性を考えることも、「町」と「道」のつながりを論じる一つの回路になるのかもしれない。

物語の舞台としての「道」

 まったく無視されている16号との対比で、物語の舞台として重要な意味をもつ道も登場する。
 1つは4号である。「私」が暮らしている家は、おそらく杉戸町の県道373号線と古利根川のあいだのエリアに位置している。そこから、4号までは歩いて5分もかからない。そして、作中にはしばしば4号沿いの風景が描き出される。例えば「赤頭巾(2)」では、夜遅くに「私」が家を出て深夜営業の本屋にまで足を運んでいる。あるいは、「山眠る(3)」では、子どものころに、雪の日に「父と2人」で行ったことがある思い出の場所として、「国道沿い」の「郵便局」が思い起こされている。
 それは、杉戸町清地2丁目に所在するこの郵便局かもしれない。

写真3 国道4号線沿いの郵便局(杉戸町清地2丁目)

 ただし、その地域にもすでに、確実に「ロードサイド」型の商業施設が進出し始めている。「私」の家の近くの4号沿いには、「ビデオCD」のレンタルショップが「ビリヤード場」と「本屋」を兼ねて開業し、深夜まで営業を続けている。

  こんな時間に家の近くで本屋に入れるなどとは、高校時代には想像もしなかった。去年の冬、国道沿いのガソリンスタンドの隣に、ビデオCDレンタル兼ビリヤード兼本屋がオープンして、深夜までの営業を始めたのである。一方の隣は役場の広い駐車場だし、国道を挟んだ向こう側はカステラの工場である。特に今夜のように暗い夜には、派手とはいえないむしろ沈んだ風景の中で、点滅する極彩色のネオンは魔界の城のしるしのようである(4)。

 一連の作品が描き出すのは、1970年代から80年代にかけて虫食い的に進行していく「郊外都市化」の流れのなかで、高度経済成長期以前の「町」とこれを侵食していく新しい「町」の要素とが混在する、いわば「過渡の風景」だが、ロードサイドの深夜営業の書店やビリヤード場が物語るように、「国道沿い」の風景もまた「郊外型」の開発にしたがって変容している。しかし、重要なことはおそらく、4号は人々の生活の履歴のなかで蓄積されていくさまざまな「記憶」の痕跡をとどめているということである。
 そして、作品世界の構成を考えるうえで重要な、もう一つの道がある。それは、古利根川沿いの道である。「私」が住んでいると思しきエリアから、4号とは逆の方向に進むと、すぐに古利根川の河原に出る。「家」から川に出るルートについては、具体的な記述がある。

  工場の塀に沿って回ると、川に出る。風景が大きくなって気持ちがいい。朝の光で、まぶしい。
 土手は冬枯れの草の筈だが、一面の雪に覆われている。わずかに、川に接する辺りの、ふんわりとした白い裾から、葉先の黄色くなった緑が顔を覗かせている。遠くの橋に近い辺りでは家鴨が泳いでいることもあるが、今日は見えない。水量が減って大きな中州が出来ている。勿論、そこも白だ。元気に走ったらしい犬の足跡が、そんなところに8の字を描いている(5)。

「町」を舞台にした作品では、この古利根川沿いの道が、重要な出来事が起こる場所になっている。「私」が(春日部の)市立図書館に向かって自転車を走らせるのも、『秋の花(6)』でオートバイに乗ったかつての同級生「伊原君」と再会するのも、「山眠る」で母校の教員「本郷先生」と出会うのもこの河原の道だった。彼女の「成長」の節目になる出来事は、しばしば「古利根川沿い」の土手の道で起こる。物語の要所を占める出来事が生まれる場所、それは、ミハイル・バフチンがいう意味での「クロノトポス」である。

写真4 古利根川沿いの道(杉戸町清地3丁目

「私」の成長の物語が演じられる舞台としての「町」。4号と古利根川沿いの道は、その物語に「有縁な場所」としてある。それは、日々の有意味な出来事が生起するトポスであり、人々の生活の痕跡をとどめる「記憶の場所」である。そして、杉戸(生家・小中学校)から春日部(高校・図書館)へ、さらには東京(大学・職場)へとつらなるこの「南北の道」は、そのまま「私」の成長の軌跡を方向づけるルートにもなっている。
 これに対して16号は「記憶なき道」だといえるだろう。ただ移動するだけの、通過するだけの「道」。そこには、出来事の痕跡が刻印されない。何度通り過ぎても、その場所にかつて営まれていた生活の記憶を呼び起こさない。16号はその意味で、この「町」の生活の履歴に対して「無縁の道」である。そして、この町に暮らし、成長していく「私」は、この不在の場所をただ通り過ぎていくだけなのである。


(1)北村薫『空飛ぶ馬』(創元推理文庫)、東京創元社、1994年
(2)北村薫「赤頭巾」、同書
(3)北村薫「山眠る」『朝霧』(創元推理文庫)、東京創元社、2004年
(4)前掲「赤頭巾」246ページ
(5)前掲「山眠る」86ページ
(6)北村薫『秋の花』(創元推理文庫)、東京創元社、1997年

参考文献
北村薫『空飛ぶ馬』(創元推理文庫)、東京創元社、1994年(初出:1989年)
北村薫『夜の蝉』(創元推理文庫)、東京創元社、1996年(初出:1990年)
北村薫『秋の花』(創元推理文庫)、東京創元社、1997年(初出:1991年)
北村薫『六の宮の姫君』(創元推理文庫)、東京創元社、1999年(初出:1992年)
北村薫『朝霧』(創元推理文庫)、東京創元社、2004年(初出:1998年)
『このミステリーがすごい!』編集部編『静かなる謎 北村薫』(「別冊宝島」第1023号)、宝島社、2004年

 

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第4回 トラックドライバーがコンビニエンスストアを変えた?――私の国道16号線見聞録

後藤美緒(日本大学文理学部助手。論文に「戦間期の学生の読書実践」〔「社会学評論」第62巻第1号〕など)

 国道16号線(以下、16号と略記)を走破してみた。一度は後部座席の乗客として全部を、次は運転手として一部区間を走った。ファミリーカー、ワゴン、大型トラックとさまざまな車両がこの道を駆けていく。立場はさまざまだったが、車中にいながら感じたことがある。はたして16号は、とりわけ自動車で移動する者たちにとって走りやすいのだろうかと。
 運転することは快楽であるとともに、思いのほか体を酷使するものだ。長時間運転して体がこわばった、のどが渇いた、気分転換がしたいなど、ドライバーは気ままに思いつく。
 実際にすでに走りだしてから小1時間。ちょうどいい具合にコンビニエンスストアが見えてきた。あそこで一息入れよう。雑誌を立ち読みしてからトイレに行って、甘い物でも買おうか。しかし、はたしてここはコンビニなのか。

写真1 埼玉県春日部市増戸地区を野田市方面から望む(2016年5月1日撮影)

16号上のサービスエリア?

 川口方面からは左手に、野田方面からは右手にそのコンビニは現れる。川口方面から駐車場に入ると、まず目に入るのは10トンを超える大型トラックの鼻先である。駐車スペースを求めて徐行運転すると、それが数台あることに気づき、いま何をしようとしていたのか忘れてしまう(写真2)。よく見ると、ナンバーはさいたまではない。札幌、山形、三重、大分と全国のナンバーだ。ウィンドーガラスには日中にもかかわらずカーテンがかけられ、エンジンが切られた車体同様、運転手たちも休んでいることがうかがわれる。

写真2 駐車場で出迎える大型トラック

 群居する車体を横目に店内に入って入り口付近に目をこらすと、まず飛び込んでくるのは、書体も鮮やかな廉価コミックとCDラック。次に車内用の消臭剤や芳香剤と携帯トイレ、簡易車体用ワックス、そして大容量の水色のカーウォッシャー液である。小さなカーショップ並みの品ぞろえをいぶかしみながら、ようやく書棚にたどり着くと、そこには女性ファッション誌はなく、地図や観光情報、男性マンガ雑誌、生活雑誌、成人雑誌が並ぶ。どうやらお目当てのものはないようだ。それではとトイレに向かうと、男女別に分かれてトイレが3つあることに気づく。こうなるとがぜん面白くなって店内散策に出かける。すると、弁当や飲料だけではなくアルコール類も小型スーパーマーケット並み。男性用肌着も都心のオフィス街レベルの品ぞろえだ。
 サービスエリアの基本設計は、駐車場、トイレ、電話、園地(休憩スペース)で構成されているという。巨大な駐車場に全国のナンバーのトラック、複数のトイレ設備、自動車用品を含む充実した品ぞろえは、あたかも高速道路のサービスエリアのようだ。しかし、ここは16号。幹線道路であって高速ではない。

ドライバーとコンビニ

 コンビニ経営の成立要件は人口密度、配送距離、配送コストの3点だといわれる。ここで取り上げたコンビニは、東北自動車道と国道4号線から車で約10分の幹線道路沿いにあり、近隣には徒歩圏内ではないものの住宅団地が広がっている。最寄りのコンビニまでも距離があり、深夜営業を売りにして競合する存在はない。独立した商圏が十分成立することが予想される。通勤通学途中にあるコンビニは、ちょっとした飲み物やお菓子にはじまり、昼食や夜食の調達、公共料金の振り込みや預金の払い戻しもでき、もはや地域になくてはならないものである。さしずめ、ここは地域のコンビニというところだろう。
 だが、ここではコンビニであるがゆえに、異なる時間と空間を引き寄せているのではないだろうか。2つの大きな道路網に囲まれた、片側2車線で中央分離帯と歩道が整備された春日部市内の16号は、拠点をつないで物を運ぶトラックにとって本来なら最適な道路である。しかし、彼らの欲求をまかなう施設は幹線沿いには見つからない。実際に移動してみると、飲食店にはファミリーカーを基本にした駐車場しかなく、トラック運転手が休息と栄養を補給する場所は必然的に限られる。付近には巨大な駐車スペースを備えた物流センターが散在するものの、そこにとどまってはあまりにも仕事と休息が地続きになってしまう。
 おおよそ、生活に必要なものをまかなえるのがコンビニである。訪れれば必ずこれだけはある、という確信が私たちをコンビニに運ぶ。そこに時間や場所に対する制約はない。それは誰に対してもだ。
 そうしたなか、幹線沿いの商店にとって、得意先を自動車で回る営業マンや運送業社のドライバーは重要な顧客である。昼夜を問わずおこなわれる長距離移動で疲れたトラックドライバーを休ませるのは、ひょっとするといつもの一杯かもしれない。しかも、コンビニは通勤途中だろうが、休日のドライブだろうが、勤務中だろうが理由を問わない。彼らを消費者として取り込もうとしたときに見いだされた身体性が、コンビニをサービスエリア化させ、コンビニの特性である没場所性を奪っていく。けれど、ここはコンビニ。駐車場やトイレは付属設備になり、純然たるサービスエリアになることはない。

 16号ではトラックとファミリーカーをしばしば見かける。それらは並列で、ときには縦列のように走っていることもある。ただ、それらは、一方通行の道を互いに無関心に走っている。また、散在する大型ショッピングセンターでは、ファミリーカーは幹線道路沿いから店舗正面へ、トラックは搬入口のある店舗の裏側に回り、ここでも交わることはない。目的も運転技術も異なる2つのドライバーは潜在的に不協和音を抱えているが、16号上で顕在化することはない。そうした出会わないドライバーが、商業を媒介に対面してしまうのがくだんのコンビニなのだ。
 本リレーエッセーの第2回「国道16号と私――あるいは『国道16号線スタディーズ』の私的企画意図」で西田善行が述べるように、16号は実は地域によってさまざまな表情を見せる。没場所性を有するコンビニは、一部とはいえ、16号と交わることでむしろ独自性を進化させていったのだ。

 

Copyright Mio Goto
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第3回 相模原市緑区巡礼――Walking alone/along R16

松下優一(法政大学大原社会問題研究所環境アーカイブズRA。共著に『失われざる十年の記憶』〔青弓社〕ほか)

 筆者にとって国道16号線(以下、16号と略記)とは、何よりもまず、鉄道駅(JR線および京王線の橋本駅)へ向かうべく、ほぼ毎日のように横切る道路である。幅が広く、交通量が多く、大型車両が行き交うその道を渡るのは、いつも少し億劫だ(たいてい、長い信号待ちや地下道への迂回を強いられる)。電車で各地へ通勤する者にとって16号は、行く手を遮る障害物、多少の緊張感とともに横切る対象として現れる。
 このエリアに暮らしてはや数年になるが、思えば私は16号を横切るばかりで、道に沿って移動したことがないのだった(特に用がなかったからである)。そこで、今回のリレーエッセーでは、16号に沿って歩く、という非日常的な行為に出ることにしたい。区間は相模原市緑区。陸橋続きで、自動車ならあっという間に通り過ぎてしまうような距離だが、その沿線風景を見ていくと「16号的」要素連関が浮かび上がってくる、のではないだろうか。

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写真1 アリオ橋本屋上駐車場から北西=津久井方面を望む(2016年11月29日撮影)

相模原北部から八王子、福生、入間・狭山にかけては、16号のルートのうちで最も“山”が近づく区間である。横浜方面から北上すれば左手に、埼玉方面から南下すれば右手に“山”=関東山地が見える(関東山地は、相模川を挟んで北の秩父山地と南の丹沢山地に分かれていて、相模湖や津久井湖は相模川のダム湖にあたる)。橋本駅に入る京王線や駅周辺の少し高い建物から西の方角を眺めると、山の近さがよくわかる。

 

写真2 国道413号線分岐点前(2016年10月29日撮影

2016年の夏、私たちはメディア報道で「相模原市緑区」という地名をしばしば目にすることになった。「相模原障害者殺傷事件」の現場(津久井やまゆり園の所在地およびその容疑者の居住地)として、である。ただし、「事件が起きた場所は10年前までは相模原市ではなかった(1)」。緑区は、10年に政令指定都市になった相模原市の北部に位置し、JR横浜線・相模線と京王線が乗り入れる橋本駅を中心とした区域と、06年から07年に合併した旧・津久井郡4町(城山町・津久井町・相模湖町・藤野町)の広大な山間部からなる。16号は、緑区の東端をかすめるように走っている。写真は相模原から津久井・相模湖方面へ向かう幹線である国道413号線の分岐点。津久井方面へは葬儀屋の手前で左折、直進すればJR横浜線の踏切。

 

写真3 元橋本交差点付近(2016年10月29日撮影)

横浜線の踏切を渡って北へ行くと元橋本交差点。ここで16号は八王子バイパスと旧道に分岐する。地上に横断歩道はない。

 

写真4 八王子バイパスと多摩丘陵(2016年12月3日撮影)

写真4 八王子バイパスと多摩丘陵(2016年12月3日撮影)
16号緑区区間の北端。墓地の向こうには「境川」が蛇行し、東京都・町田市との境界線をなしている。このあたりは「元橋本」の地名のとおり、お寺や墓地があり、歴史が漂う。16号は境川を越えると東京都道47号線(通称・町田街道)と交差し、多摩丘陵にぶつかる。

 

写真5 元橋本交差点歩道橋上から横浜方面を望む(2016年10月29日撮影)

横須賀から58キロ、横浜から35キロ。新宿まで京王線特急で40分足らず。画面奥のタワーマンションが立ち並ぶあたりに、緑区の区役所ができた。ちなみに現在、首都圏には4つの緑区があり(ほかに横浜市・さいたま市・千葉市)、どの緑区も16号沿線である。

 

写真6 東京電力橋本変電所前(2016年11月22日撮影)

横浜方面に南下すると、向かって左側に、長いコンクリートの壁と送電線、そびえ立つ大小の鉄塔の群れが現れる。この一帯には、住宅地の頭上を送電線が走る“『ウシジマくん(2)』的な風景”が広がる。画面右の信号機には「自転車事故多発地点」という警告看板が立っている。左手に折れると、かなたまで続くコンクリート塀の有刺鉄線が殺伐たる雰囲気を醸している。写真1の右手に見える鉄塔はここに立つ。

 

写真7 小学校入り口(2016年10月29日撮影)

変電所からさらに南下すると左手に小学校。優先されるべき歩行者にはなかなか出会わない。

 

写真8 橋本五差路地下道(2016年10月29日撮影)

さらに南下すると、16号は国道129号線や津久井広域道路などと立体交差し、やや東に折れる。ここも横断歩道はなく、歩行者や自転車は地下道を通らなければならないのだが、枝分かれした地下道は複雑で、方向感覚をまひさせる。そのため往々にして意図せざる場所に出る羽目になる。

 

写真9 ロジポート橋本(2016年10月29日撮影)

五差路の地下道を無事抜けると、左手に巨大な箱のような建物が現れる。物流施設のようだ。やはり沿道に人影はない。

 

写真10 大河原陸橋側道(2016年10月29日撮影)

右手に16号、左手に日本山村硝子の工場。突き当たりはJR相模線、その向こうは神奈川医療少年院、中央区である。中央区の16号は道幅が広い直線区間で、銀杏並木が続き、ロードサイドの商業施設が増え、沿道は華やいで見える。この風景は、基地の痕跡である。道路の直線は戦前の軍都計画の名残だし、相模原初のロードサイド店は、道沿いに休憩施設がほしいという駐留アメリカ軍人や外国人観光客からの声を受けて1955年に開設された相模原レストハウスだったという(3)。

 

写真11 ラブホテル(2016年10月29日撮影)

もちろんある。ロジテック橋本の向かい。奥にもう一軒あり。

 

写真12 相模原機械金属工業団地(2016年11月29日撮影)

ここは大小さまざまな工場が立ち並ぶエリア。この一帯は、さながら巨大な迷路だ。まず、同じような工場や倉庫の建屋が続くので場所の見当をつけにくい。また、歩道がない道路が人を拒み、車両に脅かされる(工業団地なので当然だが)。夕暮れどきに迷い込めば、人外の心細さを味わうことができるだろう。

 

写真13 貸しコンテナ(2016年11月29日撮影)

最近このあたりに増えた気がする。モノは捨てないかぎり蓄積されていく。そして、大都市住民の居住スペースは限られている。これはあふれたモノ、持て余されたモノたちが行き着く先、ということになるのだろうか。

 

写真14 相模原市北清掃工場(2016年12月3日撮影)

写真14 相模原市北清掃工場(2016年12月3日撮影)
ゴミ収集車出動。相模原北部の廃棄物はここに集まる。粗大ごみを持ち込める施設も併設されている。

 

写真15 職業能力開発総合大学校跡(2016年12月3日撮影)

視界が開け、何やら大きな建物が取り壊されている。ここにあった学校は2013年に移転し、それ以後廃墟になっていた。

 

写真16 送電線の狭間の荒地(2016年12月3日撮影)

写真16 送電線の狭間の荒地(2016年12月3日撮影)
立て看板によれば、障害者福祉施設の建設予定地であるようだ。台地を下って少し行けば、相模川に出る。

 

写真16+1 相模川と圏央道(2015年8月10日撮影)

写真16+1 相模川と圏央道(2015年8月10日撮影)
相模川にかかる巨大な橋(県道510号線/津久井広域道路新小倉橋)の上は、足が竦むような高さである。奥の山が城山。手前を横切るのが圏央道の橋梁。画面右奥に城山ダム(ダム上を国道413号線が通る)、その向こうは津久井湖や相模湖が連なるエリアになる。遥拝。もはや16号からずいぶん離れたところまで来てしまった。

****************

 さて、今回の撮影地点は、以下の地図のとおりである。相模原市緑区の橋本エリア(相模川と境川のあいだに広がる台地)を、おおよそ東北南西に巡ったことになるだろうか。ルートとしては途中で16号を外れ、五差路で分岐する県道508号線(相模原から津久井への路線を複数化すべく整備中の「津久井広域道路」)に沿って北西へと向かっているが、この道は中央区から続く16号直線区間の延長線である。地図で見れば単純そうだが、実際に歩くとなれば話は別である。まず途中で歩道がなくなる。また工業地帯の道路が直線ということは大型車両のスピードが出るということであり、沿線の工場から輸送トラックがしばしば出てくるということである。自転車や歩行者は気が抜けず、車が怖くて脇道に逃げ込む。すると工場地帯をさまよう羽目になる。このルートを歩こうとされる奇特な方々はくれぐれも気をつけてほしい。
 なお採録は見送ったが、橋本変電所周辺に立つ送電線鉄塔の風景は、夕映えの山のシルエットとともに実にフォトジェニックである。鉄塔好きなら西へ続く送電線をたどるのも一興だ。橋本駅はアリオ橋本付近の相模線の歩道橋から撮るのがいい(相模線・横浜線・京王線が集散する様子が楽しめる)。境川付近は、曲がりくねった深い谷川に白鷺が歩き、町田街道と多摩丘陵周辺は『ブラタモリ』(NHK、2008年―)的な歴史散歩にもってこいではないだろうか。相模川付近では、段丘上の畑地にたたずむひまわりののどかさに癒される一方で、城山(津久井城)東麓は、巨大な橋梁や山を貫く圏央道、ダムや発電所など新旧の建造物が集中していて(小倉橋は1938年、城山ダムは65年完成、新小倉橋は2004年開通、愛川―高尾山間の圏央道は14年開通)、開発的近代の地層を露出させるかのように織りなす山河と人工物のスペクタクルが目をうつ(4)。やがてこのあたりの風景には、リニア中央新幹線が重なることになる。東京からほぼ途切れなく広がった都市が、“山”にぶつかる場所。東京の西の淵。そこでは20世紀に夢見られた近代的プロジェクトがいまなお作動し、堆積し続けている。


図1 撮影地点
『相模原市・愛川町 第6版』(〔「都市地図――神奈川県」第10巻〕、昭文社、2016年)を利用。


(1)猪瀬浩平「土地の名前は残ったか?――吶喊の傍らで、相模湖町の地域史を掘る」、「緊急特集 相模原障害者殺傷事件」「現代思想」2016年10月号、青土社、232ページ
(2)真鍋昌平『闇金ウシジマくん』(ビッグコミックス)、小学館、2004年―
(3)箸本健二「消費と商業をめぐる相模原市の現代史」、相模原市教育委員会教育局生涯学習部博物館編『相模原市史現代テーマ編――軍都・基地そして都市化』所収、相模原市、2014年、684―685ページ
(4)相模湖周辺の開発については、ひとまず前掲「土地の名前は残ったか?」参照。

 

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第2回 国道16号と私――あるいは『国道16号線スタディーズ』の私的企画意図

西田善行(法政大学社会学部非常勤講師。共編著に『失われざる十年の記憶』〔青弓社〕ほか)

 国道16号線(以下、16号と略記)についての編著を書くと周囲に漏らすと、意外なほどその沿線に住んでいる、あるいは住んでいた人が多いことに気がつく。それもそのはずで、都心から30キロを環状につないでいる16号沿線には、850万人を超える人々が住んでいるのだ(1)。これは千葉県や埼玉県の人口を上回り、神奈川県の人口に迫る規模である。こうした人々のなかには16号を頻繁に利用していた人もいれば、単に横切っていたにすぎない人、まったく利用した記憶がない人もいる。そもそも日常的に16号を利用している人でさえ、自分が普段利用している道が「16号」だと必ずしも認識していないのかもしれない。
 郊外論は自らの郊外体験に多くをよっているという指摘があるが(2)、本書でいえば16号をめぐる個人的体験の差異や、より広く国道とどのような付き合い方をしてきたのか、その国道をめぐる個人史が16号の見方を左右するとも考えられる。そもそもなぜこの『国道16号線スタディーズ』という企画を進めたのかという私的動機には、16号をめぐる私の個人史が関わっている。そのため、ここでは私の個人的な16号との関わりについてふれておきたい。

幼少期の私と16号――市原市

 私は16号沿線地域の、千葉県市原市の出身である。幼いころは京葉工業地域にある企業で働く父に連れられ、何度となく16号を行き来していた。多くのトラックやタンクローリーが往来する産業道路としての16号は、私にとって父の職場を連想する空間であり、田畑と住宅が混在するスプロール的郊外住宅地だった自宅周辺や、家族で買い物に出たときによく通った、イトーヨーカ堂(スーパーマーケット)やすかいらーく(ファミリーレストラン)、ラオックス(家電量販店)、ケーヨーホーム(ホームセンター)、ロッテリア(ファストフード)などが並ぶ駅の近くの県道とは異なる外部空間だった。また、家族で車に乗って千葉市へと出るときにも16号を利用していたため、「外へ出る」ための道路でもあった。16号沿いにあるロコボウル(ボウリング場)やステーキハウスなどにも何度か足を運んでいたが、そこに向かう際には往来が激しい16号を避けて「手前(16号より内陸側)」の道を利用するのが常だった。

国道16号から見た京葉工業地域(2016年3月7日撮影)

高校時代の私と16号――木更津市

 高校時代は木更津市にある公立高校に通っていて、その近くを16号のバイパスが通っていた。駅までの通学ルートとは反対だったため毎日通っていたわけではなかったが、近くに持ち込みができる行きつけのカラオケボックスがあったので、バイパス沿いにあったマクドナルドでセットを買って夕方までカラオケをすることもよくあった。ただし16号は横切ったり、バイパスの下を通ったりしただけで、道路として利用することはなかった。
 私が高校生として木更津に通っていた1990年代前半、木更津の駅前にはそごうをはじめとする大型ショッピングビルが立ち並び、街として活気があったが、その後そごうをはじめ多くの商業施設が駅前から撤退し、16号などのロードサイドのチェーンストアが活況を呈していった(これについては本書で詳述する)。

大学時代の私と16号――相模原市

 大学に入り神奈川県の相模原市で一人暮らしをするようになっても近くに16号が通っていて、初めて16号が首都圏を環状に走っていることに気づいた。また引っ越しの際、当時親戚が住んでいた相模大野まで16号を移動し、チェーン系のレストランなどが密集するロードサイドの景観に、工場が並ぶ市原の16号との違いを感じたことを覚えている。大学にはスクーターで通っていたが、朝夕に渋滞してひどく時間がかかる16号を極力避けて裏道を使うまでに1週間とかからなかった。また、一度16号を使って横浜までスクーターで行こうとしたことがあったが、トラックにあおられて怖い思いをし、疲れて町田で引き返してしまった。

相模原の16号沿いにあるニトリモール(2016年3月6日撮影)

 こうして16号との関わりを振り返ってみると、少なくとも大学を出るまでの二十数年間、16号の近くに住んでいたものの、私にとって16号は少なくとも親しみがもてる対象ではなかったことがわかる。徒歩や自転車、あるいはスクーターで移動する私にとって、16号は外的な存在だったのだ。それはたとえ父が運転する自動車に乗っても同じことであり、自分の意思でそこを通ることができない場として16号を経験していたのである。
 このような16号をめぐる経験は、16号に広がるロードサイドへの否定的感覚へとどこかつながっているのかもしれない。ただその一方で、特に何もないと思っていた16号という1本の国道が、父をはじめとする家族の記憶や高校・大学時代の個人史を想起させたことは意外な収穫だった。歴史性をもたない16号や、あるいは別の国道であっても、そこを生活のなかで利用した経験は、それぞれのライフストーリーのなかに想起可能なかたちで根づいているのではないか。「16号と私」を振り返って改めてそのように思う。


(1)総務省統計局によると、2010年の16号沿線市区町村の人口は852万人となっている。16号沿線地域の統計的基本情報については書籍でふれる。
(2)西田亮介「郊外と郊外論を問い直す」、宇野常寛編『PLANETS SPECIAL 2010 ゼロ年代のすべて』所収、宇野常寛、2009年

 

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第1回 「国境」としての国道16号線

塚田修一(東京都市大学、大妻女子大学非常勤講師。共著に『アイドル論の教科書』〔青弓社〕ほか)

 国道16号線(以下、16号と略記)が都心/郊外の「境界」としての性質を有していることは、しばしば指摘される。その16号が文字どおりの「国境(Border)」になっている個所がある。それがここ、福生である。
 16号の向こう側は、アメリカ空軍横田基地である。許可なしに入ることは許されない、アメリカ合衆国なのだ。

2016年9月27日撮影

にじみ出ていたアメリカ

 かつては、この横田基地から「国境」を超えてにじみ出すアメリカンな文化や雰囲気を求めて、多くの若者やアーティストが福生に集まった。
 例えば、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』(講談社、1976年)は、この福生が舞台である。また、1973年にここに移り住んだ大瀧詠一は次のように語っていた。

「福生のよさ?そりゃ住んでいる仲間たちが素晴らしいということだね。ここには、朝8時半から夕方の5時まで働くような、スクウエアな人種はいないんだ。みんな金はないけど、ミュージシャンになろうとか、絵描きになろうとか、そういう目的をちゃんと持ってる。つまり、みんなビビットに生きているのさ。それが素晴らしいんだヨ」
この福生から、深夜放送『ゴーゴー・ナイアガラ』のワンマンDJを流している大瀧詠一クン(27)は、“わが街”のよさを語る(1)。

 ――だが、現在の福生の16号沿いを「歩いて」みて感じるのは、こうしたかつての「アメリカンな匂い」の希薄化である。
 確かに、16号沿いには多少「アメリカン」な店舗が並んでいるし、16号と沿うように走るJR八高線やわらつけ街道沿いには、古びた米軍ハウスが現在も点在している。だが、現在の福生では、何よりも「基地の街」としてのリアリティーが希薄化しているように思えるのである。

「聖地巡礼」の頓挫

 映画『シュガー&スパイス 風味絶佳』(監督:中江功、2006年)は、「基地の街・東京―福生(ルビ:ふっさ)。アメリカの香り漂う街角で、少年ははじめて“本当の恋”を知る」と銘打っていたように、ここ福生の「アメリカンな香り」を存分に演出した、ほろ苦いラブストーリーである(原作は、山田詠美の短篇小説『風味絶佳』〔文藝春秋、2005年〕)。
 しかしながら、福生でこの映画の「聖地巡礼」を試みるならば、早々に頓挫するだろう。
 JR福生駅前や横田基地のフェンスなど、確かに福生でロケーションがおこなわれた場面もあるが、この物語中で「福生のアメリカの香り」を演出している肝心な個所であるガソリンスタンド――グランマ(夏木マリ)風にいえば、「ガスステイション」――や、主人公2人(柳楽優弥と沢尻エリカ)が同棲する米軍ハウスを、ここ福生で探そうとしても無駄である。実は「ガスステイション」(原作では立川にある設定になっている)は木更津に作られたセットであり(2)、2人が暮らす米軍ハウスは埼玉県入間市の「ジョンソンタウン」――狭山にあったアメリカ空軍ジョンソン基地の跡を利用して、「ハウス」と街並みを保存している地域――で撮影がおこなわれているのである。木更津も入間も「16号つながり」であるのはただの偶然だろうが。
 ここで、ただ「アメリカ文化が廃れている」ことを指摘したいわけではない。
「基地の街としての福生らしさ」を「福生以外の場所」によって演出しなければならないほどに、「基地」の存在が日常に溶解してしまっていること――すなわち、福生の街と「基地」とが、象徴的な意味で「地続き」になってしまっている、ということが言いたいのである。
 その意味で、もはや福生は「基地の街」らしくない。
 では、「国境」としての16号のリアリティーも考え直さなければならないのだろうか。

「国境」が無効になる日に

 いや、そういえば1年に1度だけ、ここ福生がまぎれもなく「基地の街」であることを強く意識せざるをえない日がある。
 毎年横田基地で開催されている、「日米友好祭」である。この日は横田基地が開放され、基地内のアメリカンな匂いを思う存分味わうことができるため、非常に大勢の人がこの基地を目指して福生を訪れ、16号を横断していく。福生がまぎれもなく「基地の街」として意識される日である。
「国境」が物理的に無効になる日に、「基地」の存在が強く意識されるとは、なんとも逆説的な話だが。


(1)「FUSSA=若き芸術家たちの限りなく透明なブルーの世界」「女性自身」1976年7月29日号、光文社、51ページ
(2)宮崎祐治『東京映画地図』キネマ旬報社、2016年、240ページ

 

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はじめに 連載を始めるにあたって

塚田修一(東京都市大学、大妻女子大学非常勤講師。共著に『アイドル論の教科書』〔青弓社〕ほか)

 どういう町なのか?何にゾッとしたのか?ってことを考えてみたんですが、16号線のあの場所には物語の発生する余地がないのかもしれないと思ったんですよ。(富田克也)(1)

 国道の研究を始めた。
 本リレーエッセーの執筆者である私たち——執筆順に、塚田修一、西田善行、後藤美緒、松下優一、丸山友美、鈴木智之、近森高明、佐幸信介、加藤宏——は、いま、『国道16号線スタディーズ』という書籍企画を準備している。
 それにしても、いぶかしがられるかもしれない。私たちは、交通や道路の専門家ではないからだ(私たちが専門にしているのは社会学である)。
 もう少し正確に言い直そう。私たちは国道16号線(以下、16号と略記)をめぐる〈社会〉の研究を始めた、と。
 この「16号」とは、神奈川県横須賀市から千葉県富津市を結ぶ、総延長約341キロの環状国道である。いわゆる「郊外」の都市を結びながら、首都圏をぐるりと囲むこの国道は、「東京環状」とも呼ばれている。

国道16号線
16号線、富津の始点=終点(2016年3月7日撮影)

「16号線的なるもの」

「国道16号線的郊外」という言い方がある。それは「ファミレスやジャスコなどの大型ショッピングセンター、ファストフードなどのロードサイドショップが軒を連ねている均質空間としての郊外(2)」を指す。
 事実、16号沿いにはまさにそのような光景が広がっている。大規模ショッピングモール、TSUTAYA、ブックオフ、ファミレス、紳士服のチェーン店……。それは、三浦展が「ファスト風土(3)」と呼んだ風景であり、また近森高明がレム・コールハースにならって「無印都市(4)」と呼んだものでもある。
 そこには、映画監督の富田克也に「物語の発生する余地がない」場所と語られるような空漠感が広がり、森山大道の写真集『ROUTE16』(アイセンシア、2004年)に切り取られているような、無機質な光景がある。
 このような、16号沿いに醸成されている光景および「空気感」のことを、「16号線的なるもの」と呼んでみることにしよう。
 この「16号線的なるもの」への社会学的関心と欲求が、私たちの研究の出発点である。
 だがしかし、この「物語の発生する余地がない」とまでいわれるこの「16号線的なるもの」を、私たちはどのようにして把握し、記述できるのだろうか。

2つのテレビ番組から

 ここで2つのテレビ番組を参照したい(これらの番組は、丸山友美によって詳細に検討されることになる)。
 1つは、NHK『ドキュメント72時間』の「オン・ザ・ロード 国道16号線の“幸福”論」(2014年6月13日放送)である。
 この番組では、72時間かけて16号を横須賀・走水から千葉・富津までたどり、道中、出会った人々にインタビューをおこなっている。「ホームレスの真似事」といって河原で生活をする男性や、一見不良っぽい17歳のカップル……。彼(女)らの話はどれも興味深い。だが、ここで注目しておきたいのは、この番組で映し出される風景や人物に対して、ある種の既視感(「ああ、これこれ!!」といった)を覚えてしまうことである。この既視感の要因は、この番組が、私たちの「16号線的なるもの」のイメージをなぞっていることにあるだろう。
 このような、「(車で)走って」なぞり、確認される「16号線的なるもの」に対置されるもう1つのテレビ番組が、テレビ神奈川『キンシオ』の「キンシオ特別編 16号を行く」(2012年)である。これも、イラストレーターのキン・シオタニが、5日間かけて16号を車で走破するのだが、この番組が『ドキュメント72時間』と大きく異なるのは、キンシオが「歩いて」いることである。すなわち彼は、道中、あちこちで寄り道をして喫茶店に立ち寄ったり、顔なじみの店を訪れたり(だがその店が定休日であったりする)と、16号沿いの街々で、偶発性と軽妙に戯れてみせるのである。それは、「16号線的なるもの」を直接的に描出しているとは言いがたいが、行く先々で16号沿いの街の新たな表情を引き出すことに成功している。

「走ること」と「歩くこと」

「16号線的なるもの」の把握と記述のために私たちが選んだのは、前述の「走ること」と「歩くこと」の両方である。
 実際に、私たちは1泊2日で16号を車で「走って」、「16号線的なるもの」をなぞって、把握している。
 同時に、それぞれが、自動車による移動が前提とされている16号沿いの街を、文字どおり、あるいは比喩的な意味で「歩いて」もいる。すなわち、ある者はインタビュー調査を、また丹念なフィールド調査を、ある者は文学テクストを、またある者はテレビドラマを、そして映画を通して、16号沿いのそれぞれの街に内在的に分け入り、その記述を試みている。
「走り」ながらも、「歩く」こと。あるいは「歩き」ながら「走る」こと。こうした私たちの試みをつなぎ合わせると、物語なき16号の〈物語〉が浮かび上がってくるはずである。
 本リレーエッセーでは、そんな私たちの思考/試行(あるいは嗜好)の断片をつづっていく予定である。


(1)「splash!!」vol.4、双葉社、2012年、148ページ
(2)東浩紀/北田暁大『東京から考える——格差・郊外・ナショナリズム』(NHKブックス)、日本放送出版協会、2007年、95ページ
(3)三浦展『ファスト風土化する日本——郊外化とその病理』(新書y)、洋泉社、2004年
(4)近森高明/工藤保則編『無印都市の社会学——どこにでもある日常空間をフィールドワークする』法律文化社、2013年

 

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