第35回 スクロヴァチェフスキのブルックナー『第7』

 10月15日、東京芸術劇場でおこなわれたスタニスワフ・スクロヴァチェフスキ指揮、読売日本交響楽団の演奏会に行った。曲目はシューベルトの『交響曲第7番「未完成」』とブルックナーの『交響曲第7番』である。
  席は2階RBD席の前の方。ベストだと思って買ったのだが、実際に座ってみるとちょっと前すぎた。中低弦がやや弱く、金管ではホルンが若干強い。同じような失敗は10月8日、紀尾井ホールでのペーター・レーゼルでもやってしまった。まあ、両日の席とも極端に悪くはないが、思っていたのとはちょっと違う。これは、日頃招待券に依存して、買うことをあまりしていないので、感覚が鈍っていたのだと反省した。
『未完成』は辛口ですっきりした、とてもきれいな演奏だった。弦楽器の人数がかなり減らされていたのは自分の好みではないが(確か第1ヴァイオリンが10人だったか)、でも特に不満というわけでもなかった。
  休憩後のブルックナーはフル編成。第1楽章はいかにも壮大である。席の位置の関係もあるかもしれないが、今年(2010年)の3月に聴いた同じコンビによる『交響曲第8番』よりも音の厚みがいっそう増しているように思えた。オーケストラの細かなミスは散見されたが、ブルックナーらしい深い響きに浸れる喜びをかみしめることができたのである。
  第2楽章も非常に充実した、濃い音で始まった。ところが、4、5分経過したころだっただろうか、突然、自分の目の前に女子高生の顔が浮かんだ。そう、この2、3日前に解体工事現場の壁が崩れ、その下敷きになってわずか17歳の命を散らしてしまった女の子である。なぜこんなときにこの子の顔が、と一瞬たじろいだが、その理由がわかった。それは、開演前に読んだプログラムに掲載されていた宇野功芳のエッセイ「いいたい芳題」である。今回のテーマは「死という宿命、永遠への恐怖」である。このなかでは台本作者・中嶋敬彦氏の文章が引用されている。生まれ出たそのときから死に向かって歩むという宿命を負わされている人間に幸せなどないのではないか、人間は死があるからこそ救いがあり、世の無常から解き放たれるのだ、といった内容である。この女子高生の突然の死は家族や友人にとっては言いようもない悲劇だろう。でもこのエッセイのテーマに沿うならば、この子はほかの人よりも早く、この世の苦しみから解放されたのである。
  わずか1秒にも満たない時間にそんな思いがよぎったが、その瞬間から私にはオーケストラの音色ががらりと変わったように感じられた。とてつもなく崇高だが、限りなく悲痛な音のように。むろん、実際の舞台では特に大きな変化はなかったはずだ。ただ、自分のなかで何かが起こっただけなのだ。
  このことが何を意味するのかは、私にはわからない。もしもこの日の演奏会評を依頼されていたら、自分には的確なことが書けないと思う。ただ、こうした現象が起こったのは、何よりも演奏が優れていたからだと、これだけははっきりと言える。
  後半の2つの楽章も立派だった。第4楽章ではあれこれと細かい操作をおこなっていた個所もあったが、いかにも不自然と受け取れるようなところはなかった。
  この15日と翌16日の両日、発売を前提に録音がなされたという。自分勝手なことを言わせてもらえば、私が聴いた15日の方が製品化されることを希望したい。特にその第2楽章がどうだったのか、改めて聴いてみたい。

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第34回 上岡敏之――ヴッパータール響の“意外な”アンコール

 10月12日、東京オペラシティの「ウィークデイ・ティータイム・コンサート11」に行った。内容は上岡敏之指揮、ヴッパータール交響楽団で、オール・ワーグナー・プロ。まず、『ジークフリート牧歌』に始まり、後半は『ニーベルングの指環』のハイライト。平日の昼間だからチケットなんかいくらでもあるだろうと思ったが、念のために当日の朝チケットセンターに電話した。すると、これがけっこう売れていたが、かろうじてそこそこの席を1枚確保する。
  開演前に指揮者の短い話があったのち、まず最初の『ジークフリート牧歌』である。弦の人数は全く減らさないフル編成。第1ヴァイオリンは14人か16人いたと思う。コントラバスは8人、これは客席からきちんと数えることができた。やはり、これだけの大きなホールであれば、この程度の人数でもぜんぜんおかしくない。以前、同じくフル編成でウラジミール・フェドセーエフがモスクワ放送交響楽団を指揮したチャイコフスキーの『弦楽セレナード』を聴いたことがあるが、厚ぼったいとか、重苦しいとか、そんなふうには全く思わなかった。むしろ、大編成のメリットの方を感じた。その点では今回の上岡の演奏も同じである。ただ、彼の解釈はあれこれと実にさまざまな工夫を盛り込んだものだ。作為的に思えた個所もないとはいえなかったが、全体としては個性豊かな美演奏という印象である。
  後半は「ワルキューレの騎行」とか「ジークフリートのラインへの旅」とか、おなじみの曲が演奏された。ただし、曲と曲との接続部分は耳にしたことがないものだった。これらの曲でも上岡は独自の解釈をみせ、オーケストラもそれによく応えていた。私がいちばんいいと思ったのは「森のささやき」で、次点は「ヴォータンの別れと魔の炎の音楽」だろうか。最後は「ジークフリートの死と葬送行進曲」。地味に終わるので、きっとアンコールは派手にやるだろうと予想した。『ローエングリン』第3幕前奏曲とか、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕前奏曲あたりだろうと。やがて、予想どおりにアンコールが始まる。ところが、頭の中がすっかりワーグナー・モードに切り替わっていたため、何の曲かがわかるまで時間がかかってしまった。「??? これはワーグナーの……何だっけ? えーと、えーと、違う……あっ!、これは『英雄』の第2楽章じゃないか!」。気づくまでに12小節以上も経過していた。
  ベートーヴェンの『交響曲第3番「英雄」』の第2楽章をアンコール演奏した意外性にも驚いたが、もっと度肝を抜かれたのはその演奏内容である。テンポは恐ろしく速い。しかも、そのえぐり取るようなすさまじいエネルギーと狂気は晩年のヘルマン・シェルヘンのライブを思い起こさせた。十分にびっくりさせてもらったが、ふと頭によぎったこともある。
  それはふたつ。ひとつは前回来日したときに上岡が振ったベートーヴェンの『交響曲第5番』と解釈が違いすぎることだ。むろん、『英雄』とは曲も違うし、前回の来日から3年も経過しているので、違っても当たり前とも思えるが、私は一貫性のなさも少なからず感じた。
  もうひとつは、これだけ意表を突くアンコールというのは、メインの印象を希薄にするのではという危惧。それと、お客の側に芽生えてきそうなアンコールへの過度の期待である。もちろん、こうしたことを今後絶対にやってくれるなと言っているわけではない。自分も楽しませてもらったけれど、やはり気になることは気になると、ちゃんと書くべきだと思った次第である。
  いずれにせよ、このように書けるのも、上岡が注目すべき逸材だからだ。このあとの10月18日、ヴッパータール響とのマーラーも楽しみだし、今後予定されている日本のオーケストラとの共演も興味津々である。

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第33回 飯守のブラームス

 飯守泰次郎指揮、関西フィルハーモニー管弦楽団による『ブラームス 交響曲全集』(フォンテック、FOCD9476/8)が発売された。特に何も考えずに、まず「第1番」の頭を鳴らしてみた。すると、響きもたっぷりしていて透明感もある。「かなりいい音だ」と思った。ならば、とほかの3曲も同じく頭の部分をかけてみると、同傾向の音がする。録音機材でも入れ替えたのかと思って帯やら中の解説を見たら、これは最近には珍しくライブではなく、完全にセッションで録ったものだという。収録は2009年4月(「第1番」「第2番」)、10年3月(「第3番」「第4番」)で、場所は大阪のいずみホール。
  私はこのホールには一度しか行ったことがないが、響きのいい中ホール(座席は約800席)だったと記憶する。その響きを十分に生かしたのが今回の全集なのだが、私は猛暑にもかかわらず、ある日の午後に「第4番」→「第2番」→「第3番」→「第1番」という順序で、一気に聴き通した。
  出来のよさにあえて順位を付けるならば、「第1番」、「第2番」、「第4番」、「第3番」となるだろうか。たとえば第1番の冒頭部分、ここは数あるCDのなかでもすごく立派な部類に入る。悠然と堂々と鳴り響き、ティンパニもなかなか雄弁。ブラインド・テストをすれば、「ベーム? ザンデルリンク? クレンペラー? コンヴィチュニー?」なんて声が出てくる可能性がある。主部も実に余裕があり、展開部ではシューリヒトのようにテンポを遅くするが、ここも豊かな響きとあいまって、非常に効果的である。続いては第4楽章に感銘を受けた。たとえば、例の有名な主題が出てくるところ、ここも大変に質のいい音で鳴っている。
「第2番」は第1楽章がよかった。全くの正攻法ながら、弦楽器の響きもきれいだし、管楽器のソロもホールの中にきれいにこだましている。また、第2楽章のすっきりと、やや冷たい感触の雰囲気もよかった。この飯守の「第2番」は、演奏・録音ともに最近発売された小澤征爾指揮、サイトウ・キネン・オーケストラ盤(『ブラームス:交響曲第2番、ラヴェル:道化師の朝の歌、シェエラザード』ユニバーサルクラシック、UCGD-9011/2)をずっと上回っていると思う。
  第4番では第1楽章が個性的だった。ブラームス晩年の孤独を切々と訴えかけるように繊細に歌っているが、決して過度になっていないところがいい。第3楽章では積極的にティンパニを活躍させているのが特徴的だった。
  今後のためにも、いちおう問題点も指摘しておこう。たとえば「第3番」の第3楽章のように、オーケストラ自体にもう少し練り込んだ音が出ればいっそうよかったと思う個所がいくつかある。また、指揮の方では「第1番」の第2楽章や「第3番」の第1楽章のように、いささか無難すぎると感じるところもあった。
  とはいえ、全体的にはすばらしい瞬間がたくさんあり、今後の展開に期待がもてる。いずれにせよ、あえてセッションで臨んだ結果がきちんと出ている点は大いに評価したい。

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第32回 セヴラックのヴァイオリン曲

 先日、お店であるCDを発見した。帯の背文字に「プーレ」とあったので、ヴァイオリニストのジェラール・プーレらしいということはすぐにわかった。そのうえにサラサーテ、ファリャと並んでいるので、内容もだいたい想像はついたのだが、「セヴラック」とあったのには一瞬「?」と思った。それで裏を見ると、なんとセヴラックのヴァイオリン小品が3曲含まれているという。アルバムのタイトルは『ピレネーの太陽――セヴラック、サラサーテ作品集』(キングインターナショナル、KKC-28)。
  セヴラックはドビュッシー、ラヴェルと並ぶ天才と称されたのだが、彼自身は都会生活になじめず、終生南フランスにこもりっきりだった。主に知られているのはピアノ小品で、私も舘野泉が弾いたアルバム『ひまわりの海――セヴラック・ピアノ作品集』(ワーナー/フィンランディア、WPCS-11028、11029)は気に入って聴き、あちこちに書いた(ちなみに、この舘野のセヴラックは、目下のところ彼が両手のピアニストだった最後の録音である)。
  さて、その『ピレネーの太陽』のなかにあるセヴラックのヴァイオリン曲「ミニョネッタ」「セレの想い出」「ロマンティックな歌」は、どれも非常に魅惑的である。たった3曲というのはいかにも惜しいが、ほかにも同種の作品があったらぜひとも聴いてみたいものである。また、伴奏している深尾由美子が弾くセヴラックのピアノ小品も3曲含まれている。
  それ以外の曲はファリャの「ホタ」、ラヴェルの「ハバネラ形式の小品」、サラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」などのおなじみの作品が収録されている。これらの演奏も実に明るくしゃれていて、非常に聴き応えがある。古いヴァイオリニストのように決して形は崩さず、けれども決して薄味な感じがしないのはさすがにべテラン、プーレである。
  なお、知っている人にはくどい話かもしれないが、プーレの父ガストンはドビュッシーのヴァイオリン・ソナタを初演した人である。初演のとき、ピアノ伴奏を受け持ったのはドビュッシー自身だが、息子ジェラールが父ガストンから聞いた初演にいたるまでの秘話は月刊「ストリング」2008年8月号(レッスンの友社)に掲載されている。興味のある方は一読なさるといい。
  いずれにせよこの『ピレネーの太陽』は、酷暑のなかに吹く涼風のようなアルバムだった。

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第31回 盤鬼が盤鬼でなくなる?

  最近、とある人からこう言われた。「平林さんは最近もっぱらオープンリールテープからの復刻をやっていますが、そうなると、盤鬼ではなくなるんですか?」。確かに、ここ最近発売した復刻盤はすべてオープンリールからのもので、近々発売を予定しているパレーの『フランス管弦楽曲集』(GS-2051)、ワルターのドヴォルザークの『新世界より』(GS-2052)なども同じくテープからの復刻である。
  SPやLPはディスク=盤なわけで、テープはテープである。では、今後は“テープの鬼”ということになるのか。でも、これだと盤鬼に比べるとちょっと迫力に欠ける。また、テープは俗にヒモともいうが、では“ヒモの鬼”にしたらどうか。だが、これだと団鬼六の世界に近づいてしまいそうだ。
  だが、CDの解説にも書いたように、オープンリールのカタログは非常に限られている。そのため、オープンテープからの復刻を出したくても出せないものの方が圧倒的に多いのである。ここ最近、たまたまテープの復刻が続いているだけで、来春にはLPからの復刻もいつくか用意しているので、安心していただきたい。
  このオープンリールを聴いていて気がついたことがある。同一の音源をオープンリールから録ったものと市販のCDで比較すると、後者は明らかに「高域に冴えがない」ということである。つまり、アナログのマスターテープは多かれ少なかれ「シャー」というテープ・ヒスが含まれる。これまでの復刻盤は、まずそうしたノイズを除去することから復刻作業が始められているような気がする。普通に考えれば、オリジナル・マスターからの方が圧倒的に情報量が豊かなはずである。しかし、途中経過で余計な手間をかけると、どうやら逆転現象が起きてしまうようだ。
  これはいつも書くことだが、たとえば高域のきつい音源があったとする。その音を丸くしようとしてある高域を削ると、聴きやすくはなるが、同時に多くの音楽的成分も失われているのである。ちなみに、8月末に発売を予定しているワルター指揮、コロンビア交響楽団のドヴォルザークの『新世界より』を聴いてみてほしい。確かにテープ・ヒスは目立つ。しかし、全体の情報量の多さには改めて驚かされるだろう。このワルターもすごかったが、その次に予定しているトスカニーニ指揮、NBC交響楽団のブラームスの『交響曲第1番』とムソルグスキーの『展覧会の絵』(番号未定)にも仰天してしまった。演奏者の汗が飛び散ってくるような音、これぞまさしくトスカニーニではないか。
  リスナーのなかにはそうしたノイズ成分のない音が好きだという人もいることは知っている。けれど、本当にワルターやトスカニーニを好きな人は、そんな無菌室的な音は望んでいないと思う。

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第30回 新潟へ行くの巻

 先週の7月8日から11日まで新潟を初めて訪れた。最初の予定は2泊だったが、8日木曜日の夜に立川志の輔の公演があったので、それに合わせて1日余計に泊まったわけである。志の輔はたっぷり三席やってくれ、特に最後の「柳田格之進」は絶品だった。このとき、ちょっと面白いことがあった。「携帯電話をお切りください、録音録画はご遠慮ください」という例の開演前のアナウンスである。「座席の上に立ち上がったり、あるいは舞台に駆け寄ったりしますと、公演が中断、もしくは中止になることがあります」と続いて流れた。私は「このアナウンスは落語の前には変ですよね」なんて言っていたのだが、そのアナウンスを舞台に出てきた志の輔が早速ネタに使っていた。「いやあ、私も落語を長くやっておりますが、座席の上に立ち上がった人なんか見たことはないですねえ。舞台に駆け寄ってくる人、これもありませんね。私なんか舞台に人が近づいてきたら、何かくれるんじゃないかと思わず期待しちゃいますけど」なんて言っていた。
  8日午後に新潟駅に到着し、すぐに案内されたのが朱鷺メッセ。ここの展望室で新潟市内を一望した。曇り空だったので佐渡はかすかにぼんやりと見えた程度だったが、次回はその佐渡に行ってみたいと思う。市内の中心を流れる信濃川、それにかかるいくつかの大きな橋。この橋も道路も幅広くゆったりとしているが、これはどうやら田中角栄の遺産のようである。その信濃川の悠然とした流れと幅広い道路、これらが街全体に独特の情緒を醸し出しているような気がする。古町マンガストリートで『ドカベン』(作者の水島新司は新潟出身)に出てくる里中、山田、殿馬、岩鬼の銅像を見て、その予想以上の大きさに驚いたが、心から感動したのは郊外にあった豪農の館(北方文化博物館http://hoppou-bunka.com/)である。もしも新潟へ行く機会があれば、ここはぜひ立ち寄るといい。また、あの横田めぐみさんが拉致されたと言われる個所も通過した。一瞬ではあるが、心が痛んだ。
  その豪農の館と同じく印象的だったのは、初日に志の輔を聞いた新潟県民会館と、その隣にあるりゅーとぴあという施設(コンサートホール、能楽堂、練習室など)とその周辺である。この一帯は人工の丘だが、公園としてきちんと整備されていて、たいへんに心地いい。しかも、すぐそばにはすばらしい洋風建築の県政記念館(重要文化財、現存する最古の県会議事堂)や、まことに風情あふれる燕喜館(重要文化財、豪商の館)などもあり、環境としては理想的だろう。
  10日土曜日の夕方、りゅーとぴあで東京交響楽団の公演を聴いた。指揮はユベール・スダーン、曲目はブルックナーの『交響曲第9番』だが、この日は「テ・デウム」も加えた4楽章版である。「テ・デウム」付きはめったにない機会だし、演奏も非常によく、十分に楽しめた。それ以上に驚いたのはコンサートホールの音響のすばらしさである。ウェブサイトによると、座席数は約1,900。そもそもホールは最初に足を踏み入れた瞬間に、いい音がしそうか否かの第一印象を抱く。そして、これがだいたい当たるのである。ここはむろん、「良さそうだ」と思い浮かんだ。私は3階右の1列めを買ってみたが、音は十分すぎるくらい届く。バランスもいいし、残響も適度であり、透明感も申し分ない。地元の人によると、2階席はもっといいとのことで、次回はぜひそこを試してみようと思う。1度聴いただけで即断は危険ではあるが、東京にあるいくつかのホールよりもずっといいのではないか。それに周囲の環境も考慮すれば、まことにうらやましい限りである。
  今回の滞在中、新潟県民エフエムの番組を収録した。放送は7月17日(土)、24日(土)の2日間で、時間はともに11時45分から12時までだ。聴ける環境にある方は、ぜひ聴いてみてほしい。
  最後に、今回の新潟滞在で以下の方々に特にお世話になりました。佐藤さん(CDショップ・コンチェルト)、K嬢(リッカルド・ムーティ・ファン/彼女はムーティではなく、ムーチーと呼ぶ)、田代さん+遠藤さん(新潟県民エフエム放送)。本当にいろいろとありがとうございました。

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第29回 新旧ヴァイオリニスト

  先日、たまたま店頭で新人らしきヴァイオリニストのCDを見つけた。ハンブルク生まれのザブリナ=ヴィヴィアン・ヘプカー(Sabrina-Vivian Hopcker(oはウムラウト付き))。年齢は不明だが、写真から20代と推測される。曲目はマックス・ブルッフの『スコットランド幻想曲』、フェリックス・メンデルスゾーンの『ヴァイオリン協奏曲ホ短調』、伴奏はエドウィン・アウトウォーター指揮/北西ドイツ・フィル、マルティン・ブラウス指揮/ゲッティンゲン響、レーベルはトゥルー・サウンズTrue Soundsと、初耳が続く(番号はTSC-0209)。
  CDでは後ろの方に収録されているメンデルスゾーンから聴いたのだが、これがなかなかいい。アンネ=ゾフィー・ムターのデビュー時を思わせるような、明るく力強く、伸びがあるヴァイオリンだ。だが、最初のブルッフの方がもっと個性が濃厚に出ている。全体の響きも非常にいい。ディスクの表示によると、このブルッフはスタジオでの収録らしく、それで音がいっそういいのだろう。彼女の音色もたいへんにみずみずしく捉えられている。ブックレットを見ると、R・シュトラウスとセルゲイ・プロコフィエフのソナタが同じレーベルから出ているという。こちらも、なるべく早くに聴かなければ。
  エクストンから韓国生まれのベク・ジュヤン(Ju-Yang Baek)という、これまた若手のブラームス、ブルッフ(第1番)の協奏曲集(OVCL-00422)が出た。彼女は日本のオーケストラと過去に何回か共演しているらしいが、私は初めて聴く。まず気がついたのは音楽の運びがとてもゆっくり。しかも、高音域はキーンと迫るのではなく、どことなく丸みを帯びていて、反対に中低域はややヴィブラートを大きめにして、打ち震えるように歌っている。そこはかとなく妖艶さも漂うが、ちょっと往年のジョコンダ・デ・ヴィートを想起させる。伴奏はヘンリク・シェーファー指揮/新日本フィル。いかにも安全運転のように思えたが、聴き進むうちに、彼女のそのゆったりとした呼吸に極力合わせようとした結果なのだということがわかった。
  往年の奏者といえば、ヨハンナ・マルツィの初出ライヴも発売された(ドレミ DHR-7778)。曲目はベートーヴェンの『ヴァイオリン協奏曲』(オトマール・ヌッシオ指揮/スイス・イタリア放送、1954年)、モーツァルトの『ヴァイオリン・ソナタ変ロ長調K.454』(ジャン・アントニエッティ、ピアノ)の2曲。前者はおっとりと上品に歌う。テンポも常に微妙に揺れていて、伴奏とピタッと合っていないところがいい。響きが乾いているせいか、伴奏はいかにも素っ気ないが、独奏が明瞭に捉えられているので鑑賞上は全く問題ない。後者は気持ち曇った音質ではあるが、決して悪くない。とにかく、きわめて優雅なその独奏は非常に個性的で、こんな表現は最近にヴァイオリニストからは聴けない。
  6月、サロネン/フィルハーモニアの来日公演でヒラリー・ハーンのチャイコフスキー『ヴァイオリン協奏曲』を聴いた(サントリーホール)。いつものように技巧的には完璧無比ではあったが、全体の表現としては、何か迷いのようなものを感じさせた。仕掛けようとしたが思い切れず、心の中では何かやりたい、やらなければという気持ちがくすぶっていたように思えた。むろん、ハーンはこの先が長い人である。こういうときもあって当然だろう。

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第28回 ムターを聴く

  4月19日、サントリーホールでアンネ=ゾフィー・ムターのリサイタルを聴いた。ピアノはCDと同じランバート・オルキス、曲目はブラームスの3つのソナタだった。
  舞台に出てきたムターは気品があり、美しくて凛々しく、豊かな風格が感じられた。楽器を持って構える姿も実にカッコよかった。ヴァイオリンを常に床と平行か、わずかに上の角度で持ち、弾いている最中もどちらかというと動きが少ないほうだ。背筋はピンと伸び、見ただけでもびくともしない安定感を与えてくれた。
  出てくる音も実に多彩だった。強弱、濃淡を大胆に、あるいは繊細に弾き分け、テンポも巧みに変化する。最も見事だと思ったのは休憩後の『第3番』だろうか。息を飲んだのは2番目に弾いた『第1番』のソナタ。冒頭、ふっと息を吹きかけられたような音が中空に舞い、それがスウッと消えていく。そこを聴いただけでも「きょうは来てよかったなあ」と思った。アンコールはブラームスの『ハンガリー舞曲』の『第1番』『第2番』『第7番』、『子守歌』、それとマスネの『タイスの瞑想曲』と、5曲も弾いた。特に『ハンガリー舞曲』はいっそう自在で意欲的だった。オルキスもムターにぴたりとつけていて、有機的なアンサンブルという点でも申し分がなかった。
  どこで読んだか忘れたが、ムターは「チューニングなどはお客に聴かせるものではない」と語っていた。この日も彼女は舞台上では一度もチューニングしていない。これは、何ということもないがすがすがしくて好きだ。2009年秋にエンリコ・オノフリの演奏会に行ったが、そのときはコンサート・マスターがいちいち各パートのトップ奏者のところに歩み寄ってまでチューニングをしていた。しかも、曲の始まる前はもちろん、楽章間も。これを誠実さの現れと捉える人もあるかもしれないが、私にはなんとも見苦しいものとしか思えなかった。
  ムターは、ピアニストが座るやいなや間髪を入れずに弾いていた。楽章間もほとんどアタッカに近い。よけいな思わせぶりを排し、音だけで勝負するような気迫さえ感じた。また、この日はピアニストの横に座る譜めくり係もいなかった。これは単純に、あえて用意する必要がないからそうしたのだろう。しかし、私には音楽をしない人間は舞台には必要ない、といった演奏者の言外のメッセージではないかと感じた次第である。
  印象的だったのは、この日の舞台上には大きな花輪が飾られていたこと。この花はムターの要望なのかどうかはわからないが、当日の演奏の記憶を彩るものとしては実にふさわしいものだと思った。

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第27回 祝! 『クラシック100バカ』増刷

 このメール・マガジンも、ずいぶんと間があいてしまった。昨日、青弓社から「『クラシック100バカ』を増刷します」と連絡があった。これは2004年秋に出版して、ほどなく増刷されたので、今回は第3刷ということである。といってもそんなに大量部数ではないが、どこの出版社も「売れない」とぼやいているご時世にあっては、まことにおめでたいと言わざるをえない。
  いま読み返してみると、項目によってはちょっと古くなってしまったものもあるが(たとえば、CCCDについて書いてあるものなど)、「よくもこんなにいろいろと書いたなあ」というのが正直なところである。この本を出して、「本当のバカはお前だよ」なんてネットに書かれていたし、一部の人は不快な思いをしたかもしれない。しかし、私の基本的な考えとしては、蔭で裏でブツブツ言ったところで何も生み出さない、始まらない、ということである。それらは単なる愚痴以外の何ものでもないからだ。
『100バカ』もある意味力作だったが、自分ではなんといっても構想から完成まで12年も費やした『クラシック名曲初演&初録音事典』(大和書房)に思い入れがある。ごく最近、出版社に問い合わせたら、この事典もほとんど在庫がなくなっているそうだ。もちろん、増刷したらしたで単純にうれしいが、私としては近い将来大幅に増補改訂したいという気持ちがある。理由は、ある程度内容を掘り下げようとしたために曲を絞り込んだことと、もうひとつは締め切りまでにSP、LPなどの現物(あるいは初版が手に入らず、やむなく再発売のもので代用したものもあった)が手に入らなかったものが多数あったからだ。

 ところで、話題はガラリと変わる。3月25日、スクロヴァチェフスキ指揮、読売交響楽団のブルックナーの『交響曲第8番』(東京オペラ・シティ)を聴いて、たいへんに感銘を受けた。近年聴いた演奏会のなかでも屈指のものだった。かつて客席で耳にしたマタチッチ/NHK交響楽団を上回ったかもしれない。これだけ創意と工夫に満ちていながらも、曲も持ち味を全く崩してないのは驚きだった。この日はどうやら録音が入っていたらしい。発売されるかどうかは不明だが、発売されたときのために、詳細な報告はあえて記さないでおきたい。ただし、これだけは書いておきたい。読響の真剣で真摯な演奏ぶりはすごかった。これだけやってくれれば、正直、そこらの海外オーケストラ公演はあえて行く必要がないと感じた。拍手。

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第26回 もっとセッション録音を!

 最近発売されたユベール・スダーン指揮、東京交響楽団のブルックナーの『交響曲第7番』(ファイン・エヌエフ/SACDシングルレイヤー=NF61202、通常CD=NF21202)を聴き、その演奏と録音のすばらしさに感動した。
  これがここまで成功したのは、やはりきちんとセッションを組んだ録音だからなのだろう(収録は2009年3月27、28日、ミューザ川崎シンフォニーホール)。以前は、製品として売るレコードは無人のホールか録音専用会場で収録することが常識だった。ところが、近年ではリハーサルと本番の両方を録音し、後日、傷のないテイクを編集するという方法が主流である。言うまでもなく、リハーサルと本番とでは会場の響きが全く異なる。それを電気的に加工してつなぎ合わせるのだから、音が不自然になることは容易に想像がつくだろう。それに聴衆の有無が演奏者に影響を与えることも考慮すれば、なおさらである。
  しかし現実的には、特にオーケストラのような大所帯を、演奏会とは別の日にセッティングして録音するのは膨大な経費がかかる。ことに最近のような不況だと、ますますこうしたセッション録音はできにくくなる。ただ、こうした回しっぱなしの録音は、晩年のギュンター・ヴァントのような高齢の演奏家の負担を減らすことができるという利点もある。けれども、このような場合は特例と捉えた方がいいのではないだろうか。
  技術者は現在の技術を駆使すれば不自然な音にはならないと考えているようだが、実際は全くそうではないと思う。たとえば、1960年代、70年代のアナログ時代に録音されたオーケストラの録音を聴いていると、譜面をめくる音、弓が譜面台に触れた音、弱音器を床に置いたと思われる音、椅子がきしむ音、靴音などなど、実にさまざまな演奏ノイズが入っている。これらは入っていて当たり前なのだが、驚くことにこうした音は最近のCDからはほとんど聴こえてこないのである。おそらく、技術者が懸命になって除去しているのだろう。そういったノイズはない方がいいのかもしれないが、この操作によって必要な響きの成分までもが犠牲になっていると推測できる。
  私が最も嫌いなのは、ライヴとはとても思えないライヴ録音である。演奏中の会場は不気味なほど静かであり、奏者もむしろ淡々と弾いているが、演奏が終わるやいなや盛大なブラヴォー。しかもこのブラヴォーは音楽が鳴っているときよりもはるかに臨場感豊かに響いている。正直、こんな不自然な拍手ならば、カットしてくれた方がよほどましである。
  ファイン・エヌエフは、このスダーンに限らず長岡京室内管弦楽団などもすべてセッションで収録している。他のレーベルでセッション録音を積極的におこなっているのはエクストンだろう。たとえばエド・デ・ワールト指揮のR・シュトラウス、ワーグナー、ヤープ・ヴァン・ズヴェーデン指揮のブルックナー、ストラヴィンスキー、小林研一郎指揮のチャイコフスキーの『交響曲第5番』(アーネム・フィル)など、絶賛されるべき内容のものは多い。また、ちょっと一般的ではないが、エクストンから発売中の“ダイレクト・カットSACD”、1枚2万円の高額盤だが、これが言葉を失うほどすごい音が出てくる。私はいままでにデ・ワールト指揮の『ツァラ』(OVXL00020)、ズヴェーデン指揮のブルックナーの『交響曲第9番』(OVXL00014)、同じくズヴェーデンのストラヴィンスキーの『春の祭典』(OVXL00007)を購入したが、2010年にはさらに2、3枚手に入れようと思っている。
  オーケストラ音楽はやはりクラシック音楽のなかでも最も注目される分野である。したがって、2010年はオーケストラのセッション録音がひとつでも多くおこなわれ、さらにそれらがSACDという優れたフォーマットで発売されることを期待したい。

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