最終回 アイドルが「演じる」とは何か

香月孝史(ライター。著書に『「アイドル」の読み方』〔青弓社〕、アイドル関連の記事多数)

「第8回 乃木坂46の象徴を背負うこと」の終わりに、欅坂46のデビュー曲「サイレントマジョリティー」について語る生駒里奈の言葉を引用した。彼女は、欅坂46による同曲のパフォーマンスが「レジスタンス」であるのに対し、2016年夏にテレビ番組の企画で自身がセンターポジションを務めた際のパフォーマンスは「過去にレジスタンスだった人たち」にしか見えないと語った。体制に支配されることへの抵抗を歌う同曲の詞世界を上演するのに最も適した身体は、キャリアを重ねたAKB48グループや乃木坂46のセンター経験者らではなく、まだ経験値も浅く生駒らよりも若い欅坂46のほうだという認識である。
 今回も、この楽曲の上演についてもう少し考えるところから始めたい。それは、アイドルが「演じる」とは何か、という問いへとつながっていく。

「サイレントマジョリティー」というフィクション

 欅坂46の「サイレントマジョリティー」は、ミュージックビデオが発表された当初から、トータルパッケージの完成度が高評価を得る一方で、その詞世界に対する皮肉めいた反響も少なからず呼び込んでいた。それは、若いメンバーたちが歌う「大人たちに支配されるな」という叫びそのものが、総合プロデューサーの秋元康に代表される「大人」によって手がけられ、その「大人」が作った「レジスタンス」を若い欅坂46が歌っている構図を冷笑的に指摘するものだった。言い換えればそのような声は、主体的な行動を選び取る者への凱歌として描かれた「サイレントマジョリティー」を上演する彼女たちが、「大人」によって「主体」を奪われているではないか、ということである。
 しかし、一見明快なこの皮肉は、パフォーマーがある物語を「演じる」ことの可能性を軽んじたものだ。
 パフォーマーの「主体」は、ある虚構の世界観を声や身体で上演する、その仕方によって求めうる。そこでは、作家と演者がそれぞれに役割を分担しながら、上演作品が形作られていく。今日、「アイドル」と称されるジャンルもまた、そうした演劇的なパフォーミングアートの一つにほかならない。「大人に支配されることに抗うレジスタンス」を主人公にしたフィクションを演者とは異なる作家が描き、そのフィクションを年若いパフォーマーが演じたことをもって、即座に「主体性」の有無に接続するのはやや素朴にすぎる。
 また、「第7回 乃木坂46が求めた「コンセプト」」でふれたように、作詞家としての秋元康は、無数の楽曲の作詞を手がけるなかで一貫したポリシーや立場、価値観をもって人物や社会を描こうとしているわけではない。秋元個人の信念や主義主張とは切り離された場所で、詞世界のなかの人物はそのつど立ち上げられている。ときに秋元は自身を指して、アーティストではなく職業作詞家である旨を表明しながらその一貫性のなさを説明することがあるが、それはつまり、作者や演者自身の人格とは別の次元で、フィクションの登場人物としてのリアリティーが表現されていることを意味する。
 さらに現在のグループアイドルシーンにあっては、自らが置かれているフィールドを活用してどれだけ自己を発信できるか、セルフプロデュースできるかといった、まさに「主体」的な立ち回りが、個人のブレイクのための大きなキーになっている。それをふまえれば、総合的なプロデュースを「大人」に委ねていることを、すぐさまアイドルという営為での「主体性」と結び付けるのは、なおさら適当ではないだろう。
 もちろん、今日のアイドルシーンが実践者たちに理不尽な負荷をかける構造をはらんでいることは常に意識されなければならないし、「サイレントマジョリティー」への冷笑はそこからくる負のイメージが大なり小なり意識されたものだろう。ただし、実践者であるアイドルたちが、その演劇的な立場を自己表現や主体性発露の場として利用しうるかどうかは、楽曲ごとに作られるフィクションの世界観の内容とはひとまず切り分けて考えるべきだろう。切り分けたうえで、その双方のバランスについてどのように整理できるのか、それはまた別の水準の議論である。
 ともあれ、アイドルをそのようなパフォーマーとして捉えるとき、先の生駒の言は、「サイレントマジョリティー」という楽曲がもつ虚構のコンセプトを表現する演技者として、自身たちと欅坂46それぞれの適性を比較したものになる。

乃木坂46と「演じる」こと

 しかしまた、生駒の言葉には、パフォーマーの身体と演じられる内容とが完全に無関係ではありえないことも示されている。とりわけ、若年期の人々が主たる演者になるアイドルというジャンルの場合、わずかな期間でパフォーマーとしての性質は著しく移り変わっていく。生駒と欅坂46とのキャリアの差は5年ほどだが、先の発言からは、10代から20代にさしかかる時期にあって、生駒自身演技者としての性質の差異を認識していることがうかがえる。
 本連載が乃木坂46をテーマにしながらたびたび着目してきたのは、彼女たちが「演じる」身体であるということだ。文字どおりに演劇に傾斜してきたグループでもある乃木坂46は、アイドルが「演じる」ことについて考えるうえで、いくつものサンプルを見せてくれる。
 ユニークな演劇公演として企画された「16人のプリンシパル」は、グループアイドルのドキュメンタリーを生の舞台上で展開しながら、そこにフィクション的な要素を混ぜ合わせ、ドキュメントと虚構のあわいを連日展開してみせた(「第2回 乃木坂46の奇妙な演劇」)。また、2015年上演の演劇『すべての犬は天国へ行く』(渋谷・AiiA 2.5 Theater Tokyo)などの実践は、「アイドル」のジャンル外にある演劇をグループの内に取り込もうとするものだった(「第4回 乃木坂46が「内と外」をつなぐ最新舞台公演」)。
 あるいは、ドラマ型の作品が特徴的なミュージックビデオや、これもまた乃木坂46独自の継続的な企画としておこなわれてきた「個人PV」という試みも、さまざまな水準の「ドラマ」を演じてみせるための機会になっていた(「第6回 乃木坂46が紡ぐ「個人PV」という織物」)。
 そして、乃木坂46というプロジェクトの蓄積のなかでまいてきた種は、2016年に姉妹グループ欅坂46を花開かせ、デビュー曲「サイレントマジョリティー」はその演劇性の高さによって、アイドルが楽曲を「演じる」ことの奥深さを示した(「第7回 乃木坂46が求めた「コンセプト」」)。
 ここでは、再度乃木坂46の演劇公演に立ち戻り、アイドルの身体がいくつもの水準で「演技者」であることをクローズアップしてみたい。

乃木坂演劇の2本の軸

 第4回で詳述した舞台『すべての犬は天国へ行く』が上演される4カ月前、2015年6月に乃木坂46は演劇公演『じょしらく』(渋谷・AiiA 2.5 Theater Tokyo)を催している。前年までの「16人のプリンシパル」シリーズが一区切りを迎え、その発展形となる企画として掲げられたのが、『じょしらく』と『すべての犬は天国へ行く』の2本だった。
 この両者は、対照的な志向をもっている。
 戯曲『すべての犬は天国へ行く』は、劇団ナイロン100℃が2001年に初演した、ケラリーノ・サンドロヴィッチ作のシリアス・コメディーの傑作である。以前詳述したように、『すべての犬は天国へ行く』はもちろんアイドル個々の魅力にフォーカスを当てるために作られてはいないし、アイドル個人を見せるのではなく戯曲の世界観に演者が奉仕しなくてはならない作品である。いわば、「アイドルが演じる必然のない舞台」である同作をあえて乃木坂46が主導することで、演劇への強い志向を示し、アイドルグループが展開できるエンターテインメントの幅を広げようとするものだった。
 それに対して『じょしらく』は、基本的には「アイドル」というジャンル内で楽しまれるタイプの企画といえる。キャストが乃木坂46のメンバーだけに限定され、出演メンバーを3組に分けたトリプルキャスト制によって上演するその形式は、既存の乃木坂46ファンに向けた舞台としての色合いが強い。すなわちそれは、出演者が「アイドル・乃木坂46であること」が大前提になった演劇作品である。
 このように書くと、アイドルの範疇から外に手を伸ばそうとした『すべての犬は天国へ行く』に比べて、『じょしらく』には表現の可能性に限界があるようにも見える。しかし、両者を舞台演劇としての射程の長短で一概に測ることはできない。それらは、対極的な2本の軸として、グループの可能性をそれぞれのベクトルに拡張させていく。このうち、『じょしらく』は、キャストが「アイドル」であることによってしか表現できない方向へと、演劇を駆動させていった。

「演じる」こととアイドルのアイデンティティー

『じょしらく』は原作漫画(久米田康治原作、ヤス画、全6巻〔ワイドKCマガジン〕、講談社、2009―13年)およびそのアニメ化作品をルーツにもつ、いわゆる2.5次元舞台である。全編を通しての直線的なストーリーをもたず、原則として、主人公となる5人の女性落語家たちの楽屋内での日常会話だけで進行する。
 漫画版・アニメ版の『じょしらく』では、彼女たちの会話は現実世界の時事ネタやパロディーを多分に含みながら進行するが、そうした登場人物たちの批評的な視線は、2次元作品のキャラクターである自分たちにもたびたび向けられる。自らがキャラクターとして作画され、演出されている存在であることをメタ的に扱い、漫画作品がアニメ化されることに対するありがちな反響を、アニメ化された彼女たち自身が体現してみせる。そうした視線が、『じょしらく』の基調には埋め込まれている。
 乃木坂46による舞台版『じょしらく』を構築するにあたって、作・演出を務める川尻恵太は、『じょしらく』がもつこのような自己言及性を、アイデンティティーの混乱として描き出した。
 舞台版『じょしらく』冒頭のシーン、乃木坂46のメンバー演じる女性落語家たちが寄席の楽屋のテレビで目の当たりにするのは、「歌番組にアイドルグループ“SUGARSPOT”として出演している自分たち」の姿である。パラレルワールドのような光景を目にした彼女たちは、自分がテレビに映る「アイドル」などではなく、あくまで落語家であることを確認しようとするところから、話は展開していく。
 ここで起きているのは、次のようなことだ。現実世界では、「アイドル」である乃木坂46のメンバーたちが、『じょしらく』という舞台の内では「落語家」役を演じている。そして劇中設定として落語家であるその彼女たちが、「アイドル」としてテレビに出演している自分たちの姿を目にして驚き、自分たちはあくまで「落語家」であって「アイドル」ではない、と確認しようとするシーンが舞台演劇として「演じられている」。
 このように、「アイドル/落語家」「現実世界/劇内世界」を混在させる仕立てによって、登場人物たちは「実の自分」がどこにいるかを見失うような構造に放り込まれる。そして、この構造は、物語が進むとさらなる反転を見せる。
 すなわち、ここまで述べたような落語家たちのストーリー自体がすべて劇中劇であったこと、具体的に言い換えれば「“落語家たちを主人公とする舞台を、架空のアイドルグループが上演していた”というお話」だったことが明かされるのだ。そしてその架空のアイドルグループとは、冒頭でテレビに写っていたあのSUGARSPOTである。劇中の登場人物たちの自己認識はここで、「落語家」ではなく「(架空の)アイドル」へとずらされる。
 つまり『じょしらく』という劇のなかで、「落語家たちを主人公とした芝居を演じる架空のアイドルたち」を、乃木坂46は演じていたことになる。この入れ子構造は、そもそも『じょしらく』を上演しているのが、現実世界の「アイドル」である乃木坂46だからこそ、複層的な意味をもつ。その複雑さを引き受けるのが、トリプルキャストで斉藤優里、松村沙友理、衛藤美彩が演じていた蕪羅亭魔梨威である。
 魔梨威は登場人物のなかでただ1人、劇中の入れ子構造が反転したことについていけず、ほかのメンバーがSUGARSPOTのメンバーとしての自己認識をもって振る舞うなかで、落語家・蕪羅亭魔梨威として目の前の状況を理解しようとする。その姿はほかの登場人物からすれば、「この子は本当はアイドルなのに、いつまでも落語家役を演じている」ように映るはずだ。
 芝居の終盤に至って、なお混乱が続く魔梨威に対して、もう劇は終わりなのだから演じなくていいのだという旨が周囲から告げられると、魔梨威は「みんなは演じてないの?」と問いかける。この問いかけは、彼女たちが日々いくつもの水準でおこなっている、「演じる」という営為を省みるものだ。
「演じてないの?」とは、いまここで上演されている『じょしらく』を「演じる」ことばかりを指すのではない。日々アイドルとしてステージでパフォーマンスすること、SNSやイベントなどでアイドルとしての体裁を整え立ち振る舞うこと、あるいは芸能人がしばしば「表の顔/裏の顔」といった発想に基づいて表象されることなど、「演じる」という言葉が導く、たくさんの位相に対して投じられた言葉である。アイドルはそれらの多層的な「演技」を生きている。
 魔梨威が投げかけた「演じる」ことへの疑義に対して周囲の登場人物は、「私たちはアイドルを選んで、演じることに決めた」という返答をする。ともすれば「偽りの姿」としてネガティブに受け止められる「演じる」という言葉がこの台詞によって捉え直され、自らが演劇的なパフォーマンスの担い手になることの矜持が示される。
 しかしまた、「演じる」は肯定的なだけの言葉ではありえない。同時に発せられる、「私たちは舞台を降りてからのほうが大変だよ」という台詞もまた、さまざまな水準で「演じる」存在であり続ける者がこうむる、心身の負荷への目配りがある。そして、ここまでをあくまで虚構として描き、「アイドル」の身体をもって演劇として成立させたことで、『じょしらく』はアイドルという表現形態のもつ性質を、ポジティブもネガティブも含めてすくい上げてみせた。

有限の生を体現するアイドル

『じょしらく』から1年後の2016年、乃木坂46は『じょしらく』の続編となる『じょしらく弐――時かけそば』(渋谷・AiiA 2.5 Theater Tokyo)を上演する。15年版の『じょしらく』が、アイドルが「演じる」ことの意義と矜持を見せたのだとすれば、『じょしらく弐』は、生の躍動を表現する立場であるアイドルの身体によって、いつか消えゆく人間の生の尊さを訴えてみせるものになった。
 5人の女性落語家のキャスト配置を一新して上演された『じょしらく弐』は、登場人物の1人、防波亭手寅(トリプルキャストで松村沙友理、桜井玲香、若月佑美が演じた)が50年後にタイムスリップすることからストーリーが動きだす。2066年にタイムスリップした手寅は、そこで仲間であるほかの4人の落語家たちに出会うが、50年後の世界であるにもかかわらず、ほかの4人はタイムスリップ前と同じ16年時点の年格好のままだった。話の進行につれ、これは4人がコールドスリープマシーンを使って50年眠っていたためであることが明らかになる。
 ここで問題になるのは、ただ1人マシーンに入らなかった手寅が2066年の世界ではどうしているか、ということだ。
 2066年の手寅は生き物の宿命として老い、残りわずかな余命を生きていた。「現在」からタイムスリップしてきた若い手寅と、ごく自然に寿命を生きて終わりを目前にした2066年の手寅、そして2066年も若い身体のままでいるほかの4人との対照は、アイドルという存在が演じることでことさらに引き立つ。
 まだ円熟期から衰退に向かう時期を知らない身体が老いを体現することで、生の有限性はより強調される。また、老いや限りある生を見つめる本作のテーマは、アイドルという特殊な職業を照射することにもなる。前作に続いて作・演出を担当する川尻が『じょしらく』で一貫して描いたのは、アイドルが「演じる」ことによってこそ強調できる、生の尊さだった。
『じょしらく弐』でそれがいっそう浮かび上がるのは、前作にも登場した架空のアイドルグループSUGARSPOTのライブシーンである。2066年の世界では、SUGARSPOTは遠い過去のアイドルグループであり、すでに解散したという設定になっている。そのため、2066年にいる5人の落語家たちは、はるか昔におこなわれたSUGARSPOTの解散コンサートを、「過去の映像」として見ることになる。この解散コンサートのシーンでもまた、女性落語家を演じる5人のキャストたちがそのままSUGARSPOT役を演じている。
 つまりこれは、現実世界で現役のアイドルグループとして活動する乃木坂46のメンバーたちが、架空のアイドルグループの終息を「過去の記憶」として擬似的に上演しているという構図である。アイドルというジャンルがもつ構造を通じて、生の普遍的な宿命やはかなさ、それゆえの輝きがここにはパッケージされる。
 若い身体は、単に「若い身体」だけを表現する存在ではない。いつまでもその身体のままこの世界にとどまることなどできないという無常もまた、「アイドル」として楽曲のパフォーマンスを続けながら日々を生きる者たちの表現によって、いや応なく突き付けられるのだ。

アイドルが演じる「一生分」の記憶――『嫌われ松子の一生』

 すでになくなってしまったもののありし日の輝きが、まだなくなる気配がない演者たちの身体によって立ち上げられ、そしてその演者たちが本分とする「アイドル」という表現と二重写しになる。『じょしらく弐』のSUGARSPOTが印象的なのはそれゆえだ。そして、はからずも2016年の乃木坂46は、このような生や死への遠近感を立て続けに舞台上に浮かび上がらせている。
『じょしらく弐』にも出演した乃木坂46の桜井玲香・若月佑美は、同年9月から10月に品川・クラブeXで上演された舞台『嫌われ松子の一生』(脚本・演出:葛木英)に参加し、ダブルキャストで主演を務めた。山田宗樹による同名の原作小説(幻冬舎、2003年)、中島哲也が監督を務めた映画版(2006年)などで広く知られた『嫌われ松子の一生』は、中学教師だった主人公・川尻松子が教え子の起こしたトラブルで理不尽に職を追われて故郷を離れ、そののち様々に男性たちと交わりながら流転していくさまを描いた作品である。
 この舞台では、川尻松子の生涯を時系列にたどっていくに先立って、孤独な晩年を送り、最期は凄惨に生を終えていく松子の姿が冒頭で示される。そのため、次のシーン以降で桜井・若月が演じる若き松子に陰鬱な末路が待っていることを、受け手の誰もが知りながら物語は進行することになる。松子が不器用に純粋に、自分を肯定してくれるあてを求め、つかの間の希望を見いだしながら男性たちの間を流れていくさまは、あらかじめ行く末が突き付けられているからこそ深い悲しさをともなう。
 しかしまた、松子への丹念なレクイエムとなるこの物語は、この世から退場し顧みられなくなった者にも、希望や期待、絶望を背負って生きた人間一人分の生の記憶があることを語ってくれる。さらに、松子の流転や加齢、末路を桜井や若月が表現することで、彼女たちの身体にもまた、「アイドル」として活動する期間だけで完結するわけではない、一生分のライフスパンがあることが照射される。若年期の限られた期間に多大な注目を向けられがちな、「アイドル」というジャンルの実践者によって演じられることで、川尻松子の生涯に新たな角度から光が当てられた。『じょしらく』シリーズに通じる、アイドルの演技的な性質からくる可能性と同質のものが、この作品にも表れている。

虚像を投げかけられる身体としてのアイドル――『墓場、女子高生』

 桜井・若月による『嫌われ松子の一生』と前後して上演されたのが、乃木坂46の伊藤純奈、伊藤万理華、井上小百合、斉藤優里、新内眞衣、鈴木絢音、能條愛未、樋口日奈がメインキャストを務めた『墓場、女子高生』(10月14―22日、文京・東京ドームシティ シアターGロッソ)だった。ベッド&メイキングスの福原充則脚本・演出による上演がオリジナルだが、この乃木坂46版では劇団鹿殺しの丸尾丸一郎が演出を手がけ、自殺した女子高生・日野の幽霊とその友人たちとの無為でかけがえのない日々、そして友人たちの思いによって生き返らされた日野が、再び死を選ぶまでが描かれた。先の『嫌われ松子の一生』が、すでにこの世からいなくなった主人公の記憶を跡づけながら鎮魂する構造をもっていたとすれば、『墓場、女子高生』はその死者の記憶を跡づける側、つまり生きている人々の側にも視線を向け、「死者を記憶する」ことを問い返す作品になっている。
 人生を終えた者の一生を思い返し、位置づけるのは、生をまっとうした本人ではなく、現在生きている他者である。したがって、死者の生前のストーリーは、常に他者の解釈によって描かれることになる。
 10代で死を選んだ日野が眠る墓前を遊び場にして集まる彼女の友人たちは、日野の生前と同じようにたわいのないやりとりで日々を潰しながら、その実どこかで日野が死を選んだことの重さをそれぞれに抱えている。やがてその思いは、オカルト的な手法で日野を生き返らせるというエキセントリックな試みへとつながっていった。しかし、ついに日野が生き返り、友人たちと再びコミュニケーションをとることであらわになるのは、友人たち一人ひとりが思い思いに育んできた日野への解釈があくまで他人の思い入れであり、日野自身の生ではありえないということだ。
 友人たちは自身と日野との関わりの内に、日野の自殺の原因を探してきたが、それはあくまで他人によって作られた日野の虚像でしかない。だからこそ日野は友人たちに、「私が死ななきゃいけなかった原因に、みんなはなれない」と伝える。
 けれども、『嫌われ松子の一生』で松子と関わった男性たちが彼女の記憶を語ることによって彼女の痕跡を残しえたように、死者としての日野もまた、友人たちが彼女に思いを託し続けるからこそ存在する。『墓場、女子高生』は、死者の生を他者が解釈することがはらむあやうさと希望の両面に自覚的な作品である。
 日野は友人たちによって生かされたのち、再び自ら命を絶つ。その自死の理由は、最後まで明かされない。日野の死を解読する「正解」が示されないからこそ、残された友人たちにとってはいつまでもそれぞれの解釈を投影する対象であり続ける。
 そして、他者が投げかけるいくつもの解釈、いくつもの虚像を受け止めるさまは、「アイドル」としてパフォーマンスする身体のありようと重なるものだ。友人たちは、日野の死の理由をそれぞれに美しく解釈してみせる。日野はその美しい虚構を1人ずつに語らせ、それらを受け止めていく。誰もその「実像」など言い当てることはできないし、他者が語る虚構など身勝手なものにならざるをえない。けれどまた、日野は他者からの虚像をいくつも喚起させるような存在だからこそ、いつまでも人々の意識にとどめられる身体になる。

演じ手としてのアイドル

 乃木坂46が2016年の『嫌われ松子の一生』『墓場、女子高生』で志向したのは、ごくオーソドックスなレベルでいえば、アイドルであることを前提としない演劇へと手を伸ばすことだった。前年の『すべての犬は天国へ行く』を含めたこれらの試みは、戯曲選択や演技の水準に関して、グループが実現できるエンターテインメントの幅を拡大するためのものだ。
 ただしまた、彼女たちの長期的なキャリアを見据えたその志向とは異なる水準で、「アイドル」の実践者であることは作品が含む構造に影響を与えていく。
「アイドル」の実践者である彼女たちは通常、そのジャンルの性質上、限られた時期のパフォーマンスに焦点が当てられる。短期間ですぐさま移ろっていく若年期の表現であるだけに、時間のもつはかなさを体現できるのがこのジャンルの特質であるかもしれない。しかしまた現実を生きる身体としては、そのはかなさを最も体現できる時期に需要が集中しかねない。「アイドル」として消費されるはかなさの先にも、生は地続きにつながっていく。
 このとき、たとえば桜井玲香や若月佑美が「川尻松子」を上演してみせることは、はかなく輝かしい瞬間を表現し続ける「アイドル」の甘美さだけが受容されることに対して釘を差し、生や死、老いまでを含み込んだ彼女たちのライフスパンを観る者に想像させる。あるいは、『墓場、女子高生』で伊藤万理華が演じる日野の死を友人たちが思い思いに解釈していくとき、そしてその解釈が真実ではありえないことを指摘しながらも、やがて日野がそれぞれの解釈を受け止めていくとき、その姿は「アイドル」でもある演者たちの営みと二重に合わさって見える。このようなアイドルとの二重写しは、詳述した『じょしらく』シリーズの自覚的な作劇を見れば、さらに色濃く感じることができるだろう。
 乃木坂46がトータルとして志向する演劇企画の試みは、彼女たちに「アイドル」活動の外側やその後のキャリアへの足掛かりをもたらすものである。そして同時に、彼女たちがアイドルであることそれ自体を劇構造と不可分に溶け合わせながら、「現在、アイドルであること」以上の想像力を喚起させるものだ。

照射し合う生身とフィクション

 アイドルが「演じる」ことの意味を、乃木坂46の舞台演劇企画を経由しながら考えてきた。ここで題材に選んだ演劇という表現ジャンルは、いかにも「演じる」という言葉と素直に結び付きやすい。
 しかし、冒頭のトピックに立ち戻れば、アイドルによって日々パフォーマンスされる楽曲はそもそも、同じように演劇的な機構をもつものだった。川尻松子の生が、桜井玲香や若月佑美の生き方そのものではないように、楽曲の登場人物もアイドル個々そのものではない。作家や演出家が彼女たちに松子のように生きることを指示しているわけではないように、楽曲上の人物もアイドル個々の人生に押し付けられた生き方モデルではない。たとえば、そこで演じられる川尻松子が「模範」的なロールモデルであるか否かは、それを演じる者のパーソナリティーと同一視できるものではもちろんなく、まずはフィクションの水準として捉えられる。彼女たちがアイドルという表現形態を通じて、楽曲中で体現する登場人物たちもまた、アイドルソングというフィクションを通じて「演じられる」いくつもの虚構の生である。「サイレントマジョリティー」に対する冷笑に見られたような「大人」「子ども」観を、素朴だと表現したのはその点についてだった。
 もっとも、その冷笑について「一見明快」だと述べたように、演じられる人物像とパフォーマーの人格とを重ね合わせやすいのもまた、アイドルというジャンルの特性だ。フィクションの人物をアイドルの楽曲として体現しながら、そこにいや応なく「アイドル」という芸能ジャンルを生きる当人の個がにじみ出す。水準が本来異なる、フィクションと当人のパーソナリティーや身体が重ね合わさって見える、パフォーミングアートとしての一つの基本的性質がここにはある。
 けれども、アイドルの演技に当人のパーソナリティーがにじむことは、若さを若さとしてだけでしか表現につなげられないということにはならない。一方で若さに基づいた身体の躍動が消費されていく立場だからこそ、彼女たちが老いや死を演技として体現することで、若さとはかなさの双方が照射し合う。同様に、楽曲中でレジスタンスとしての若者を演じる瞬間、恋する少女を演じる瞬間、そのつどアイドル当人のパーソナリティーとフィクションの人物とが、互いの生の尊さを照射し合う。アイドルがある虚構を「演じる」ときに現出するのは、そのような生身とフィクションとの緊張関係だ。演劇性に対してこまやかに向き合いながらコンテンツを生み出し続け、種をまき続ける乃木坂46の営みは、アイドルが「演じる」ことの可能性を、際立って浮かび上がらせている。

 

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