第8回 乃木坂46の象徴を背負うこと

香月孝史(ライター。著書に『「アイドル」の読み方』〔青弓社〕、アイドル関連の記事多数)

半年遅れのバースデー

 2016年の乃木坂46は、半年遅れで「誕生日パーティー」を開催した。8月28日から30日に東京・明治神宮野球場でおこなわれた「真夏の全国ツアー2016――4th YEAR BIRTHDAY LIVE」がそれである。
 乃木坂46はCDデビュー翌年の2013年から毎年、デビューシングル発売日の2月22日を「バースデー」として、同日に記念ライブを催してきた。この恒例イベントでは、その時点での乃木坂46の持ち曲すべてを披露するという、いささか極端な仕方でグループの歩みを振り返ってみせる。乃木坂46名義の楽曲はコンスタントにリリースされ続けるため、イベント当日に披露しなければならない楽曲の数も、必然的に年を追って増えていく。デビュー1周年を祝った13年の「1st YEAR BIRTHDAY LIVE」に27曲だったセットリストは14年の2周年では42曲、さらに15年の3周年バースデーライブでは73曲まで増加した。それにともなって上演時間も拡大し、15年には計7時間半の長丁場になった。この時点で、1本のライブとしては相当にイレギュラーである。
 そして2016年、全曲披露というコンセプトと拡大する人気に対応するための大会場の確保の点から、例年どおりの2月22日の開催ができなかった乃木坂46は、8月におこなわれる「真夏の全国ツアー」ラストの東京公演を、半年遅れのバースデーライブにあてた。昨年のバースデーライブ開催時から数えれば、さらに5枚のシングルと1枚のアルバムリリースを経たことで、披露する楽曲は112曲にふくれあがっていた。もはや1日のライブでそれらをまっとうするのは現実離れしている。そこで、これもまた初めての試みとして、これまで1日でクリアしていた全曲披露を、神宮球場でおこなわれる3日間の公演すべてを使って振り分けた。昨年までは一筆書きで振り返ってきたグループの歴史を3つに区切ったことで、各日それぞれが独立したライブでありながら、乃木坂46の歴史を順に1パートずつ叙述していくものになった。

センターに選ばれる「辛さ」

 3日がかりのバースデーライブは、原則的にシングルリリース順に時系列で展開する。すなわち、1日目はデビュー曲で幕を開け、3日目のラストは今夏リリースした最新シングルで締めくくられる。必然的に、初日のライブは乃木坂46草創期の再現をテーマにすることになる。
 初日のライブに関して特徴的なのは、披露された5曲のシングル表題曲すべてを通じて、ただ1人のメンバーがセンターポジションを務めていたことだ。デビューからの来歴を振り返るこのバースデーライブでは、各作品がリリースされた当時その楽曲に参加していたメンバー構成をできるかぎりそのまま再現する。つまり、乃木坂46はデビューから5作続けて同一の人物、生駒里奈をセンターポジションに配していた。シングル6作目以降の楽曲を披露した2日目、3日目は、表題曲ごとに様々なメンバーがセンターポジションを務め、その変遷自体がグループの紆余曲折を物語る。けれども、グループができあがっていく草創期にあっては、常に生駒里奈をアイコンにすることでイメージ形成がなされていった。
 グループにとってのセンターポジション。今日のアイドルシーンについていえば、それは一般に輝かしいものと認識され、スポットを浴びることの保証を意味する。けれども、乃木坂46にあっては、その位置に選出されたことをメンバーが素朴に喜ぶような瞬間を見つけることが難しい。
 本連載第3回「乃木坂46ドキュメンタリーにみる「異界」としてのアイドルシーン」で、乃木坂46とAKB48それぞれのドキュメンタリー映画に言及した際、AKB48のメンバーが葛藤や疲弊を見せながらもシーン内で演出される競争にコミットしているように見えるのに対し、乃木坂46のメンバーはそうしたアイドルシーンの空気を異界として外から戸惑いながらのぞくような、いくぶん引いたスタンスで感情表出をしていることにふれた。グループアイドルが全盛であることで、ことさらに他者との「競争」のイメージで語られることも多いこのジャンルだが、少なくとも乃木坂46にとってそのイメージは屈託なく受け入れられるものとはいいがたい。それは、センターポジションに対する彼女たちのスタンスにも印象的に表れる。
 デビューからおよそ1年半の間、シングル5作にわたって乃木坂46のセンターを務めていた生駒は、2013年7月に初めてセンターを外れることになるが、それから1年後、草創期のセンター経験やメンバーの選抜に関して次のように述べた。

 ――以前、「乃木坂に入ってから、アイドルは大変だと知った」と仰っていましたね。具体的に、どういうところが大変だと思いましたか?
生駒里奈(以下、生駒) いろいろありますけど、やっぱりシングルを歌う選抜メンバーの発表のときは辛いですね。外から見ると、「どうしてあんなことでみんな泣いているのか」「なんでセンターに選ばれて辛い思いをしているのか」とか、わからないと思うんです。
――生駒さんはセンターを任されて辛かったですか?
生駒 そうですね……。センターになると、それを喜んでくれるファンと、「なんで生駒なんだ」って批判する人、真っ二つの意見が同時に出てくるんです。この世の真逆のものが、うちにガーンとぶつかってくる感じ。確かに、他のメンバーを推してるファンの方にとっては、私がいることでセンターの座が奪われちゃうわけですから、それは喜べないですよね。
――なるほど。
生駒 そういう批判にさらされると、「わぁあああ」って逃げ出したくなっちゃうわけです(笑)。だから、センターだった頃は「うちはセンターでいちゃいけない人なのに、なんでセンターをやってるんだ」っていう思いが常にありました。ずっとクヨクヨしてましたね。
――センターを務めている1年半で、精神的に強くなれましたか?
生駒 うーん、あんまり強くなれなかった気がする……。いつも「うちがこんなところに立っていてごめんなさい」っていう気持ちを忘れるために、自分は二の次にして、乃木坂というグループを押し上げることだけを考えていました。(イマ輝いているひと、生駒里奈「10代の女の子が見た“アイドル”の世界」「センターはなぜ“辛い”のか?」

 この一節には、グループの中心に立つことの、世間から見た晴れがましいイメージと、当事者が抱えることになる負荷とのギャップが吐露されている。それは一人彼女だけの感覚ではない。乃木坂46の冠番組『乃木坂って、どこ?』と後継番組の『乃木坂工事中』(ともにテレビ東京系)では、シングルCD発売に先駆けて、放送のなかで次作の選抜メンバーを定期的に発表する。これらの放送回でしばしばうかがえるのは、表題曲の歌唱メンバーやセンターポジションに選ばれたメンバーの、喜びではなく戸惑いや憔悴に近い反応である。それは、絶えざる「競争」のイメージで語られがちなアイドルシーンにあって、その「競争」的なアングルに対する違和や距離感を、きわめて率直に保ち続けているようにも見える。生駒の、「外から見ると、「どうしてあんなことでみんな泣いているのか」「なんでセンターに選ばれて辛い思いをしているのか」とか、わからないと思うんです」という言葉は、番組中のそうした見え方に対する補足説明である。
 このような困惑の態度はもちろん、アイドルグループが引き受ける重責から顔を背けていることにはならないだろう。むしろ、有名性が高い組織の中心に立つことで必然的に背負うものの厄介さを了解するゆえの反応といえる。目の前に訪れた重責に対して、すぐさまポジティブな反応を示すことばかりが真摯さの表出ではない。

俯瞰した視点、シーンへの距離

 アイドルというジャンルは、この社会のなかで両義的な存在としてある。高い有名性を手にすればあらゆる場所にその声や姿が流布し、きわめてポピュラーなメディア的アイコンとして機能する。一方でアイドルは、常にその価値に疑義が向けられる存在でもある。あるときにはその「実力」に疑問符が付され、あるいは商業主義を糾弾する際の格好の対象になる。AKB48が先導したアイドルシーンの活況はアイドルというエンターテインメントの可能性を広げ、それらステレオタイプな視線をある一面では解消しつつある。しかし同時に、AKB48などのグループが社会を取り巻くほどに巨大だからこそ、アイドルというジャンルに向けられるそのようなステレオタイプなイメージはまた、補強されもする。「アイドル」とされる存在がメディアに出るとき、そうしたポジティブ・ネガティブ双方の視線はいや応なく、数限りなく向けられる。グループアイドルがシーンを主導している今日、最もその矢面に立つのは、グループのセンターポジションに置かれた人物である。
 また、センターポジションが引き受けるのは、そうした「アイドル」にまつわる世間的なイメージだけではない。「センターになると、それを喜んでくれるファンと、「なんで生駒なんだ」って批判する人、真っ二つの意見が同時に出てくるんです」という生駒の言葉が視野に入れているのは、アイドルというジャンル自体に反感をもつ層を含む「世間」ではなく、アイドルに対して好意的なはずの人々の反応である。
 現在のグループアイドルシーンでは、様々な文脈をもって集うメンバーたちの群像劇が楽しまれているという側面が大きい。そしてその群像劇を活性化させる一大要素として、楽曲披露の際のメンバーのポジション配置がある。象徴的なポジションに誰かが選ばれるとき、ほかの多くのメンバーはそこに「選ばれない」ことになる。それだけに、グループに対し様々なスタンスで愛着を示すファンたちが向ける、象徴的なポジションに立つメンバーへの視線もまた、賛否や愛憎が入り組んだものになる。
 もっとも、かつてないほど多くの者が「アイドル」というジャンルの実践者として存在している今日、センターポジションを中心とする序列だけを前提としてアイドルというジャンルの可能性や価値観をとらえるのはふさわしくない。先に引用したインタビューからさらに1年後、2015年夏に生駒は次のように述べる。

 生駒 これもほかのアイドルグループと違うところですけど、乃木坂46のメンバーは、どっちかっていうとセンターになりたくないって考えている子も多いんですよ。今のアイドルグループの傾向としては、一生懸命みんながセンターを目指すっていうのが主流で、さらに、それこそが正しいアイドル像みたいに思われているところもあって。でもわたしは「本当にそれだけが正しいアイドルなのかな」って疑問に思うところもあるんです。だから乃木坂46は、自分の良いところや好きなところを伸ばすようにがんばるのはもちろん、同時に自分の苦手なことや嫌なところにも向き合っている。そういうアイドルがいてもいいのかなって思います。
――「人には得意不得意がある」というようなことを、インタビューなどではたびたび発言していますよね。
生駒 だって世の中はそうやってバランスが保たれているじゃないですか。ただアイドルはちょっと特殊で、得意なものが他人とちょっと違うだけでも大きな武器になるから、そこは自分なりに磨いていきながら、陰で不得意なところもできるだけ直していくのがいいのかなって思います。(「パピルス」第61号、幻冬舎、2015年)

 しばしば生駒はこのようにアイドルシーンや乃木坂46というグループ全体を俯瞰し、現状を適切に言語化してみせる。先にふれたような、乃木坂46メンバーのセンターポジションへの向き合い方も、ここでの彼女の発言によって裏付けられる。選抜発表やセンターポジションの決定は、ある単一のヒエラルキーがあてがわれることでグループ全体が統べられてしまうような瞬間でもある。現在、そのような配置決めがグループアイドルを群像劇として際立たせる代表的な駆動因になっている以上、その競争的な空気にコミットすることは、生駒が慎重に語るように一見、「正しい」。
 しかしまた、そのような絶えざる競争への傾斜は、人の目にさらされる立場の演者たちをことさらに疲弊させてしまう構造と裏表でもある。それは、一大メジャーグループとしてシングルごとの選抜制を採用している乃木坂46もまた例外ではない。このとき、選抜発表をポジティブな晴れの場というよりも、葛藤の場として受け止める乃木坂46のメンバーの反応は、選抜やポジションに基づいたヒエラルキーによって作られる価値観を、引き受けながらも問い返すようなものに見える。

センターに立つ根拠のなさ

 とはいえ乃木坂46も、なんであれ選抜発表、そしてセンターポジションの決定を定期的に繰り返しながら、現在のアイドルシーンに地位を築いている。先述したように、有名グループのセンターには「世間」からもファンからも両義的な視線が向けられる。加えて、草創期の乃木坂46は、新人グループでありながら「AKB48の公式ライバル」という大きすぎる看板を背負っていた。まだ何者でもなく、「AKB48の公式ライバル」たる根拠をもちようもない時期である。冒頭で述べた今年のバースデーライブ初日、つまり生駒里奈をセンターに据えたデビューシングルから5作目シングルまでの楽曲披露は、そんな4年前の乃木坂46を、2016年現在の乃木坂46の身体によって再現してみせるものだった。
 この連載で様々な面から整理してきたように、乃木坂46が独自のブランディングを確立している現在であれば、メンバーの立ち位置の入れ替わりによるダイナミズムの変遷はあるにせよ、総体として作り上げるべきグループの方向性は揺らがない。また、結果的にきわめて順調に社会のなかで存在感を拡大させてきたからこそ、生駒をセンターとしたデビュー当時の楽曲群を、現在に通じる礎として、安心して振り返ることもできる。
 けれども、範にするべき基調もなく、AKB48という巨大すぎる比較項だけがある段階で託された草創期のセンターには、寄って立つものがまだなかった。

 ――「AKB48の公式ライバル」ということについては、恵まれているとも言える一方で、相当なプレッシャーもあると思います。
生駒 自分たちがすごく恵まれているなというのはわかっているんですけど、逆に、最初からとても大きなステージが用意されているのに、そのステージに見合う能力が備わっていない、なにもできない、なにもわからない、でも目の前にはやらなくてはならないことが山積みで。ただ焦ることしかできなかったし、やってみたところでなにが正しいのか、なにが間違っているのかもわからず、とにかく必死になるしかない。デビューしてからはずっとそういう状況でした。
(略)
――センターにいることは、こわかったですか?
生駒 こわかった……ですね。
――少しずつステップアップした結果ではなく、いきなりだったこともあり。
生駒 まさにそうなんです。その前に努力したりがんばったりして、やっと掴み取った達成感があればもっと違っていたかもしれませんが、アイドルグループのセンターって、普通に考えたら憧れの場所なのに、わたしにとってのセンターはこわい場所でした。(同誌)

 とりわけ生駒は、乃木坂46の基本形も、「乃木坂46のセンター」の基本形もない状況でセンターに任じられ、そこにいる根拠を最ももたない段階で、「AKB48の公式ライバルのセンター」として膨大な数の視線の矢面に立っていた。

象徴になること

 6枚目シングル『ガールズルール』で白石麻衣をセンターに起用した2013年半ば以降、乃木坂46は堀未央奈、西野七瀬、生田絵梨花、深川麻衣、齋藤飛鳥、橋本奈々未と、時機に応じてセンターポジションを託すメンバーを切り替え、そのことがグループのダイナミズムを促進させていく。それはグループが知名度を急上昇させていくプロセスとも重なり、世間に向けて訴求力をもち、乃木坂46の顔となるメンバーが次々と誕生していくことにもなった。
 他方でセンターから外れた生駒は、それでも乃木坂46の象徴としての役割を背負い続ける。雑誌やバラエティー番組、広告への露出はもちろんのこと、2014年春からおよそ1年間、「交換留学」メンバーとしてAKB48に籍を置く兼任メンバーになったことも大きい。
 この兼任と兼任解除は、AKB48グループ全体のなかで移籍が活発に試みられ、そしてそれが終息していったタイミングとも重なるため、AKB48と乃木坂46の一対一のパワーバランスだけで考えることはできない。とはいえ、それまで体裁上「公式ライバル」として、AKB48グループと一定の距離をとっていた乃木坂46が48グループの地殻変動に足を踏み入れることは、ほかの48系の姉妹グループのそれとは内外にもたらすインパクトも葛藤も大きく異なり、実際AKB48と「交わる」ことに対するネガティブな反応も大きかった。そうした様々な反響までを背負う人物として生駒が選ばれたことは、グループのアイコンとしての印象的な出来事だった。
 約1年間の「留学」期間を経てAKB48兼任が解除されたのち、2015年夏のシングル『太陽ノック』で生駒は2年ぶりに乃木坂46のセンターポジションに配される。この際の選抜メンバー発表も、先に記したように冠番組『乃木坂工事中』(2015年5月11日放送分)のなかでおこなわれた。選抜メンバーが順に読み上げられ、センターに立つ人物が最後に発表される。つまりこのとき、生駒の名前は最後に呼ばれることになったが、自分以外のメンバーが次々に呼ばれていく瞬間について彼女は同番組内で、「兼任解除になって、乃木坂で1回(選抜ではなくアンダーメンバーで)修行してからまた(選抜に)戻るのかな」と考えていたと述べた。これは「上がるか下がるか」という単純な評価軸を前提にした言葉ではない。続けて彼女は、「いま、アンダーライブをやっているから、そこで兼任でやったことを(発揮する)」という意図で、自身がアンダーメンバーに配されるのだろうと考えたとしている。本連載第5回「乃木坂46と「ライブ」との距離」で詳述したように、ライブの絶対数が少なかった乃木坂46にとって、アンダーメンバーが継続的におこなうアンダーライブは、ライブパフォーマンスの発展の象徴になるものだった。つまりこれは、彼女個人の立ち位置を悲観的にとらえた予測というよりも、彼女らしい俯瞰をもって、グループ全体のなかで生駒里奈というピースが次に置かれるべき持ち場を推測した言葉である。
 同日の放送で生駒は、自身がそれまで「乃木坂46を作っていく段階でのセンターしか経験していない」とし、彼女以降にセンターを経験した白石、堀、西野、生田らについて「乃木坂46が大きくなってから、その勢いを保ち続けたままの乃木坂46を引っ張っていったセンター」であるという認識を語った。この冷静な見立てのとおり、年を追って知名度を上昇させていったグループにあって、センターを任されたメンバーたちはそのつど、有名グループになっていく乃木坂46の顔を引き受けてきた。また、白石が主にファッション誌でモデルとしてのキャリアを重ね、生田がミュージカルを中心に中規模・大規模劇場での舞台公演で立て続けに主役を務めるなど、乃木坂46が武器としてきたファッションや演劇といった個別分野で、彼女たちはグループ内のトップランナーになっていく。そしてまた、センター経験者が増え、主要メンバーが多様化していくことで、グループの強靭さにも支え合い方にも厚みが生まれる。生駒の考察は、その充実期のセンターポジションを預かっていたわけではないという、自身への謙虚な評価でもある。
 しかしまた、グループが何の軌道にも乗っていない状態で乃木坂46というブランドの最初の基盤を担うことも同等に尊く、さらに参照するあてや比較項をグループ内に見いだすこともできないだけに、彼女が背負ったものはほかのセンターに比しても独特だったといっていい。生駒は、充実期の厚みや「乃木坂46のセンター」の先例をまだもたない、グループ形成期のセンターを務めたことで、乃木坂46の基調をいや応なく手にすることになった。
 センターから外れたのちも生駒は、そのイメージを背負い続けることで「中心」としての象徴になるのではなく、どの組織内でポジションを任されても不思議と象徴であり続けるという特異な位置を得る。白石ならばファッションモデル、生田ならば舞台演劇といった、特定分野開拓のトップランナーとして立ち回るタイプとはやや異なり、自身も外部露出を多くこなしながらも、一方で常に乃木坂46という本拠地のシンボルであり続ける趣がある。楽曲披露時のフォーメーションだけを見るならば、6枚目シングル『ガールズルール』以降、2016年11月発売の16枚目シングル『サヨナラの意味』に至るまで、生駒がシングル表題曲でセンターを務めたのは『太陽ノック』の1度だけであり、西野や白石のほうがフロントメンバーとして活動する機会は多い。生駒はセンターが立つ1列目よりも、2、3列目を任される機会のほうが目立つ。けれども、彼女の配置が流動的になることでむしろ、どのポジションにいても変わらずグループのシンボルであることが強調されているようでさえある。

歴史を集約するシンボルとしてのセンター

 その生駒が担ってきたシンボル性が今夏、再度センターポジションという場に集約された。7月18日のフジテレビ系『FNSうたの夏まつり――海の日スペシャル』で、AKB48、SKE48、NMB48、HKT48、乃木坂46、欅坂46のメンバーを選抜して結成したユニットが、視聴者投票で選ばれた楽曲を披露した。選ばれた曲は、欅坂46の「サイレントマジョリティー」、そしてセンターを務めたのは生駒里奈である。
 連載第7回「乃木坂46が求めた「コンセプト」」で詳述したように、欅坂46のクリエーションに見える演劇性の高さやコンセプトの貫徹は、突発的に誕生したわけではない。それは、乃木坂46が模索しながら築いてきたコンセプトの統一感や演劇への傾斜といった足跡に導かれたものであり、その過程でまかれた種が、洗練されたかたちで芽を出した結晶が「サイレントマジョリティー」である。そのクリエーションの前提となる乃木坂46の草創期にシンボルとして立ち回り、矢面に立ちながら基調を築いてきた生駒が、延長線上にある最新のマスターピースのセンターの座に就く。この絵は、彼女で始まった一つの系譜を振り返りながら、さらに1枚厚く歴史を塗り重ねていくものだった。
 テレビ番組の宿命上、それは即席のユニット企画ではあった。とはいえ、ここに参加したメンバーはAKB48の渡辺麻友、HKT48の指原莉乃をはじめとして48各グループからはセンター経験者が顔をそろえている。その意味では、乃木坂46より以前、現在のグループアイドル活況の母体である48グループからの系譜を、「サイレントマジョリティー」の背景に重ねることもできる。あるいは、乃木坂46からは西野や白石、生田ら、近年の乃木坂46の顔を務めるセンター経験者たちが参加していたことを思えば、センターが48・46の別の誰かによって担われる景色もまたありえたし、それでも充実した絵は描けたはずだ。
 けれども、乃木坂46にまだ何の裏付けもなかった頃に、中心として最初の模索をした生駒が「サイレントマジョリティー」のセンターを務めることで、乃木坂46から欅坂46へと通じるストーリーは最大限に通りがいいものになる。もとより、48グループのセンター経験者を中心にして6グループが急遽顔をそろえるという性格上、楽曲の世界観の統一よりもキャリアがあるメンバー各人のパフォーマンスを見せつけるものになる。細部にわたってコンセプトを一貫させ、統率されたイメージを描ききったからこそオリジナルの欅坂46「サイレントマジョリティー」が世にインパクトをもたらしたことを思えば、即席の顔合わせと相性がいい楽曲では決してない。このとき、乃木坂46から欅坂46へと流れる系譜を担い、なおかつ48グループのメンバーたちまでも集約する存在として、生駒里奈という人物のキャリアは最適だった。
 放送後、繰り返しファンやメディアの話題にのぼったこの際のパフォーマンスについて生駒は、「サイレントマジョリティー」の歌詞を引きながら次のように振り返る。

 「大人に支配されるな」は10代の子が歌うからこそ、あんなにキマるんだと思うんです。欅坂46がやる『サイレントマジョリティー』はレジスタンスなんですよ。でも、私たちは「過去にレジスタンスだった人たち」にしか見えない。だから「大人に支配されるな」も別の種類のものに聞こえる。きっと『制服のマネキン』の頃の私の表現と重ね合わせた人もいると思うんです。ずっと見続けてるファンの方もそう感じたはず。でも、これはたぶん私しか気づいてないと思うんですけど、あの時の表現の仕方とは全然違う。もうあの時の私じゃない。私はもう反乱軍にはなれないんです。(「BRODY」2016年10月号、白夜書房)

 アイドルシーンの慣例に違和を感じながら、それでもなおセンターを背負った人物のある成熟がここにはうかがえる。それは乃木坂46の足跡を継承しながら新しいオリジナリティーを模索する後継グループの登場によってこそ、はっきり浮かび上がるものだ。「もう反乱軍になれない」は、たとえば渡辺麻友や指原莉乃らにも同様にいえることだろう。だからこそ、彼女たちによる「サイレントマジョリティー」は、レジスタンスによる統率されたパフォーマンスではなく、それぞれの個が強く発揮されるものになる。
 生駒もまた、すでにキャリアを裏付けにした強烈な個性を発する側の立場にいる。それでも、乃木坂46という一大メジャーでありながら、シーンに対して距離をもったまなざしを内包してきたグループの象徴が放つ言葉であるだけに、その俯瞰した視点はクリティカルに響く。

 

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