第2回 乃木坂46の奇妙な演劇

香月孝史(ライター。著書に『「アイドル」の読み方』〔青弓社〕、アイドル関連の記事多数)

 前回は乃木坂46がAKB48の「影」であることのゆえんを、秋元康が抱き続ける舞台演劇への憧れから探った。ごく簡潔にいえば、AKB48が常設劇場を使った連日の公演、すなわち「ハコ」の側面を実現したものであるならば、乃木坂46には上演内容としての「演劇」性が託されているのではないか、というのがその見立てだった。「ハコ」と「上演内容」とを対比するようなこの着想は、乃木坂46メンバーを決定する最終オーディションの際、秋元康自身が語ったプランのなかにも垣間見えていた。

  乃木坂46は専用劇場を持っていないので、様々な場所で活動することになるでしょう。公演は歌だけじゃなく物語性のある内容にしたい。また、1回の公演を前半と後半に分け、休憩時間中に観客による人気投票を実施する。その結果が後半でのポジションに反映されるということを考えています。AKB48は、年に1回の総選挙で選抜が決まるが、乃木坂46は毎回の公演が総選挙みたいなもの。これは、過酷ではあるけれど、チャンスが増えるとも言える。(「FRIDAY」2011年9月9日号、講談社)

 秋元はグループ結成に先立つ段階ですでに、専用劇場の有無を念頭に置きながら、上演内容については「歌だけじゃなく物語性」を乃木坂46に求めている。とはいえ、これが語られた当時はまだ、乃木坂46というグループの活動が何一つ始まっていない時点である。上記の説明を聞いても、それでは具体的に何をやるつもりなのか、その像を描くのは難しかった。
 AKB48発足当初、秋元は宝塚歌劇や小劇場への憧憬を各所で語っていたし、そうした語りはその後も断続的になされてはいる。けれども、乃木坂46結成の2011年時点で「公式ライバル」のAKB48は、歌やダンスを主としたいわゆる「アイドルグループ」として巨大なものになっていた。乃木坂46の活動を予測するとき、基準になるのはあくまでそのAKB48である。引用した秋元の言葉には、「公演」「投票」「選挙」といったAKB48を思わせるフレーズも多い。だからこそ、秋元が「公演」といえばそれはAKB48が専用劇場でおこなっているような音楽ライブをもとに想像するしかなかったし、ましてや秋元が10代の頃から抱えている舞台演劇への憧れを、その補助線として引くような発想はちょっと考えにくかった。
 しかし上述の秋元のプランは、予想以上に「演劇」方面に強く舵を切るものとして実現した。それが、乃木坂46がCDデビューした2012年から毎年おこなうことになる公演「16人のプリンシパル」だ。今回は、乃木坂46というグループを象徴するイベントの一つになったこの「16人のプリンシパル」の、一風変わった魅力に焦点を当てる。

「民意」の反映と演劇の意義

 グループ結成当初に秋元が口にしていた、「1回の公演を前半と後半に分け、休憩時間中に観客による人気投票を実施する」というスタイルが実現したのは、2012年9月開催の「16人のプリンシパル」第1回だった。それは、第1幕でオーディションとして全メンバーによる自己PRがおこなわれ、そのPRをもとに休憩時間中に観客が投票、その得票順位に応じて第2幕におこなわれる演劇(第1回は『不思議の国のアリス』をモチーフにしたミュージカル)の配役を決定するというものだった。この2部制の上演形式は、翌年以降にも継承されて乃木坂46の定番行事になっていく。
 けれども2012年の第1回に関しては、それはまだプロトタイプだったといっていい。審査対象になる自己PRはデビューして日が浅いメンバーたちの紹介を兼ねてもいたが、そのPRと第2部の演劇との間にとりたてて有機的なつながりがあるわけではなく、幕間の投票で決定される序列にどんな意味を見いだせばいいのかはまだよくわからなかった。それに、そもそも第2部の「演劇」が、乃木坂46というグループにとってどんな位置づけのものなのか、この頃はまだ定かではない。ファンの投票という「民意」が反映されて順位が決まることなどからAKB48との比較を呼び起こしはしたけれど、初年度の「16人のプリンシパル」はあくまで試演的なものだった。
 この企画の意図が最も浮き上がってくるのは、翌2013年5月から6月に開催された「16人のプリンシパルdeux」(以下、「deux」と略記)のときだった。
 2度目の「16人のプリンシパル」となる「deux」は、まずなにより開催を知らせる速報で、上演する演劇の脚本・演出を担当する人物の名が発表されたことが大きい。脚本を劇団ナイロン100℃の喜安浩平、演出を劇団毛皮族主宰の江本純子が担当することが打ち出され、この「16人のプリンシパル」という企画が「演劇」を上演するためのものという色合いがはっきりした。それは第1幕のオーディション内容の変化にも見て取れる。前年のような自己PRではなく、メンバーは第2幕の演劇に登場する役柄のうち一役を指定して立候補し、オーディションでは立候補した役柄に応じて一場面を演じてみせる。つまり第1幕は内容的にもあくまで第2幕の「演劇」に奉仕するためのものになった。
「deux」は「16人のプリンシパル」が目指すところを前年よりもはっきり打ち出すことになったが、その方向性は乃木坂46運営委員会委員長・今野義雄の発言からも確かめることができる。「乃木坂46は芝居ができるアイドルを確立したい」と話す今野は、「将来的に、彼女たちが一線級の役者と並んでも遜色がないように羽ばたいてほしいという想いもあるんです。『16人のプリンシパル』はそのベーシックな部分を作るためでもあり、「乃木坂46とは?」の根幹なんですよ」(「OVERTURE」No.001、徳間書店、2014年)と述べる。「16人のプリンシパル」が恒例イベントになることは、当初考えられていた以上に乃木坂46が「演技」への志向をもつグループだと宣言することでもあったのだ。

ドキュメンタリーと虚構の狭間

 ところで、この「16人のプリンシパル」第1幕はオーディションだと書いたが、その審査のなりゆきすべてが舞台公演の前半部で示される以上、オーディションを受けている乃木坂46メンバーたちの姿自体もまた、必然的に「見世物」になる。ステージの中央で審査を受けているメンバーはもちろん、その後方に座って審査を眺める順番待ちのメンバーの表情や挙動の一つひとつが、見物の対象になるわけだ。このとき、ファンが楽しんでいるのは、歌やダンスのパフォーマンスでもなければ、もちろん「演劇」でもない。では何かといえば、メンバーたちが意識しないレベルのものまで含めた挙動や息遣い、すなわち演者として生きる彼女たちのパーソナリティーが楽しまれる対象になっているといえるだろう。パーソナリティーが消費される対象になる、というのは、AKB48にみられる特徴とも通じるものだ。というよりも、前回でも書いたように、ライブ活動などの「現場」とSNSがアイドルの活動の中心になっているいま、彼女たちのパーソナリティーがドキュメンタリー的に享受されることは、女性アイドル全般にとってごく標準的なことでもある。そう考えると「16人のプリンシパル」の第1部は、アイドルのパーソナリティーを見せるための、ドキュメンタリー的な場だともいえる。
 ただし、この「ドキュメンタリー」にはちょっとしたフィクションが混ざっている。「deux」の第1幕で乃木坂46のメンバーたちは、「乃木坂歌劇団第156回公演『迷宮の花園』のオーディションを受けている」という体裁で舞台に現れる。つまり、彼女たちが実際にオーディションを受けているさまは同時に、架空の劇団のオーディション風景という設定の半演劇になっているのだ。どことなく、ミュージカル『コーラス・ライン』を思わせるものでもある。この類いの「設定」は2012年の第1回公演でもなかったわけではないが、「deux」では演出を務める江本によってさらに、ドキュメンタリー性と虚構をないまぜにした趣向がみられた。
 司会を兼ねてこのオーディションを仕切る江本は、江本純子そのものではなく「演出家ローズ・パープル」という役名でこの「乃木坂歌劇団第156回公演『迷宮の花園』」のオーディションに現れる。彼女が受験メンバーに指示を出し、それを「演出助手ムーン・シャドウ」(毛皮族作品への出演も多い女優・柿丸美智恵が演じた)が補助しながら、この第1部は進行する。漫画『ガラスの仮面』(美内すずえ、〔花とゆめコミックス〕、白泉社、1975年―)にインスパイアされた役名・風貌のこの2人だけは、この第1部で明らかにフィクションの役柄である。けれども江本(および柿丸)と舞台上の乃木坂46メンバーとは、稽古期間を含めて「演出者と演者」として関係を築いてきたわけで、「オーディション受験者」が「演出家ローズ・パープル」に指導を受けるその姿には、そのまま乃木坂46メンバーと演出家・江本純子との関わりが二重写しに張り付いている。
 このとき、ローズ・パープル/江本は、「deux」の第1幕のオーディションですべてを取り仕切る指揮者である。しかし一方で彼女にはただ一つ、この公演のなかで最も重要な権限だけが与えられていない。すなわち、第2部の配役を決定する権限だ。配役を決めるのは、幕間におこなわれる観客の投票結果である。その観客はといえば、キャスティングの権利はもっているがオーディションの進行には一切介入できないまま、第1幕の間はただ舞台上を観察しているだけである。つまり、演劇のプロのディレクションでオーディションが進行し、演劇の素人(観客)によって演劇の素人(乃木坂46メンバー)が審査されキャスティングされていく。このねじれた権限のあり方が、「16人のプリンシパル」という企画に独特の味わいをもたらしている。

行く先が未定であることのまぶしさ

「16人のプリンシパル」のこうした審査方法は、乃木坂46のメンバーに普段の活動での露出度や人気度にかかわらず同等のチャンスを与えるものになった。特に審査基準が自己PRでなく役柄ごとの立候補制になった「deux」以降、投票結果や配役は公演ごとの立候補者の巡り合わせとオーディションでのコンディションに大きく左右されるようになる。普段のグループ内での知名度などとは別の基準でキャストが選ばれるとき、そこには新鮮な驚きがある。アイドルグループとしてシングル曲を出す際の選抜メンバーは、どうしてもグループの「顔」を選出するために固定的になりがちである。特にそうした固定化の傾向が強かった乃木坂46にとって、シングル曲を基軸にした活動とは違う論理で各メンバーに光を当てる機能も「16人のプリンシパル」にはあった。
 このように、ある種の「民意」を吸い上げるAKB48的な演出とドキュメンタリー性、それに演劇的な虚構性が組み合わされた「16人のプリンシパル」は、その風変わりな趣向ゆえに乃木坂46オリジナルの武器になった。まだ芸能界のなかで、どころかグループのなかでさえ十分な活躍の場を確保していないメンバーがオーディションの妙によって選出され、第2部の演劇パートで予想外の演技適性を見せる瞬間には、この企画特有の高揚感と希望がある。アイドルグループはその性質上、素朴な意味での個々人の「スキル」を見ればまだ途上段階にあり、その先にどのような適性を見つけていくかも未決定であることが多い。しかし、行く末がまだ定まっていないからこそ、すべての可能性は開かれているともいえる。アイドルグループに所属することは、その可能性を模索するためのステップでもある。「16人のプリンシパル」は、日々オーディションによってミュージカルの配役を目まぐるしく変えていくなかで、メンバーたちの演技や立ち居振る舞いがどんな方向に適しているか、粗削りのままファンに向けてのぞかせていく。これが、AKB48と異なり専用劇場をもたない乃木坂46が発明した、いささか変わった「演劇」公演である。

趣向と裏腹の脆さ

 ここまででこの稿をまとめてしまっても、「16人のプリンシパル」についてのそれなりの説明と分析になっているかもしれない。けれども最後に、「16人のプリンシパル」がはらんでいる難しさ、いびつさのほうにも目を向けておきたい。なにしろ、メンバー自身がそうであるだけでなく、この演劇企画自体がそもそもまだ模索の段階にあるのだ。その未完成さにまで踏み込んでおくことで、この企画の現在形とその先をより見通すことにもなるだろう。
 正直なところ、まだ「役者」ではない、もっといえば芸能を志す者としてまだはっきりとした専門分野を手にする以前のメンバーたちが見せる演技適性は中途の段階のものだ。そんな彼女たちに、「16人のプリンシパル」という公演は、ある大きなむちゃを強いている。というのは、公演ごとに誰がどの役にキャスティングされるか決まっていないという性質上、メンバーはすべての登場人物(メイン役柄10種+補助的役柄6種の計16役)のせりふと段取りをあらかじめ覚える必要がある。ただでさえ俳優としてはビギナーであるうえに、一つの役に専心して演技力を身につけていく余裕は与えられず、どの役に配されてもいいように準備をしなければならないのだ。乃木坂46は、もとはといえば俳優志望の若者を集めた組織ではない。「16人のプリンシパル」はそんな彼女たちに対して、トリッキーなかたちで負荷をかけるものでもある。
 また、3度目の開催になった2014年の「16人のプリンシパルtrois」(以下、「trois」と略記)では、この企画の難しさが別のかたちで顔をのぞかせた。劇作家・演出家の福田雄一を脚本・演出に迎えコメディーをテーマにした「trois」では、第1幕のオーディションにコントが用いられ、同じ役柄に立候補したメンバー同士で演じられるそのコントをもとに審査がおこなわれた。「面白さ」が審査基準になったことで、見栄えの新鮮さと同時にメンバーの自己PRの方向性にまつわる混乱も生むことになる。
 大前提として「16人のプリンシパル」は「演劇」を志向する企画である。けれど、ファンからの選考にさらされる彼女たちはこのとき、審査基準として「面白さ」を要求され追い込まれるなかで、演劇的なパフォーマンスから離れ、インスタントに己をアピールするための一発芸的な「面白さ」を求める方向に傾いていった。「trois」では公演ごとに演出家や俳優が補助に入るシフトをとらず録音された音声で進行していたため、ディレクションを細やかに試みることも難しい。「16人のプリンシパル」第1幕は当人たちのパーソナリティーの発露が楽しまれる場だと先述したけれども、最低限の「演技」が保たれなければコントとしても成立しにくくなる。舞台演技をしてみせることに関してはまだアマチュアといっていい彼女たちにとって、そこから「演劇」へと自力で軌道修正することは容易でなかった。
 ステージ上にいる彼女たち自身、その脆さに無自覚ではなかったはずだ。「trois」公演期間序盤のある回で、印象的な光景があった。第1幕のオーディションでコントが進行するなか、メンバーたちの一発芸的な振る舞いの応酬が続くサイクルに入ったまま軌道修正ができず、なかなかコントの締めまでたどり着けないでいた。そのとき、当該のコントに参加しておらず、後方で自分の順番を待機していたメンバーの生駒里奈がふいに、「テンポ感!」と声をかけてスムーズな進行を促した。さらに直後、自身がコントに参加する番になると、それまでおこなわれていた複数のコントで間延びしてしまった空気を埋めるかのように、己をアピールすることよりも、迅速にコントを進めることのほうを優先するかのように振る舞った。他者のオーディションのための時間に彼女が介入したことに対して、ファンの一部からは賛否の声もあがった。しかし、第1幕もまた観客に買われたコンテンツの一部である以上、目的地を見失った時間が続くことは誰にとっても本意ではない。生駒は普段から乃木坂46というグループを俯瞰した視点をもつメンバーである。その生駒だからこそ一声を発することができたのかもしれないし、もちろん当該の行動に至るまでに種々の葛藤がなかったはずはない。そしてその葛藤や歯がゆさは彼女1人だけのものでなく、舞台上にも客席にも何らかのかたちで共有されていたもののように思う。これが「16人のプリンシパル」という特殊な企画が、緊張感と背中合わせに常にもっているあやうさでもある。「trois」はその後、公演期間が進むにつれてスピードアップを促す方向に修正が模索されながら上演された。こうした脆さは、メンバー個々の振る舞いというよりは、「16人のプリンシパル」という企画そのものがいまだ過渡期にあることを示すものだろう。

「お試し期間」の先にあるもの

 このあやうさはしかし、回を重ねることでメンバーの側にもはっきり自覚されてきた。メンバーの橋本奈々未は「16人のプリンシパル」の性質を冷静に分析する。

 「プリンシパル」は芝居を基礎から教えてもらえる場ではないので、演技力が身につくかといえばそう簡単でもなくて。私たちは投票システムによる舞台を、エンタテインメントとして成立させようと必死な部分が大きいんです。それと、今の方式だと、ファンの方は楽しめるけど、私たちを初めて見たような新規の方には分かりにくいイベントになってしまわないかが課題ですね。(「日経エンタテインメント!」2015年2月号、日経BP社)

 橋本は、ともすれば翻弄されるままに終わってしまいがちなこの企画の課題を、その内側に放り込まれる実践者の視線から的確に指摘している。そもそも「演劇」としてはどうしても整ったルックスになりにくいこのコンテンツは、毎年テーマを変化させながら最適地を探し続けているようなところがある。生駒里奈は乃木坂46の歌やダンスに関して、「最初から「これ」という形が決まってないのが乃木坂の良さでもあると思っていて。今後はもしかしたらハードなダンスの振りだってあるのかもしれない。乃木坂って「永遠のお試し期間」なんじゃないかと。私もそれでいいと思ってます」(「MdN」2014年4月号、エムディエヌコーポレーション)と語っている。これまでの「16人のプリンシパル」もまた、「芝居ができるアイドルを確立」するための道筋を探求し続ける、「お試し期間」のようなものとしてあったのかもしれない。「trois」での生駒の立ち居振る舞いや先の橋本の分析などからは、何度かの公演を経て、メンバーの意識がその探求に追いついてきつつあることがうかがえる。だとすれば、この独特の趣向をメンバーたちが乗りこなし、能動的に公演のかたちを構築しながら「16人のプリンシパル」の、そしてメンバーたち自身の最適地を探り当てるのはまさにこれからなのだろう。
 2015年の「16人のプリンシパル」は秋頃に開催が予定されている。一風変わった高揚と模索がより合わされた奇妙な魅力を発しながら、乃木坂46の実験の季節が少しずつ近づいている。

 

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