第7回 民話のふるさと――不思議の里遠野の小正月(岩手県遠野市)

吉野りり花(日本の旅ライター・旅エッセイスト。日本の食文化を中心に執筆)

 新花巻で東北新幹線を降りて釜石線に乗り換えると、窓の外には真っ白な雪景色が広がった。草木を覆う一面の白と、その合間をゆったりと流れる川。そんな風景を眺めていると、都会に置いてきた慌ただしさはいつの間にか遠くなっていく。
 新花巻駅から約1時間、目的地の遠野駅に降り立つと、風に舞う雪が冷たく頬が痛いくらいだ。南国育ちの私に東北の寒さは容赦ない。マフラーで顔を覆うようにして寒さをしのぎ、空を見上げると、灰色の雲が低く垂れ込めている。1年でいちばん冷え込みが厳しい1月の、しかも今日は15日の小正月。「小正月の夜には雪女が出る」――遠野にはそんな伝説が伝わるけれど、この重たい空を眺めていると、いまにも雪女が現れそうな気がしてならない。
 明治時代の民俗学者・柳田国男が記した1冊の本『遠野物語』。この本のことを語らずに遠野を語ることはおそらくできないだろう。『遠野物語』は遠野に暮らした佐々木喜善という1人の青年が聞き集めた伝承や民話を、柳田が書き記し自費出版したことで生まれた。この本の舞台になった遠野は不思議なところだ。民話のふるさと、伝承の里。ひと言でそうまとめるのは簡単だけれども、そのひと言で言い表せないような奥深い魅力をもっているまち。どこにでもあるようで、でもここにしかない小宇宙が広がる不思議の里だ。
『遠野物語』を読んだことがない人は、民話と聞くとノスタルジックでほのぼのとした昔話集を想像するかもしれない。しかし『遠野物語』に描かれているのは決してそういう類いの話ではない。河童や座敷童子、隠れ里のマヨヒガ、山の神、雪女など幻想的な物語の背後には、姥捨てや殺人事件、口減らしや夜這いの歴史など目を背けることができない人間の姿が見え隠れする。生きることに必死だった時代に、泥臭く生きた人々の姿。そこに描かれていることは決してきれいごとだけじゃない。むしろ人が人として生きていくなかで起こる血がにじむようなリアルだ。
 少し話が脱線するが、私は古い日本映画が好きで、とくに寺山修司の映画が好きだった。好きといってもその気持ちは複雑で、好きなくせに見るといつも暗澹たる気持ちになる。寺山が描く世界は、寺山が生まれ育った青森県下北半島のムラ社会と幻想が入り交じったような独特の物語で、それを見ると私はいつも故郷を思い出してしまう。同じように田舎で育った私が避けたくても避けられず、結果逃げ出した狭い共同体独特の人間関係。『百年の孤独(さらば箱舟)』(配給:ATG、1982年)で規範に監視され続ける捨吉や、『田園に死す』(配給:ATG、1974年)で柱時計を抱え逃げ出す少年。どちらを見ても、私は登場人物に自分を重ねてしまう。寺山映画に描かれる美しい山野と、ノスタルジックだけでは終わらないそこに生きる人間の本質は、『遠野物語』に描かれているものと同じだと思う。
 私が遠野を訪れたのは今回が6回目だが、初めて訪れたときのことはいまでもよく覚えている。『遠野物語』を読んで遠野に引かれた私は、友人と2人で遠野にやってきた。『遠野物語』をまだ読んでいないという友人に、「行く前に読まないと遠野はわからないよ、きっと」と忠告したが、友人は「そんなことないって」と言う。ちょっと不安を感じながらも、定番の河童淵や山崎の金精様、五百羅漢を訪ね歩くうちに案の定友人が言った。
「なんなの、ここ。なんにもないじゃない。どこに河童がいるの?」
 これには私もムッとした。そして
「だから本を読んでないとわからないって言ったのに!」
とけんかになった。

 遠野を旅するにはちょっとだけコツがいる。目の前に広がる何げない田園風景や山野に、頭の中で物語を重ねる。人によっては地図を重ね、物語に登場する地点を訪ねる。この土地の何が物語を生み出したか想像する。遠野はそんなふうに空想と目に映るものをミックスしながら歩く場所だ。
 その後あらためて1人で遠野を旅してから、私の遠野に対する印象はどんどん変化していった。はじめは『遠野物語』に描かれた怖い面だけを見ていたけれど、遠野の人はあたたかく、とても人懐っこく旅人を迎えてくれる。大きな自然と人とのあたたかさに癒され、気づけば私はたびたび遠野を訪れるようになっていた。ふるさとのように懐かしく思う場所。いつの間にか私にとって遠野はそんな特別な場所になっていった。沖縄を除く全国46都道府県を旅して回った私が、いま日本でいちばん好きな場所は間違いなく遠野だといえる。
 遠野に残されているのは目に見えない物語だけではない。野を歩けば道端にはそこかしこに小さな祠があり、あちこちに伝承の忘れ形見が残っている。さらにほかの土地ではすっかりすたれてしまったような伝承行事が残っていたり、しし踊りや神楽など郷土芸能も数多く守られていたりもする。それを目の当たりにしたとき、『遠野物語』の時代の遠野がふっとよみがえったように感じる瞬間がある。そう、『遠野物語』はいまもこの土地に生きているのだ。

 遠野市は岩手県の内陸と沿岸部の中間にある。駅の周りは栄えているが、少し離れると広大な山野が広がり、その周囲を石上山、六角牛山、早池峰山の遠野三山がぐるっと取り囲む。盆地のため真冬はマイナス20度を下回る寒さになることもある。いまは勤め人が増えたというが、昔は稲作畑作に従事する人がほとんどだった遠野では、人々は昔からたび重なる冷害や飢饉に苦しめられ、厳しい自然と向き合いながら暮らしてきたし、そんな遠野では豊作を祈ることは生きることと同じくらいの重さがあったのではないだろうか。だからこそ1年の始まりである小正月には豊作を祈る様々な行事があった。
 今回の旅の目的は遠野に伝わる小正月行事を見ること。複雑にして深く、ひと言では語り尽くせない遠野の魅力を、伝承行事と縁起食から紹介したい。

1,000体のオシラサマが祀られる不思議空間・伝承園へ

 昔、飼い馬に恋した娘がいました。娘の父親はそのことを知って激怒し、馬を殺してしまいました。娘は嘆き悲しみ、馬の後を追って命を絶ってしまいました。馬と娘は一緒に天に昇り、オシラサマと呼ばれる神様になりました。
『遠野物語』に収録されたこのオシラサマの話を知ると、『遠野物語』の特異性を少し感じ取ってもらえるかもしれない。遠野を含む南部藩地方には曲がり家と呼ばれる独特の住居があり、一つ屋根の下で人と馬が同じ空間で暮らしていた。そこで起こった悲恋の物語は、決してほのぼのとしたファンタジーではない。おそらく現実がベースだっただろうこの物語に思いを馳せると、恐ろしささえ感じてしまう。
 こうして天に昇ったオシラサマは神様として信仰されるようになり、遠野では各家で人馬一対の木製のオシラサマを大切に祀ってきた。オシラサマは農業の神様であり、蚕の神様であり、馬の神様ともされる。祭日は各家によって違うが、小正月近辺には年に1回オシラサマを遊ばせるオシラアソビという行事をおこなう習わしになっている。
 土淵町にある観光施設の伝承園にはオシラサマを1,000体集めた御蚕神堂(オシラ堂)がある。ここを初めて訪れたときの衝撃はいまだに忘れられない。きしきしときしむ廊下を渡り小さな部屋に足を踏み入れると、壁一面におびただしい数のオシラサマ。そのとき、私の心の中では怖いような、威圧されるような、でも尊いような気持ちがごちゃまぜになった。願いを何でもかなえてくれるとされるオシラサマの服には無数の願い事が書き込まれ、私はただただその願いの数と信仰の厚みに圧倒された。

 伝承園は厳しい自然とともに生きた遠野の人々の暮らしを体験できるように作られた観光施設で、小正月15日の今日は地元の老人クラブの方々と小学校の子どもたちが集まり、昔ながらの遠野の小正月行事をおこなう。これを見学させてもらおうと、私も朝早く伝承園を訪ねた。

曲がり家を彩る五穀豊穣のカラフルなミズキ団子

 遠野の小正月行事といえば、ミズキの枝に団子を飾る「ミズキ団子」、雪を田んぼに見立てて松の枝を植え田植えを模倣する「お田植え」、カラスに小豆団子を放って厄除けを祈る「カラスよばり」、オシラサマを遊ばせる「オシラアソビ」、子どもたちが夜家々を訪ねて畑の豊作を祈る「畑まき」などがある。伝承園では昔の生活を子どもたちに伝えようと、毎年15日に畑まきを除く小正月行事をおこなっているという。
 古い曲がり家やつるべ井戸、水車小屋や金精様などが配置された園内を歩いていると、ポツポツと老人クラブのおばあさんたちが姿を現し、少し遅れて子どもたちも到着した。みんな集まったところで伝承園支配人の菊池美保さんのあいさつが始まった。
「今日はみんなで小正月行事をします。まずミズキ団子を作って、曲がり家のミズキの木に団子を付けます。ミズキの団子は今年1年の豊作を祈って作ります。これで今度の秋にどれくらい田んぼが実るか決まるかもしれないので、一生懸命やってください。その次はオシラアソビ。オシラサマにセンダク(衣装)をつけてお化粧をします。それからお田植えとカラスよばり。カラスにうまくお餅を食べさせるとその年はいい年になるっていわれているので頑張ってね」
 子どもたちは大きくうなずき、小正月行事にとりかかった。

 まずは土間で餅つきを。大きな臼に蒸したもち米を入れ、杵でペタンペタンとつく合間におばあちゃんが慣れた手つきで合いの手を入れ、もち米をひっくり返す。祖父母が健在だった頃、私の実家でも餅つきをしていたっけ。懐かしく思いながら眺めていると、「ちょっとやってみる?」と声をかけられた。杵を受け取ると、ずっしり重いけど、子どものときに餅つきを手伝ったときよりはずっとずっと軽く感じる。よいしょと杵を振り下ろし、数分も続けると息が上がってきた。あぁ、日頃のデスクワークでなまった体が情けない!「明日は腕が痛くなっぺ」とからかわれながら餅つきを続け、しばらくするとほかほかの餅がつきあがった。
 その餅を小分けにして、カラスよばり用の小豆団子とミズキ飾り用のミズキ団子を作る。小豆団子はあんこと餅を一緒につきこみ、丸めたもの。これはカラスの大好物とされていて、あとで空に放り投げて厄除けをする。ミズキ団子は上新粉とキラズ(おから)に餅を合わせて、食紅で赤、青、黄色に色づけて丸めて作る。
 工芸館では子どもたちが老人クラブのおばあちゃんたちに手ほどきを受けながら、ちっちゃな手で餅をこねてミズキ団子を作っていた。くるくると丸めると次々と鮮やかな団子ができあがっていく。絣模様のはんてんを着込んだ子どもが1人、「見てー、ペタペタ」と食紅で真っ赤に染まった手を見せてくれた。
 できあがったミズキ団子は冴えるように色鮮やか。これを曲がり家の神前に供えてから、ミズキの枝に飾り付ける。俵に木を生やすようにミズキの枝を差し、その枝に団子を飾っていく。赤、青、黄色とカラフルなミズキ団子と、もなかで作られた鯛や大黒様、えびす様が飾り付けられると、曲がり家のなかがパッと華やかになった。

 ミズキ飾りは今年一年の豊作、五穀豊穣を祈るための行事で、しばらく飾った餅は毎年20日に食べる習わしだが、伝承園のものは観光用にそのまま飾っておくという。ミズキの木の前には稲穂のような形をしたわらが吊るされ、それに子どもたちが白い餅を5個ずつ付けていく。これは「あわもだし」といい、稲に米がたわわに実るのを模したもので、やはり豊作を祈るための行事だ。
 ここで「少し休憩ねー」とみんなにお汁粉が配られた。さっき私が餅つきを手伝った餅が入ったお汁粉は、塩気がきいて絶妙においしい。そういえばカラスよばりに使うのはなんで小豆なんだろうか、厄除けの力があるからだろうか、と近くにいたおばあちゃんに尋ねてみた。するとおばあちゃんは「やっぱりカラスもおいしいほうがいいからだろうね」とニッコリ。そりゃそうだ。おいしいほうがいいよねぇ、カラスも。

年に一度オシラサマを遊ばせる――オシラアソビ

 今度は曲がり家の囲炉裏の周りに女の子たちが集められた。いまから始まるのは「オシラアソビ」。悲恋の末に神様になったオシラサマを年に一度遊ばせる「オシラアソビ」は女の子の仕事だ。オシラサマは木の棒の先に顔が彫られたようになっていて、そこにセンダクと呼ばれる布で着物をかぶせてある。今日はオシラサマに化粧を施し、新しい着物に着替えさせる。
 老人クラブ会長の菊池芳子さんが説明を始めた。「いまからオシラサマと遊びます。オシラサマはみんなの願いを何でも聞いてくれる神様です。みんな自分が持ったオシラサマにどの着物が似合うかなと選んで、お願いを込めてお化粧して着物を着せるんだよ。いままではオシラアソビは家でやってたんだよ。でもそったら昔のことをっていって、いまはやらなくなりました。これは昔から伝わってる大事なことなので、みんながお嫁さんにいっても、今日は小正月だから団子作りしてみるかな、オシラアソビするかなと思い出してくれたらいいなと思います」
 女の子たちはそれぞれ一対のオシラサマを手に取り、米粉でこしらえた白粉で化粧を施し、着物を着せていく。十二単を着るように襟を重ねてオシラサマを華やかに着飾った。
 女の子たちの年齢は10歳くらいだろうか。毎年こうやってオシラサマを遊ぶというが、大人になったとき、彼女たちはこの時間をどんなふうに思い出すのだろう。オシラサマに祈りを込める静かな時間。こんな経験をできる子どもがいま日本にどのくらいいるだろう。美しく化粧したオシラサマ同様に、真剣な表情でオシラサマに化粧を施す彼女たちもまた、とても美しく思えた。

カラスよばりと小豆団子――好物の小豆団子をあげるから

 オシラアソビが終わると曲がり家の前に子どもたちが集められた。松の葉を持ち、雪を田んぼに見立てて、その畝に松の葉を植えていく。田植えの動作を模した「お田植え」も、今年も米がよくとれるようにと願いを込めるためのもの。それが終わると一列に並んだ子どもたちが、空に向かってカラスよばりの歌を歌い始めた。
「カーラス、からす。餅けっからこーいこい」
 小雪がちらつく空に元気な声が響き渡る。歌い終わると子どもたちは一斉に空に向かって小豆団子を放り投げた。冬は山にも田にも食べるものが少なくなるから、例年は空をくるーりくるりとカラスが旋回し、たくさん小豆団子を食べにくる。しかし暖冬の今年は空にカラスの姿が見えない。
「カラス来ないね」
と残念そうな子どもたちは何度もカラス呼びの歌を歌った。

 甘い砂糖を使ったあんことお餅をたっぷり使った小豆団子は、昔は最高のごちそうでハレ食だっただろう。それを惜しげもなくカラスに放ってやるのには、お腹いっぱい食べて、秋になったら実った作物をついばまずにいてほしいという願いを託しているからだ。冷夏による飢饉に悩まされてきた遠野では、作物の豊作不作は人々の命に関わる大問題だったはずだ。大好物の小豆団子をあげるから、作物を荒らさないでね。昔ならこれはとても切実な願い事だったにちがいない。
 ちなみにカラスよばりで歌う歌は土地によってまちまちで、ほかの土地のものには悪口歌なんかもあるらしい。たとえば北上市では昔は「意地のよくねぁカラスば、頭割って塩つけて カゴさいれて、からげぁで」と歌っていたらしく、それに比べると遠野のものは素朴に思える。北上の歌のように脅されることなく、おいしい小豆団子をもらえるのだから。
 カラスよばりを終え、これで伝承園の小正月行事もすべて終わり。ここで子どもたちから老人クラブのおじいちゃんおばあちゃんにプレゼントが手渡された。老人クラブのみなさんが喜ぶ姿を目を細めて眺めていると、いがぐり頭の天使が私のところにもやってきた。
「はい」
とプレゼントを手渡され、少し戸惑う。
「え、いいの?」
と受け取ったら、いがぐり君は小走りに去っていった。
 袋を開けると、中身はホッカイロ。暖冬といえども慣れない寒さに震える身にとっては染みるプレゼント。これはうれしいな。でももったいないから、しばらく使えそうにないな。

『遠野物語』に登場したゴンゲサマ――頭を噛んでもらうと無病息災

 伝承園での小正月行事を見学し終えた私は、今度は遠野市松崎にある遠野郷八幡宮に向かった。遠野郷八幡宮は遠野最大のお祭りである「遠野まつり」がおこなわれる神社で、『遠野物語』第110話に描かれたゴンゲサマが奉られているという。
『遠野物語』に記されているのはこんな話だ。「ゴンゲサマというのは神楽の組ごとに1つずつ備わる木彫りの像。あるとき神楽組が附馬牛で宿をとりみな眠った夜中火事が起きた。するとゴンゲサマが飛び上がり火を噛み消した」。この話からゴンゲサマは火伏せの神様として信仰されている。
 ゴンゲサマの姿は一見獅子舞でおなじみの獅子頭のようにも見える。だが、よく見ると牙がない。これがゴンゲサマが獣ではなくて神様だという証しだという。ゴンゲサマとは漢字で書くと権現様。つまり神様が仮に現れた姿だ。そして小正月の今日、遠野郷八幡宮でおこなわれる「年越祭」では八幡様が権現様となって舞い降りる「権現舞」を見ることができるのだ。
 参道を登りきったあたりの拝殿前で待っていると、しんしんと雪が降るなか、冬空に法螺貝の音が響いた。参道に権現様をたずさえた神楽衆が現れ、1人は法螺貝、1人は笛、もう1人は手平がねを手に参進してきた。舞い込みを終えた神楽衆は拝殿に進む。
 ご神前に鎮座された権現様を前に祝詞が奏上され神迎えがおこなわれ、権現舞の奉納が始まった。あたかも魂が宿ったように、頭を振りかぶり激しい動きで神楽を舞う権現様は、やがて火に見立てた赤い布をガツガツと噛む所作をした。『遠野物語』に描かれた火消しの所作を、この目で見る。これが『遠野物語』の世界と現在が交差する瞬間。『遠野物語』の世界が、いま目の前によみがえる――。
 神楽を舞い終えた権現様が今度は参列者の頭をガツガツと噛んで回った。権現様に頭を噛んでもらえば無病息災、今年1年健康でいられる。そう信じられているから、参列者は頭だけでなく腰や肩や、具合が悪いところをありがたく噛んでもらう。
 神楽が終わり、次は境内の馬場でどんと祭が始まった。正月飾りを集めたどんと焼きの焚き物に火が入ると、冬空には猛々しい炎が上がる。その火の周りを権現様がぐるぐると回り、そしてまた参列者の頭を噛んで回る。参列者たちは行列を作り、うれしそうな表情で権現様に噛んでもらっている。
 空がうっすらと暗くなり始めた頃、参拝者には福餅が配られた。福餅は丸い形をしているため「丸くおさめる」という意味もあり、1年のはじめのお守りでもある。私も長い竹の棒の先に福餅をさして、パチパチと燃えるどんと焼きの火でじっくりとあぶり、福餅にかぶりつく。「少し焦げちゃった」と笑ったら、「厄落としだからね、少し焦げるくらいがいいんだよ」と地元の方に教えてもらった。

昔話と明かりは夜をあたたかく包む舞台装置

 次第に暮れゆく空と、夕闇に赤く燃え上がるどんと焼きの炎を眺めながら、私は昨年のことを思い出していた。ここ遠野郷八幡宮でおこなわれた「一灯で聴く遠野昔話」というイベントに参加したのは、6月のことだったろうか。
 電気がない時代、夜は闇に包まれていた。いまでは電気の光があることが当たり前で、必要があればいつでも明かりをつけることができるけれど、昔はそうでなかったはずだ。そんな時代の闇とはどんなものだったのか。
 以前、岩手沿岸部での被災地取材の帰りに、夜中に海沿いの大槌から遠野にいたる笛吹峠を車で走ったことがあったが、そのときの怖さといったらなかった。峠にさしかかる頃にはあたりに濃い霧が立ち込め、民家も何もない峠道は車のライト以外には街灯もなく目の前は真っ暗。まさしく一寸先は闇だ。しかもうっかりしていてガソリンの残量が少ない。もしエンジンが止まったら、闇に飲み込まれてしまう。どうしよう。幽霊でも出るんじゃないか。いや幽霊じゃなくても、この辺には熊も出るはず。何かの獣に襲われたら終わりだな……。そんなふうにおびえながら、おっかなびっくり山を越え、ようやくふもとの家の明かりが見えてきたときの安堵感はひとしおだった。この恐怖のドライブで、私は日頃どれだけ光に守られ電気がある生活の恩恵を受けていたか思い知ったりもしたのだ。
「一灯で聴く遠野昔話」は『遠野物語』の時代をしのんで、ろうそくの明かり一つで語り部が語る昔話を聴くというもの。鳥居の前に集合した私たちは、ちょうちんを片手に明かりを消した神社の参道を歩き、明かりを消した拝殿に入った。ろうそくに火がともされ、昔話が始まる。語り部が昔話を語ると、風に揺れたろうそくがチラチラとまたたく。人柱の話が語られるときは、そのまたたきが恐ろしさを際立てて、「どんとはれ」と語り部が話を終えると、不思議と包まれているようなあたたかささえ感じた。少しだけ、『遠野物語』の昔を体感する――。物語が闇を安らぎに変えていく。
 明かりと昔話は、恐怖の対象だった闇を、あたたかく包んでくれるものに変える舞台装置でもあったのだろう。闇の先に広がる異界と、夜を生きる人間をつなぐ、昔話。そんな不思議な感覚を教えてくれたのも、ここ遠野郷八幡宮だった。

飯豊神楽の里に伝わる日本のハロウィーン「畑まき」

 すっかり夜の闇に包まれた遠野で、私は本日最後の目的地である土淵町の飯豊公民館に向かった。飯豊地区は比較的標高が高い場所にあり、水源が乏しかったことから稲作でなく畑作が中心だった。飯豊神楽も残る伝承の里だ。ここで小正月の今夜、畑の豊作を祈る「畑まき」という行事がおこなわれるという。「畑まき」は子どもたちが家々を訪ね歩き、幸せの種をまいて回るというもの。一体どんな行事なのだろうか。
 夕刻に公民館にうかがうと飯豊の小学生たちが集まり、畑まきの歌を練習していた。黒板に書かれた詞はこんなものだ。

  やらさのえー やらさのえー 
  恵方(あけ)のほうから畑まきにきました 
  まかせますか まかせませんか  
  やらさのえー やらさのえー

 この歌を歌いながら、家々を訪ねるという。早速出発した子どもたちの後を追って、私もカメラ片手に夜道に繰り出した。真っ暗な道を歩く子どもたちの後ろ姿が、月の光に照らされてぼうっと浮かび上がる。家を1軒1軒めぐり、玄関の前に立つたびに子どもたちは一列に並んで歌う。

「やらさのえー やらさのえー」
 歌声を聞いた家の人が出てくると

「恵方(あけ)のほうから畑まきにきました。
まかせますか まかせませんか?」
と子どもたちが尋ねる。家の人は
「まかせます」
「いっぱいまいてけう!」
と答えて、ごほうびに袋いっぱいのお菓子を手渡す。

 これは、まるで日本のハロウィーン!?  実は畑まきについて事前にあちこちに問い合わせたのだが、遠野でも知らない方が多いようだった。それなのにこんなすてきな風習が小さな里に人知れず残っていることに感動してしまう。お菓子袋をぶら下げた子どもたちが次々に家を訪ねて歩く様子を、少し離れたところから眺めていると、やがて遠く林のなかから姿が見えなくなった子どもたちの歌声が聞こえてきた。

「やらさのえー やらさのえー」

 月夜の晩に子どもたちの歌声がこだまする。その一部始終を眺めながら私は思う。まるで夢か、映画でも見ているみたいだ。なんて美しいんだろう。日本は思ったよりもずっとずっと広くて、まだまだ見たことのない風習が思いもよらない場所にいっぱい残っているんだ。それはとっても美しくて、かけがえのないことなのかもしれない。その価値にいまはまだ多くの人が気づいていないけれど……。
 そんなことをつぶやくと、畑まきの案内を買って出てくれた飯豊自治会役員の今淵博美さんが「東北文化財映像研究所の阿部武司氏が“偉大なるマンネリ”という言葉を使っていたけれど、こういうのがまさに“偉大なるマンネリ”なんだろうな」と答えてくれた。やめることもせずに毎年続けてきたから、いまここにこんな風習が残っている。気がつけばそれがいまの時代にはすっかり珍しく価値があることになっていた。そんな感じだね、と。今淵さんの言葉には照れ隠しもあるのかもしれないけれど、それが日本のハロウィーンを残してくれたのなら、結果オーライ。とてもすてきなことではないか。そしていま、そうして残された伝承が忘れ去られようとしている教えや学びを伝えてくれているのだから。

 雪の夜道を1時間以上も歩き回り、手にお菓子の袋をぶら下げた子どもたちが公民館に帰ってきた。例年ならしばれる冷え込みだが、暖冬の今日は子どもたちも余裕の笑顔だ。収穫のお菓子を机の上にずらりと並べると、スナック菓子やチョコレート、どら焼きやようかんにコーラまで実に壮観だ。お菓子ってこんなに種類があったのかと思うくらいさまざまなお菓子が並んでいる。昔は白いお餅をもらったらしいが、いまでは時代に合わせて子どもたちが好きなお菓子に形を変えた。これをあとで小さい子どもから順番に好きなものを選んで袋いっぱいに詰めて持ち帰る。
 子どもたちにしてみれば、こんなにたくさんのお菓子をもらえる機会もそうないだろう。どのお菓子が人気だろうかと物色していると、いたいたジバニャン。『妖怪ウォッチ』のキャラクター・ジバニャンがプリントされたスナック菓子だ。これはきっと争奪戦だな。「持って帰ってくださいね」と声をかけられ、私まで袋いっぱいのお菓子をいただいた。
 雪女が出るといわれた小正月の夜に、神楽の里・飯豊ではこんなすてきな風習が人知れず続けられている。それは映画のワンシーンを見ているように、かけがえのない、美しい夜だった。
 畑まきに参加していた子どもたちはみんな飯豊神楽にも参加しているそうだ。彼ら彼女らが担い手になって、伝承は後世に受け継がれていく。

地獄から鬼が上がってこないように――仏正月のとろろご飯

 遠野では1月15日に小正月として神様ごとをするのに対し、16日は仏正月として亡くなった方のためにお正月をする。仏正月は別名「地獄の釜の蓋開き」と呼ばれるもので、全国にも同じような伝承がある。死後の世界である地獄は地中にあると考えられていて、この日は地獄へ下りる釜の蓋が開き、地中から恐ろしい鬼が上がってくると考えられていた。そのため土淵ではこの日の朝にはとろろ汁をかけた「とろろご飯」を食べる風習があった。とろろ汁はネバネバしているので鬼が足をすべらせてしまうと連想され、地獄からの鬼が上がってこられなくなり、家族みんなが1年健康で過ごせるとされた。
 仏正月に「とろろご飯」を食べる風習はいまではほぼおこなわれていないようだが、2人の人から「いまも食べるよ」と教えてもらった。土淵の山崎金精様の近くに住んでいるというおばあさんは、「嫁いできたときに仏正月は必ずとろろご飯を食べるようにと教わった。この辺ではちゅーぶ(脳卒中)にならないようにっていう。とろろがないときはわざわざ買っても作るようにしていた」と教えてくれた。
 生きている以上逃げることができない死の恐怖。そして恐ろしい鬼と地獄のイメージを、お椀一杯のとろろご飯でやっつけてしまおうとする。「とろろご飯を食べたからもう大丈夫」と安心する。このささやかさこそが、人間のかわいらしさであり、願いを託す「まじない食」のすてきなところだ。

生きていくのがいちばん大変なこと――ミズキ団子と先祖供養

「ミズキ団子は五穀豊穣を祈るものとされているけれど、本当は先祖供養の意味もあるんだよと、附馬牛町に住む当時82歳の北湯口おばあちゃんが教えてくれた」と私に話してくれたのは遠野郷八幡宮宮司の多田頼申さんだ。ミズキの枝は長短二又に分かれるが、ミズキ飾りではその一つひとつに団子を飾り付ける。実はそれは系図の形を表しているんだと。父母、祖父母、曾祖父母……それぞれにお供えをしてご先祖様に新しい年を迎えさせ、自分たちも新年を迎えた喜びを伝えて、ご先祖様を供養するんだよと。このおばあちゃんは残念ながらいまはもう亡くなっていて、直接話を聞くことはできなかったが、伝統行事に込められた祈りは一つではないのだと教えられる。地域によっても家によってもそれぞれのやり方や言い伝えがあって、まるでお正月のお雑煮が家によって少しずつ違った形にアレンジされてその家の形に納まるように、伝承も変化していったのだろうか。
 おばあちゃんはこうも教えてくれたそうだ。「いまの小正月のミズキ団子では豊作祈願の意味合いが強くなり、先祖供養の意味が薄れてしまった。それは自給自足時代には作物がとれるかとれないかは死活問題だったから。実際ホトケさんを拝んでも腹の足しにならないからなぁ」と。食べ物を恵んでくれる田んぼや畑のことをまず神様にお願いしなければという気持ちから、だんだんと先祖供養の意味合いが忘れ去られたという。
 生きていくことと腹が空くことがいちばんしんどくて大変なこと。だからこそ田畑の豊作、鳥害よけ、養蚕の成功、そして先祖供養と日常のはしばしに小さな祈りがあった。厳しい自然と向き合って暮らした時代だからこそ、命につながる願いを込めた「まじない食」が人々の心を支えたのだろう。
 飢饉や冷害を前にして小豆団子やミズキ団子の力はちっぽけすぎる。それでも願いを託して祈らずにはいられずに、身近な食材を使ってごちそうをこしらえた。それがまじない食の源だったのだろう。

 ところで遠野の小正月のまじない食にはある共通点がある。それは材料がすべて野菜や穀物など山や田畑の産物であることだ。小豆団子の材料は小豆、米粉。とろろ汁は山芋。ミズキ団子は米と大豆。どんと焼きの福餅や畑まきの餅はもち米から作られる。もとより岩手は一大餅食文化の土地柄で、餅が多いのはうなずけるが、肉や魚は使われていない。
 まじない食が誕生した頃がいつだか定かではないけれど、『遠野物語』が生まれた頃の遠野では穀物主体の質素な食事を主としていたらしい。遠野は山に囲まれているので木の実やきのこ、山菜は豊富。田や畑でとれる野菜や穀物も豊富だったが、ひとたび冷害になれば食べ物はなくなる。一方で海の魚は大槌などの沿岸部から運ばれ塩漬けにされた状態で入ってくるもので、市で買うもの。いつも手に入るものではなかっただろう。
 先ほどの多田さんには「宝は田からだからね」とも教えていただいた。いまでこそ肉や魚も豊かにそろう時代になったけれど、当時の感覚でいえば田畑で採れる食材は宝だっただろう。それにもしかすると食物のなかにある呪術的な力を信じる気持ちもあったかもしれない。
 自然の恵みに感謝し、その恵みをふんだんに使った料理を作り、それを自然に捧げ、そしてさらにそれを食べることで食物の力を取り入れる。感謝する、お供えする、食べる。これらがすべて田畑を中心に回っていたのではないだろうか。
 死の恐怖や飢餓・不作の恐怖など命に関わるような大きな問題を前にして、そんなことをしても何も変わらない。ミズキ団子や小豆団子の力はちっぽけすぎる。現代人はそう思ってしまうけれど、こうやって自然と折り合いをつけてきた歴史のささやかな結晶が「まじない食」なのだ。

 

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