第6回 大根を食べると中風にならない――鳴滝了徳寺の大根焚き(京都府京都市右京区)

吉野りり花(日本の旅ライター・旅エッセイスト。日本の食文化を中心に執筆)

「祈りや願いと結び付いた食べ物」というと一体どんなもの?とピンとこない人も多いかもしれないけれど、実は身近なところにたくさんあったりする。たとえばお正月に食べる「おせち」はその最たるものだ。
 共働きが当たり前の昨今、昔は家庭で行事食を作る役割を担っていた女性も平日は仕事していることがほとんど。そのためいまでは年中行事や節句を暦どおりにおこなうことも難しくなってきている。でもお正月だけは例外なのではないだろうか。新年最初の食事としておせちを食べ、気持ちも新たに1年の健康と幸せを祈る。これだけは毎年欠かさないという人もまだまだ多いだろう。
 そんなおせちもいまや各家で作らなくとも市販のものを手軽に買うことができるし、お重に詰められたものを通販で買うこともできる。解凍するだけで食べられる冷凍おせちだって十分においしい。時代が変わった分、形はいろいろになってきてはいるけれど、1年の始めに願いを込めておせちを食べることだけは変わらない。
 わが家では毎年おせちをすべて手作りすることにしている。手間はかかるけれど、保存料や過度の甘味料も使わずに自分好みの味でこしらえたおせちは、やさしい味で、毎年これを食べるとほっとする。
 ところでおせちはお重のなかに縁起食のスピリットがぎゅっと凝縮された「縁起食の見本市」だ。それぞれの料理に意味があり、語呂合わせや見た目から数々の願い事が託されている。たとえば黒豆は「まめに暮らせるように、まめに働けるように」だし、昆布巻きの昆布は「よろこんぶ」から「喜ぶ」に転じたもの。海老のつや煮は海老のくるんと曲がった姿から「腰が曲がるまで長生きできるように」、数の子は「子宝に恵まれるように」、栗きんとんやキンカンの黄色い色は輝く大判小判を連想させるから金運アップ。だて巻きは巻物に似ていることから知識や教養が増えるように。日々健康に、まめに働き、お金に恵まれ子宝に恵まれ、心豊かに長生きできますように。そんな願いがぎゅうぎゅうに込められたおせちは、願いの小箱といってもいいだろう。おせちを眺めていると日本人がどんなことを望んでいたのかおせちが語りかけてくるようにも思う。
 同じように私たちになじみ深い縁起食が年中行事と結び付いた行事食。とりたてて意識せずとも毎年食べているものもきっとあるのではないだろうか。たとえば1月7日の七草粥や2月3日の節分の豆まき、3月3日のひな祭りのひなあられ。5月5日のこどもの日に食べるかしわ餅、中秋の名月にお供えするお月見の団子などにもいろんな意味がある。
 七草粥は無病息災を祈るもの。節分の豆は病をもたらす鬼を追い払うため、ひなあられは女の子の健やかな成長を願い、かしわ餅は子孫繁栄、月見団子は収穫への感謝を表す。
 ところで人間の願望はさまざまにあるけれど、そのなかでも最も根源的で人間が避けて通ることができないのは何だろうと考えてみると、やはり死の恐怖と、それにつながる病を恐れる気持ちなのではないだろうか。そのためか「まじない食」には「これを食べると病気にならない」とされるものがかなり多い。それも暑さ寒さが厳しい夏と冬に集中している。夏冬は病に気をつけ健勝を祈り、春は豊年を祈り、秋は豊作を感謝する。これが「まじない食」の基本なのだろう。
 そこで今回は冬の病にかからないとされる「まじない食」を紹介してみたい。神道行事ではなくお寺での行事だが、京都の師走の風物詩でもある「大根焚き(だいこだき)」だ。

大根を食べれば病気をしない――鳴滝の大根焚き

 京都。平安時代には都だったこの地には、いまも数多くの神社仏閣が残されていて、そこかしこから日本情緒が漂ってくるような不思議な町だ。ほかの町にはない、京都だけの独特な何か。それは記念館や博物館のようにきれいに整えられた場所でなくとも、生活の傍らにぽんっと日本らしさが転がっているような距離の近さだと思う。観光地を訪れなくてもなんとなく路地裏を散策するだけで、どこからか香のいい香りが漂ってきたり、趣ある町屋に出合えたり。そういうふうに旅すれば、何度行っても飽きない。
 数年前、急に思い立って西陣織で有名な西陣を歩いてみたくなった。私が小さい頃に住んでいた町には機織り工場があったのだが、私はこの近くまで行って機織りの音に耳を傾けることが好きだった。ギコンバタンと規則的な音は、機械の音なのに心地いい緩急があり、聴いていて気持ちいい。織物の町である西陣に行けばあの音がもう一度聴けるんじゃないだろうか。そんな思いつきから西陣を歩いてみたくなった。
 北野天満宮がある北野白梅町の、いかにも京都らしい片泊まりの町屋宿に泊まり、近くの小料理屋で夕食をとっていたときのこと。「このあたりに昔から伝わる伝統食は何かありますか?」と尋ねたところ、ご主人が教えてくれたのが「大根焚き」だった。「あっちこっちのお寺さんでやってはります、大根を炊くえぇ匂いがして、大根焚きがあると冬や思うんですわ」。そう教えてくれたご主人の料理は、こっくりとした白味噌仕立ての味噌汁といい、おだしの味が染み込んだおばんざいといい、しみじみと味わい深くて、私はこのご主人が語る「大根焚き」の風景にがぜん興味をもった。
 大根焚きがおこなわれるのは千本釈迦堂、鳴滝の了徳寺、それに三宝寺、妙満寺、鈴虫寺の名前で知られる華厳寺など。大根焚きの日である12月8日はお釈迦様が菩提樹の下で悟りを開いた日とされ、この日大根焚きの大根を食べると中風にかからないといわれる。京都では大根のことを「だいこ」と呼ぶので、読みは「だいこんだき」ではなく「だいこだき」だ。
 千本釈迦堂の大根焚きでは、かつては京野菜の丸い聖護院大根を使い、お釈迦様をしのんで大根の表面に梵字を書いてその大根を炊き込んでいた。いまでは聖護院大根が手に入りにくくなったことから普通の長い大根を使うが、梵字が書かれた大根ならば、さぞ霊験あらたかだろう。魔除け厄除けのご利益があるとされる大根煮に祈りを託す人々の姿が目に浮かぶ。
 さて今回訪れることにしたのは北野白梅町から嵯峨野に向かう途中にある鳴滝の了徳寺。了徳寺では毎年12月9日、10日に大根焚きがおこなわれる。おそらく小料理屋のご主人が話していたのもここの大根焚きのことにちがいない。親鸞聖人にゆかりがあるこのお寺で、どのような風景に出合えるのだろうか。

ところせましと並ぶ大根と湯気に漂う大根のいい香り

 鳴滝本町で京都市バスを降りると、道端には大根焚きと書かれた赤いのぼりがはためいていた。のぼりを頼りに小道に入り、数分歩くとぽつぽつと出店が並ぶ向こうに了徳寺の門が見えてきた。了徳寺は浄土真宗大谷派の寺院で、別名はその名もずばり「大根焚き寺」。一礼して境内に入ると、こぢんまりとした境内にところせましと大きな樽が並び、樽いっぱいに張った水のなかに輪切りにされた大根がたぷたぷと浸かっている。あたり一面に漂ういい香りは、大根を炊くときのあの香りだ。ふろふき大根やおでんを煮込んでいるときのあの待ち遠しい気持ちを思い出す。湯気につられて本堂横の厨房をのぞくと大釜いっぱいに大根が煮込まれているところだった。表には大根焚きに使われる篠大根が何十本も並んでいる。嵐山から続く保津峡の肥沃な堆積土で育てられた篠大根は、なかなか手に入らない貴重なものだそう。この日のために約3,000本が用意され、これを油揚げと一緒に一昼夜炊き上げて飴色の大根焚きができあがる。
 時刻はちょうどお昼前。11時からの法要に間に合うようにやってきたため、ほどよく空腹を感じていた私のおなかが、甘い醤油の香りに刺激されてきゅるるとなった。受付で大根焚きのお志を納め半券と割り箸、それに由来を記した紙を受け取る。大根焚きが1,000円、炊き込みごはん付きのお斎(おとき)が1,600円、大根の葉を使ったおひたしが500円で、家に待つ家族のためだろうか、持ち帰りもできるようになっている。割り箸には崩し字の和歌が。大学時代に古文書を読む授業で習った崩し字の読みを、頭の隅っこから引っ張り出してみる。な・つ・か・し・や?だろうか? ちょっと自信はないが、自分のなかでは「なつかしや けひ鳴滝の 大根焚き」という歌であることに落ち着いた。
 了徳寺の大根焚きの由来は古く、1252年(建長4年)にさかのぼる。鳴滝の地にやってきた親鸞聖人が念仏の教えを説かれたときに、感動した里の人々が大根を炊いてもてなしたのが始まりなのだそうだ。塩で味付けただけの素朴な大根煮だったが、親鸞聖人はたいそう喜び、庭のすすきの穂を筆がわりにして「帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうこうにょらい)」と十字の名号をお礼にと残したという。了徳寺にはいまもすすき塚が残り、すすきの名号も見ることができる。この日、本堂の親鸞聖人の木像には昔ながらの塩味の大根煮がお供えされるが、参拝者に振る舞われるのはしょうゆ味の大根煮だ。
 大根焚きの由来を頭のなかで反芻しながらも、おいしそうな匂いには抗いがたく、私は本堂に入った。長机が並べられ、大根焚きを食べながら法要の法話を聞けるようになっている。隣の席の方に運ばれたお椀からは、ふわんと湯気が上がり、窓から差し込む陽光に輝いている。法話を聞きながら、静かに合掌してはふはふと大根煮をいただく姿がとても大切なものに思えた。「1年これを楽しみにしてたんや」と受付でおしゃべりしていた方もいたっけ。
 そうこうするうちに私の前にもお椀が運ばれてきた。油揚げと一緒によく煮込まれた大根は箸で崩れるほどに柔らかく、手を合わせてから一口いただくと油揚げからはじゅわっとおだしが染み出した。おいしい。食べたあと自然に笑顔になるような、素朴だけれど幸せな味。お椀から立ち上る湯気を眺めているだけでも、ほくほくとした気持ちになった。これを食べると病気をせずにいられる。不思議とそう信じられるようなあたたかさ。
 大根焚きは俳句では冬の季語らしい。それも納得できるくらい、冬の京都の風景に溶け込んだ行事だった。厄除けと中風除けと。大根焚き寺にあふれるのはそんな素朴な願い事と、安心したような参拝者の笑顔だった。

 

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