第1回 まじない食をたずねる旅へ――私はなぜまじない食に興味をもったのか

吉野りり花(日本の旅ライター・旅エッセイスト。日本の食文化を中心に執筆)

自然災害と隣り合わせの鹿児島で

 私が生まれ育ったのは九州最南端の鹿児島県。幼い頃は薩摩半島の南の端っこに位置する指宿市に住んでいた。指宿は日本列島にありながらも一部亜熱帯気候の地域があるという異質な土地で、近所の海岸にはマングローブが生えているような南国情緒あふれる土地だった。太陽がさんさんと降り注ぐ気候のせいか、人々もいつも笑っているようなラテンな土地柄でもある。
 位置的に台風の直撃を受けることが多く、まだどこにも上陸していない、勢力が強いままの台風の襲来に見舞われることも頻繁にあった。台風が近づくたびに、子どもながらに緊張しおびえて過ごしたことを覚えている。
 断水や停電になることも多かったため、台風が近づくとまず生活用水の確保のために風呂の湯舟に水を張るのが常だった。私が小さい頃はまだペットボトルなどなかったため、飲み水になるように、鍋という鍋に水を貯めて備えた。母は大急ぎでたくさんのおにぎりや煮物や味噌汁を作り、数日水や電気が止まっても食糧に困らないようにと忙しく動き回っていた。
 鹿児島の土壌は火山灰が降り積もったシラス台地が大半を占めていて、大雨が降れば土砂崩れも起こる。雨足が強まったり山から音がしたり、異変を感じたらすぐに逃げられるようにと、リュックサックに避難グッズを入れ、背負ったままで眠った。停電後はろうそくの明かりで過ごした。
 薩摩半島から錦江湾をはさんだ対岸には活火山である桜島があり、一日中モクモクと煙を噴き上げる様子が見える。ときどき大きな噴火も起きた。鹿児島市内を車で走っていると、噴火で飛んできた小石でフロントガラスが割れてしまうこともあった。私が育った場所は、そういう厳しい気象条件と常に隣り合わせのまちだったように思う。
 台風の嵐で、同じ学校の子どもが氾濫した河川に流されてしまったことも2度あった。ブーゲンビリアやハマユウの花、まばゆいくらいに照りそそぐ太陽。南国らしさを作り上げる自然は、ときとして牙をむき、人間の命も奪ってしまう恐ろしいものでもある。その実感はいつも自分の心の中にあった。
 大学進学と同時に東京に出てきた私は、安全な大都会に拍子抜けするほど驚いた。地震もなく、台風もめったに来ず、洪水もない、平野部にある東京というまち。電車は深夜まで動いているし、24時間コンビニエンスストアだって飲食店だって開いている。闇もなければ、不便もなく、自然の怖さなど感じることなどまずなかった。まれに台風がやってきても、まちにはハイヒールで外出する人たちがわんさかいた。なんなんだろう、このまちは。これは私にとってかなりのカルチャーショックだった。
 それでも台風が来ると知ると、私は条件反射的に飲み水を確保しようと走ってしまう。友人たちには「だいじょうぶだよ、台風なんてたいしたことないし、コンビニ開いてるし」とよく呆れられたものだった。だが、何年も住むうちに自分も東京の暮らしに慣れ、いつしか「自然は怖い」という感覚を忘れて過ごすようになっていた。
 そんな私に「自然の恐怖」を思い出させてくれたのは、2011年の東日本大震災だった。当時私は自宅がある東京にいたが、東京は幸いにも震度5程度の揺れですみ、それほど大きな被害もなかった。しかし連日続く余震や停電、帰宅難民などの混乱、そしてニュースで知らされる被災地の惨状は、自然への恐怖を思い出すのに十分すぎるほどだった。
 余震の揺れにおびえながら、ついつい飲み水を貯め、おにぎりをわんさか作り、リュックサックに避難グッズを詰めてまんじりともせずに過ごしていた私の脳裏に、やがてこんな疑問がわきあがってきた。
 日本列島に住む以上、地震や津波や台風から逃れることはできない。ずっと昔からそうだったはずだ。たくさんの人の命を奪ってしまうこの自然の恐ろしさと、人々は昔から向かい合ってきたはずだが、日本人はこの恐怖とどう対峙してきたのだろう。
 宗教だろうか? いや誰もが宗教にすがって生きているわけじゃない。もっと身近な日常に根づいた祈りの形があったのではないだろうか。

巫女として感じた日本文化

 一方、上京後進学した大学で日本文学を専攻していた私は、近現代の作家研究のようなゼミに参加していた。当初私は、日本文学というのは日本文化と人間を見つめる学問だと思っていた節があったので、当然講義にはそんな内容を期待していた。しかし実際はそうではなかった。作家論の、年代を突き合わせたり、書類上の瑕疵を問うたりするような重箱の隅をつつくような内容にだんだんと違和感を覚えるようになった。
 何か違う。自分がやりたかったのは、こういうことではない。もっとこう、人間を見つめて日本文化に飛び込むようなことがやりたかったような気がする。それはなんなんだろう、その場所はどこにあるのだろう?
 当時の私はそれが民俗学と呼ばれるジャンルの学問であることにも気づかず、ただただ自問自答する日々が続いた。そしてある日思いついた。そうだ、神社だ、神社で働こう。先人が作り上げた日本文化そのものを体現できる場所に飛び込んでみればいいじゃないか!
 そう思いついたら止まらなくなった。タウンページを見ながら東京中の神社に電話をかけた。「あのー、私を巫女として採用してもらえないでしょうか」。100社近くは電話しただろうか、そのなかの数社から一度社に来てみてくださいと返答をもらった。そして私は晴れてアルバイトながら常勤の巫女として神社にご奉仕することになったのだ。
 巫女というとみなさんはどういうイメージをおもちだろうか。初詣に行くとお守りやご神札を授与してくれる白衣緋袴の女性を考える方が多いだろうが、実際は巫女の職務は非常に多岐にわたる。神職の補佐役として神事の進行役を務めることもあるし、お札を組んだり、結婚式や祭礼で舞いを奉納することもある。もちろん一般事務や社内境内の掃除もすべてやる。
 そんな巫女の職務のなかでもいちばん記憶に残っているのがご神饌の準備だ。ご神饌とは毎朝ご神前に供える食べ物のことで、いわば神様の食事だ。お神酒、水、お米を土器(かわらけ)に入れたもののほか、旬の野菜や果実、干物などをご神前にお供えする。
 毎朝社内をきれいに掃き清めたあとに、檜の香りが漂うご本殿に入り、三方に茄子やきゅうり、芋などの生饌、するめいかなどの熟饌などをあつらえ、きれいに整え、ご神前に供える。ご本殿の階段の上り方にも決まりがあった。神道では真ん中を正中といい、神様が歩く道と考える。そのためご神前にご神饌を上げるときには、神様に失礼がないように、真ん中からいちばん遠い階段の端を、真ん中から遠い端から上るようにして一足一足すり足をするように上る。こうして細心の注意を払い、神様をうやまいながらご神饌を上げることで、普段私たちが食べている普通の食材が特別な何かに変わるように感じた。
 お正月が近づくと巫女の仕事は非常に忙しくなる。日常(ケ)のときと祭り(ハレ)の日はご神饌も違うので、大みそかには神職が境内のヒバの木から葉をつみ、三方にのせ、そこに活鯛をあつらえるのを手伝ったりもした。神職がご神饌をあつらえる所作の一つひとつがとても美しかった。私が祭祀や祈りのそばにある食べ物に興味をもったのはここからだった。

縁起食・まじない食を訪ねて

 祈りや祭りに関わる食べ物は神饌だけに限らない。たとえばお正月のおせちや1月7日の七草粥のように日常生活のなかにも根づいているし、地域の祭りにも儀礼食がある。健康や五穀豊穣など人の願いを込めた縁起食とは、自然への恐怖の念と生活の折り合いをつけるための知恵だったのではないか。できるだけ自然災害が少ないように祈り、身近にあった食べ物を捧げる。食べ物のなかの呪術的な力を信じ、生老病死にまつわる願い事を託し、それによって安心を得る。それが「まじない食」だったのではないか。そんな仮説から、私のまじない食を訪ねる旅が始まった。

 ※本連載では神事、仏事、伝承行事のなかで何かの願いを託してお供えされる食材、食べられる料理を「まじない食」と定義しました。

 

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