第7章 満州で考える――人工国家・満州国の実験に探る紀元2600年万博の痕跡

暮沢剛巳(東京工科大学教員・美術評論家)

はじめに

 2016年の9月、中国東北部を旅行した。大連、長春、ハルビンの3都市に滞在し、各市内の旧跡をめぐる計6泊7日の慌ただしい旅だった(当初は瀋陽にも滞在する予定だったのだが、残念ながらどうしても日程の都合がつかなかったため今回は断念した)。仕事柄海外出張の機会が多い私だが、専門領域や調査対象の関係でどうしても目的地は欧米に偏りがちである。その点で、タクシーの運転手や飲食店の店員にさえ英語が通じないことが多々あった今回の出張は、多くの驚きに満ちたものだった。
 そういう次第で、かつて満州と呼ばれていたこの地域に対する私の知識は微々たるもので、せいぜいベルナルド・ベルトルッチの『ラスト・エンペラー(1)』のような映画、あるいは安部公房の「終りし道の標べに(2)」や村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル(3)』のような小説の舞台になった場所という程度のことしか知らなかった。そんな私が、数年前からこの地域に強い関心を寄せるようになり、ついには現地への旅行を思い立ったのは、本連載のテーマである万博との兼ね合いで大いに触発されるところがあったからだ。それにしても、満州がどのようにして万博につながるというのか、まずは両者の関係から説明する必要があるだろう。
 周知のように、かつてこの地域には満州国という国家が存在した。建国が宣言されたのが1932年3月1日、滅亡したのが45年8月18日だから、この国家が地上に存続した期間はわずか13年5カ月にすぎなかった。もっとも、満州事変を機に中華民国からの独立を宣言した満州国だが、その実態が「満蒙は日本の生命線」という石原莞爾の妄想に端を発する日本の傀儡国家にすぎなかったことは衆目の一致するところだ(それゆえ現在の中華人民共和国政府は一貫して満州国の存在自体を認めず、偽満州国と称している。恥ずかしながら私がそのことを知ったのはほんの数年前のことだ)。だが、曲がりなりにも独立国家としての体裁を与えられ、「五族協和」や「王道楽土」という理念を掲げた国家運営をおこなったことによって、満州は日本本土はもちろん、正真正銘の植民地だった朝鮮や台湾とも異なる独自の実験的な性格を帯びることになった。
 私が見るところ、満州国の実験的な性格は都市計画の分野で最も顕著だったように思う。くしくも、今回の旅行で私が滞在した大連、長春、ハルビンの3都市はどれも19世紀末以降に急速に開発が進められた歴史が浅い「人工都市」であり、ここを舞台にさまざまな美術や映像作品が生み出され、また博覧会が開催された。当時、朝鮮や台湾といった植民地では博覧会が盛んに催されていたので、満州での博覧会も同じ枠組みで考えることができるだろうが、博覧会、とりわけ万博が仮設の未来都市を舞台にさまざまな実験が展開されるエフェメラルなイベントであることを思えば、13年半という短い存続期間のうちに、「人工都市」を舞台にさまざまな実験が展開された満州国という国家そのものが巨大な万博のような存在だったともいえるのではないか。満州というテーマはあまりに巨大すぎて到底私の手には負えないが、万博との関係に焦点を絞れば何かを語れるかもしれない。日本で紀元2600年万博が構想・準備されていたのと全く同時期に、海を隔てた中国東北部で展開されていた満州国のさまざまな実験を検討し、両者の並行関係について考察することは、万博研究にとっても大いに有益だと思った次第である。

大連――租界のなかの満州

 2016年9月2日、私は前月末から滞在していた北京を発って空路大連へと向かった。大連は日露戦争によってロシアから租借権が譲渡されて以降、関東州の行政機構に組み込まれたため、厳密には1932年に「独立」した満州国の領土には含まれないが、事実上の開発機関だった満州鉄道のターミナル駅が所在し、大連港が大陸への玄関口としての役割を果たすなど、実質的には満州の一都市として位置づけられるため、ここでも同じ前提で論を進めていく。
 飛行機を降りた私は、手荷物を受け取ると、5月に開通したばかりの地下鉄に乗って市内中心部の中山広場駅で下車し、一路宿泊先のホテルに向かった。中山とは辛亥革命の指導者・孫文を意味する言葉だが、この広場は戦後になってそのように改称される以前の日本統治時代は大広場、さらにそれ以前のロシア統治時代にはニコライフスカヤ広場と呼ばれていたという(4)。私はこの直径約200メートルの円形の広場に、大連という「人工都市」の短い歴史が凝集されているような気がした。
 大連は現在でこそ約600万人の人口を擁する大都市だが、19世紀末までは青泥窪という名の寂れた寒村にすぎなかった。急な発展のきっかけは、1898年にロシアが日清戦争後の三国干渉の見返りとして遼東半島を租借したことに始まる。シベリア鉄道の起点だったウラジオストクが冬期には流氷によって閉ざされるため、1年を通じて使用できる不凍港を欲していたロシアは、遼東半島の先端に位置していたこの寒村に目を付けダーリニー(ロシア語で「遠方」の意味)と命名、東清鉄道(満州に敷設されたシベリア鉄道の支線)の引き込み工事をおこない、商港の開発に着手する。市街地を行政市街、ヨーロッパ市街、中国市街の3つに分け、また中心部に円形広場を設けるなど、その都市計画は優れてヨーロッパ的なものであった。
 1905年5月、日露戦争の攻防を経てダーリニーは日本の支配下に入り、大連と改称される。ロシア同様、日本にとってもダーリニーは重要な拠点であり、戦後のポーツマス条約によってこの都市の租借権と南満州鉄道(長春以南の東清鉄道。以下、満鉄と略記)の権利を手に入れた日本は、さっそく戦争で荒廃した大連の復興に着手した。
 戦争によって計画が頓挫してしまったものの、大連はロシアが巨費を投じて都市開発を進めていた都市であり、市街には多くの洋風建築が残されていた。満鉄は旧ダーリニー市役所を本社として使用し、またダーリニー・ホテルがヤマトホテルへと転用されるなど、日本はロシアが残した建物を引き継いで有効活用しようとした。一方で、開発が中途だった部分も少なくなかったため、道路の敷設や橋の架け替えなどが急ピッチで進められた。
 開発の中心になったのが、市街地の中心に位置していた円形広場である。前述のようにこの広場は大広場と改称され、その周囲を取り巻くように大連民生署、大連ヤマトホテル、大連市役所、関東逓信局、朝鮮銀行大連支店、東洋拓殖大連ビルなどが続々と建設された。日本資本によって建てられたこれらのビルを設計したのはいずれも日本人建築家であり、ルネサンス様式やゴシック様式など洋風の外観に和風の意匠が取り入れられるなどの工夫が施されている。これらのビル群には、ロシアの都市計画を引き継ぎながらも、新たに日本的な要素を示す意図が込められていたといえるだろう。
 満鉄の本社機能が早々と移転してきたのとは裏腹に、仮設駅に代わる新駅舎の建設は遅れに遅れ、竣工したのは1937年のことだった。現在も使われているその駅舎のスクエアで左右対称な外観は、上野駅や小樽駅の駅舎に似ていることがしばしば指摘される。設計を担当した太田宗太郎は、親族に宛てた手紙でこの駅舎を「代表作」と記したという。また、ロシアが不凍港としての重要性を見いだした大連港はもちろん日本にとっても重要であり、開発を手掛ける満鉄は港の整備にも巨費を投入した。とりわけ、港に臨む大連埠頭事務所は、26年の竣工当時は市内随一の高層建築であった。並行して、病院や市街地の整備も着々と進められた。
 大連は、もともとロシアが重要性を見いだし開発を進めた都市であった。帝政ロシアは、当時世界の海洋の覇権を制していた大英帝国と対峙すべく、ダーリニーを香港やシンガポールに匹敵する大都市へと成長させることをもくろんでいたのである。そして、日露戦争以降その開発は日本へと引き継がれたが、ロシア風のダーリニーを日本風の大連として更新するためには、ダーリニーの市街地をより緻密でスケールの大きな都市計画によって上書きする必要があった。そのため、日本は満州の玄関口である大連に巨費を投じて、ロシアに対抗するかのように建設を進めた。日露戦争後に松田松韻が設計した大連消防署が、ロシアがハルビンにアール・ヌーヴォー調の建物を数多く建設したことを強く意識して同様のデザインを採用したエピソードには、日本のロシアへの対抗意識が露呈している。西澤泰彦は、これを「建築の日露戦争(5)」と称している。砲艦外交としての日露戦争はすでにポーツマス条約によって決していたが、建築や都市計画の分野では、満州を戦場として両国のつばぜり合いが続いていたのである。

大連と博覧会

 ちなみに、日本租界時代の大連では、二度大規模な博覧会が開催されている。どちらも宗主国だった日本との緊密な関係のもとに開かれた博覧会であり、ごく簡単に概要を記しておこう(6)。
 最初が、1925年8月10日から9月18日にかけて開催された大連市主催の「市制10周年記念大連勧業博覧会」である。この博覧会は、日華両国の共存共栄と産業貿易の振興を目的に開催されたもので、市内中心部の西公園(現:労働公園)が第1会場、満鉄所有の大連電気公園が第2会場であった。会場面積は約7万平方メートル(約7ヘクタール)、両会場は跨線橋で結ばれ、夏季開催ということもあって、会場は夜間まで電飾がともっていたという。
 第1会場には5つの本館が並び、大連、満州、関東州、朝鮮及び日本の各府県の文物が展示された。国内の大企業や植民地の主要企業も数多く参加したが、中華民国の特設館は作られず、日華両国の共存共栄の理念は実現されなかった。展示は全般に娯楽色が強く、当時の大連の人口の4倍近い約79万人の観客を動員するなど、興行としては成功したものの、その大半は日本人によって占められ、満州の多様な人口構成を反映したものとはいいがたかった。
 次が、1933年7月23日から8月30日にかけて開催された同じく大連市主催の「満州大博覧会」である。これは、前年の満州国建国と翌年の市制20周年を記念して「日満両国の経済的提携」をうたって開催されたものである。会場としては市内南部の白雲山麓に約116万平方メートル(約116ヘクタール)の敷地が確保され、直営の展示館が1号館から5号館までの計5館建設された。それらの展示館はすべて白亜のセセッション様式(幾何学的構成を重んじる様式。ウィーン分離派〔セセッション〕の建築に端を発することからこのように呼ばれる)で統一され、最大級の施設だった3号館には満州、関東州、大連市の物産がまとめて展示された。そのほか別館として、建国館、機械工業館、貿易館、建築館、教育衛生館、土木館、土俗館といったテーマ別の展示館が並んだほか、朝鮮館、台湾館などの植民地館、三井、三菱、住友などの企業館などがそれぞれ創意工夫を凝らした展示をおこない、また会期がちょうど夏休みと重なっていたこともあってか、「コドモの国」や「子供の国防館」など子ども向けの展示もおこなわれた。この展示計画は、紀元2600年万博のそれともかなり共通している部分が多い。また紀元2600年万博との共通点として、ポスターの図案や宣伝課の懸賞募集や、新しいメディアだったラジオを用いた広報活動がおこなわれたことが挙げられる。
 だが、主催者が2万枚のパンフレットを印刷し、「アカシアの大連よ、風の大連よ」と大々的なキャンペーンをおこない、地方自治体の視察団や修学旅行の小・中学生を幅広く募ったにもかかわらず、満州国内の観光客も、日本からの観光客も反応はいまひとつ鈍く、博覧会の動員数は約47万人にとどまり、前回の市制10周年博を大きく下回った。これは、この年の3月に国際連盟を脱退したことに伴う国際的な孤立(すでに述べたように、この孤立は紀元2600年博を「延期」に追い込んだ最大の要因でもあった。この博覧会の不入りは、「幻の万博」の予兆だったのかもしれない)によって外国からの客足が鈍ったことに加え、日本の傀儡国家でありながら独立国として振る舞わなければならなかったホスト国としての位置取りの難しさが、博覧会の盛り上がりに水を差してしまったためとも考えられる。
 ところで、前述のキャッチコピーは博覧会にかぎらず観光客の誘致に広く用いられ、満州観光は大いに盛り上がり、奉祝の年である1940年にピークを迎える。関東軍が強い勢力を誇っていた満州では、日清戦争や日露戦争の古戦場があたかも神武天皇の戦跡のように聖地化され、とりわけ日露戦争の攻囲戦の戦地として一番人気を誇っていた旅順の近隣に位置する大連は格好の観光拠点だったのである(7)。はたして紀元2600年万博が予定どおり開催されていたとして、満州大博覧会のような不入りに終わったのか、それとも聖地観光のような盛り上がりを見せたのか、いまとなってはもう知るすべはない。

長春――城塞都市から人工都市へ

 9月5日の夕方、私は大連駅で長春行きの切符を購入し、高速鉄道のプラットフォームに向かった。上野駅と類似した外観がしばしば話題にのぼる大連駅だが、すべての路線の昇降口がまとめられたコンコースはシンプルで見晴らしがよく、セキュリティーの厳しさのわりに電車の乗り降りが非常にスムーズであった。この導線のデザインはほかの駅とも共通していて、日本の駅にもぜひ導入してほしいと思った。
 大連から長春には、高速鉄道で向かった。2007年に開通した高速鉄道は、新幹線をはじめ、フランスのTGVやドイツのICEなどを参考に、中国が独自開発した鉄道である。11年には100人以上の死者を出す大事故を起こすなど、安全性にはやや不安もあったのだが、長春までの旅はいたって快適で、また長春駅に着いて間もなく、約4時間の移動時間中ただの一度もトンネルを通過しなかったことに気づき、中国大陸の広大さにいまさらながら驚いた。
 そういえば、満州国の時代には、日本が独自開発した特急あじあ号が同じ大連―長春間を走っていた。まだ鉄道が電化されていなかった当時、蒸気機関車が牽引する列車が約700キロの両都市間を8時間半で結んでいたというのだからその技術力の高さにも驚かされるが、当時の旅客の目に、中国大陸の広大さはどのように映っていたのだろうか。
 長春は吉林省の州都であり、現在約750万の都市圏人口を誇る大都市である。しかし、長らくこの地域の中心に君臨していた都市は省の名前ともなっている吉林であり、小さな城塞都市だった長春が現在の地位を占めるようになったのは20世紀のことにすぎない。それはやはり、満州国の建国が決定的な要因であった。
 日露戦争の講和の結果、日本はロシアから長春以南の東清鉄道を譲渡されるが、この鉄道はロシアが清朝に対して沿線の排他的な行政権や沿線から数百メートルも離れたところに位置している鉱山などを開発する権利を認めさせた「鉄道付属地」を伴っていた。鉄道と同時に広大な「鉄道付属地」を手に入れた日本は、これを機に長春の開発を本格化させていく。
 開発を担当した満鉄は、まず買収によって「鉄道付属地」を拡張し、次いで市街地を造成する手法をとった。具体的には、長春駅の南側約2キロの地点に円形広場を設け、その広場を横断するように長春大街という大通りを通し、この通りを中心に格子状の街路を整備しようとしたのである。これは、ヨーロッパではバロック的都市計画と呼ばれる手法だが、大連やハルビンと異なりロシアによる開発が進められていなかった長春では、満鉄は一から市街地を整備していかなければならなかった。
 一方、建設される建物の多くにはアール・ヌーヴォー調の意匠が施された。その典型が長春ヤマトホテルである。この建物を設計したのは東大建築学科を卒業したばかりの市田菊治郎という若手建築家だが、彼は建物の外観だけでなく内装にもアール・ヌーヴォー調の装飾を導入した(ヤマトホテルは満鉄が乗客の宿泊用に満鉄各地に建設したリゾートホテルだが、いち早く建設された長春をはじめ、高級感を演出するためにどこに建てられる場合もアール・ヌーヴォー調の意匠を導入している)。当時帝政ロシアの支配下にあったハルビンでは、アール・ヌーヴォー調の建物が数多く建てられていた。長春が日本とロシアの接点に位置していたこともあり、日本はロシアへの対抗意識もあってアール・ヌーヴォー調の施設建設を進めた。本場ヨーロッパではアール・ヌーヴォーは1910年代以降にはピークを過ぎて下火になるのだが、同時期の満州ではむしろ盛期を迎えたのである。
 1932年、満州国が中華民国からの独立を宣言した際、長春が新京と改名され首都になることが公布された。満鉄による開発が進められていたとはいえ、当時の長春は人口約13万人の一地方都市にすぎなかった。それが、瀋陽(奉天)やハルビンのような大都市、吉林のような古都を押しのけて首都に指名されたのには、広大な満州国の国土のほぼ中心に位置していたこと(この点で瀋陽は南に、逆にハルビンは北に寄りすぎていた)、満鉄の起点だったこと(吉林は満鉄の沿線からは遠かった)、ほかの都市よりロシアの影響力が弱く、また地価が安くて開発が進めやすいなど、いくつかの理由が重なってのことだった。首都指名を受け、満州国政府はただちに「国都建設計画」に着手し、長春の都市開発は新たな段階を迎えることになる。
 この計画は、満州国で展開された都市計画のなかでもひときわ大規模なものだった。その規模の大きさは、何より新首都名に明らかである。「新京」という首都名は、明治新政府が遷都に際して江戸を「東の京」としたのと同様に、満州国政府が建国に際して長春を「新しい京」へと生まれ変わらせようとしたことを物語っているからだ。
 ところで、長春=新京を舞台とする「国都建設計画」のルーツをさかのぼると、後藤新平へとたどり着くことになる(8)。後藤は台湾総督府長官、満鉄総裁、東京市長などを歴任し、植民地経営などで活躍した人物だが、彼を近代日本の巨人の一人たらしめている最大の業績といえば、やはり関東大震災の直後に内務大臣として立案した震災復興計画(帝都復興計画)であろう。オスマンによる19世紀のパリ再開発を参考に立案された、大規模な区画整理と公園や幹線道路の整備を柱とする震災復興計画は、巨額の予算を必要とし、議会の猛反対にあった結果大幅な縮小を余儀なくされたものの、現在ではこの計画があってはじめて早期の帝都復興が可能だったと評価する意見も少なくない。
 一方、後藤の理念を現場で実践しようした中心人物が佐野利器である。佐野は世界で初めて耐震構造学を提唱し、震災復興計画について立案、宣伝、実施、技術者養成などの各方面で貢献した行動派の建築家であった。後藤は佐野に全幅の信頼を寄せていて、佐野もまたしばしば「後藤さんの志を継ぎたい」と公言していたという。後藤は1929年に帝都復興半ばにして没するが、その数年後に「国都建設計画」のプランナーに就任した佐野が「帝都復興計画で後藤さんがやろうとしてできなかったことを、ぜひここで実現してみせる」と意気込んだとしても決して不自然ではないだろう。
 そうした佐野の意気込みが日の目を見た実例として1点だけ、ここでは治水事業を挙げておきたい。開発を進めている最中、満鉄付属地は絶えず水不足に悩まされていた。もともと降雨量も地下水量も十分でなかったことに加え、中国現地政府の妨害にあって、付属地の外に水源を求めることができなかったからだ。その解決策として、川をせき止めて貯水池が作られた。現在多くの市民の憩いの場としてにぎわう南湖も、もとは貯水目的で作られた人造湖だったのである。また下水道に関しては、佐野の強い要望によって新市街では全域水洗化が実現されることになった(9)。東京でさえ水洗便所が普及するのは1960年代以降のことだし、ましてや当時の中国には汲み取り式の便所さえさして普及しておらず何とも不衛生な状態だったのだから、このことがどれほど画期的だったかわかろうというものだ。
 話を元に戻すと、満州事変が勃発した当時の長春には、南から順に長春城、商埠地(清朝が指定した外国人居留地)、満鉄付属地、東清鉄道付属地という4つの市街地が存在していた。それまでの日本の都市開発はもっぱら満鉄付属地を対象にしていたが、新首都建設にあたっては、ほかの市街地もその対象に含める必要があった。
 経済活動が活発になっていた当時の長春は、満鉄付属地、商埠地、長春城が1つの都市を形成しつつあった。しかし中国人主体で自然に形成された都市は、当然ながら「五族協和」や「王道楽土」を理念として掲げる満州国の首都としてふさわしくない。そのため「国都建設計画」では、都市の軸線とした大同大街と順天大街という新たな2本の幹線道路を整備し、それと長春大街が交差する場所に円形広場を設け、そこから斜線を引くという方法が採用された。こうして市街地化された満鉄付属地が拡張され、多くのビルの建設が進められた結果、長春城は跡形もなく消滅してしまった。こうして、小さいながらもそれなりの歴史を有していた吉林省の城塞都市・長春は、満州国という人工国家の人工首都・新京へと変貌を遂げたのである。

満州国美術展覧会

 新京は満州での美術の中心地でもあった。ごく手短にその概要を確認しておこう(10)。
 美術館がほとんどなかった戦前の日本では、美術展は主に百貨店の催事場などで公募形式の団体展として開催されていた。そのなかでも頂点に位置付けられていたのが、文部省主催の官製公募展「帝展」である。このシステムは植民地にも導入され、朝鮮や台湾でも官製の公募展である「朝鮮美術展(鮮展)」「台湾美術展(台展)」が開催された。体裁としては独立国家だった満州も例外ではなく、首都となった新京はその拠点であった。
 日本が主導するかたちで実現した満州発の本格的な美術展が、1937年に新京で開催された訪日宣昭美術展である。これは、1935年に日本を訪れた溥儀が帰国後に満州国の基本的な在り方を示した詔書を発布したことへの慶祝行事として開催された展覧会で、図録に掲載された序文には「満州国建国以来、軍事、民俗、外交、財政、交通、産業の整備をある程度、文化方面を振興する施設の必要性を痛感した」と開催の理由が述べられ、以後の美術展開催へのレールが引かれた。美術に政府のプロパガンダとしての役割が期待されている以上、その目的に適した官製公募展「満州美術展覧会」が満州国へと導入されたのは至って自然な流れだったといっていい。
 こうして、満展こと満州国美術展覧会は、翌1938年に第1回が開催されたのを皮切りに、1945年にまでに計8回にわたって開催された(ただし最後の8回目は、会場設営まで終了していたもののソ連軍の侵攻によって公開されなかったとされる)。展覧会のシステムは原則として日本の官製公募展のそれと同様だが、やや異なる部分もあった。例えば、満展では東洋画/西洋画/彫刻工芸/法書(書)という出品区分が採用されていた。同時期の帝展の出品区分は日本画/洋画/彫刻/工芸だから、日本画が東洋画に変更されていることと、書がいち早く導入されている点で異なっている(帝展に書部門が設けられたのは、日展と改称された戦後のことである)。これはおそらく、「五族協和」の建国理念をふまえ、日本人以外の作家にも出品を促すことが大きな目的であった。特に「法書」は、清朝出身の著名な書家や収集家を役員や審査員に招くなど、満州人や漢人への懐柔策としての側面を有していた。
 また満展では、審査員、審査相談役、美術委員という三層構造の審査員制度が採用されていた。こちらも同様に五族協和を意識してか、審査委員長には漢人の官僚を据えていたが、展覧会の中核を占める東洋画と西洋画では日本の画壇の大物作家が相談役として招かれるなど、宗主国である日本が展覧会を主導していた印象は否めない。
 現在、満展に出品されたことが確認されている作品は1点も発見されていない。大半の作品はもはや現存していないと推測されるので、展示の様子は図録の不鮮明な図版などを通して類推するしかないのだが、作品の質はお世辞にも高いとはいえなかったことは確かなようだ。加えて、当時の時勢もあってか、過激な作品は審査の段階で出品を拒絶されていた可能性が高い。満州国のプロパガンダが展覧会の大きな目的だったことを思えば、この「検閲」は当然だったのかもしれない。第2章では、国内の奉祝美術展や海外の万博の美術展示を例にとり、紀元2600年展での美術展示が実現した場合、どの部門にも国内の画壇の序列がそのまま持ち込まれ、前衛美術はほとんど排除されていたのではないかという仮説を提唱したが、同時期の満州での美術の状況もまたこの仮説を裏付けているように思われる。

満映と甘粕正彦

 長春市内南部の南湖公園の近くに、長影旧址博物館と呼ばれる施設がある。ここには過去の映画に関するさまざまな資料が展示されているほか、シネマコンプレックスや音楽ホールの機能も備えたテーマパーク型の博物館で、日本でいえば京都の太秦映画村などに相当する施設だが、実は戦前には満州映画協会(以下、満映と略記)の活動拠点であった。
 満鉄に映画部が設けられるなど、以前から満州国関係者の絵以外に対する関心は高く、映画制作がおこなわれていた。当時の関係者は満州国の正統性を対外的にPRする必要に迫られていて、映画という新しいメディアがもつプロパガンダ機能に期待が寄せられていたのだろう。満映は満鉄から独立するかたちで1937年に創設され、清朝の王族を理事に迎え映画制作に乗り出すが、なかなか実績が上がらなかったため、翌年に当時満州国総務庁参事だった武藤富雄と次官だった岸信介は思い切った人事を断行する。甘粕正彦を2代目理事長として抜擢したのである。
 甘粕正彦といえば、数奇な運命をたどったことで知られる軍人である。その名を聞いて、映画『ラスト・エンペラー』に甘粕役で出演していた坂本龍一の姿を思い起こす読者もいるかもしれない。警官の息子として生まれた甘粕は、陸軍士官学校を卒業して憲兵となり(のちの首相・東條英機は、士官学校時代の恩師であった)、関東大震災の混乱期にアナキストだった大杉栄らを殺害する、いわゆる「甘粕事件」を起こし(なおこの事件は、目撃者が不在なうえ甘粕の供述も二転三転し、また非力な甘粕が柔道の猛者だった大杉を素手で殺害したとされるなど、不自然な点が少なくない)、懲役10年の判決を受けて服役する。3年で仮出獄した甘粕はすぐに結婚して渡仏し2年間の遊学ののちに帰国、今度は大川周明の推薦によって満州に渡る。満州では数回の謀略に参画し、溥儀の満州国皇帝即位にも一役買い、満州国建国後は民政部警務司長、満州国協和会理事、中央本部総務部長などの役職を歴任する。武藤と岸から満映理事長への就任を打診されたのは、それからしばらくしてのことだった。
 甘粕の理事長就任が発表された当初、甘粕の前歴を知る者たちの間では、「満映が右翼に牛耳られる」と畏怖する声が大半だったという。しかし甘粕はスタッフの待遇を改善し、日本人・満州人ともに給料を大幅に引き上げたほか、女優を酒席に同席させることを禁止するなどの改革を断行し、たちまちその評判は向上した。李香蘭を看板スターとする体制を確立したのも甘粕が理事長だった時期である。甘粕の理事長着任によって満映の業績が大きく向上したのは紛れもない事実であり、甘粕が実務家として有能だったことは間違いない。
 もっとも、いくら実務家として有能だったとはいえ、甘粕はしょせん映画制作については素人であり、現場のスタッフが甘粕の素人ぶりを嘲笑することもあったという。とはいえ、そんなことは十分想定の範囲内であり、甘粕もそれで目くじらを立てたりはしなかった。それよりも気になるのは、なぜ武藤と岸は甘粕に畑違いの満映理事長就任を打診したのだろうか、また甘粕も青天の霹靂ともいうべき要請を受諾したのだろうかということだ。
 このうち、前者は比較的容易に想像がつく。すでに述べたように、満州国政府は満映に対してプロパガンダ戦略への貢献を大いに期待していた。映像制作は現場のスタッフやキャストの仕事としても、その配給や公開には有能な実務家の手腕が必要とされる。その点で、満州での多くの謀略で実績を挙げた甘粕はこれ以上ない適任者だったのだろう。加えて、武藤も岸も「甘粕事件」の判決に対して懐疑的であり、彼の満州での功績にふさわしいポストを用意してやりたいという温情もはたらいていたものと推測される。一方後者に関しては、やや意外な事実に注目する必要がある。当時の満州国の関係者の間でどの程度知られていたのかはわからないが、実は甘粕は日本では昭和初期に流行したプロキノ映画をほとんど観ていて、また遊学先のフランスでも多くの映画を観るなど、無類の映画好きであった。武藤が甘粕の抜擢を決断したきっかけも、同じ使節団の一行として渡独してウーファ社のスタジオを視察した際に、甘粕の映画に対する深い造詣を知って感心したことだったという。
 一方で、甘粕の映画好きは、満映にまた別の一面をもたらすことになった。中国本土では中華電影との合作映画を除いては満映作品を公開しない方針だったため、その公開範囲は必然的に満州国及び日本租界に限定されることになった。必然的にその作品は日本人の嗜好に合わせざるをえなくなり、多くの日本人スタッフ・キャストをそろえる必要に迫られたが、その一方で「五族協和」という理念にも最低限配慮しなければならなかった。日本人だった山口淑子が李香蘭という中国名でスターとなり、戦後になって漢奸の嫌疑をかけられるはめになったのも、以上のような満映特有の事情が関係している。
 こうして満映には日本から多くの映画人が参加することになるのだが、実のところ彼らの多くは、当時の会社の方針と折り合いが悪かったため、日本では映画を撮る機会に恵まれず、やむなく渡満してきた左翼であった。右翼の憲兵隊長として畏怖されていた甘粕のもとに左翼の映画人が多数参集したというのはいささか意外な事実である。しかし、プロキノ映画出身でバリバリの左翼だった木村荘十二や北川哲夫は、甘粕がマルクス主義やロシア共産党の話を聞いても平然としていたことを振り返っていて、また同じくプロキノ映画出身で戦後には帰国して『血槍冨士(11)』や『宮本武蔵(12)』などの大作を手掛けた内田吐夢も、甘粕が自分よりもスケールが大きい人間であることを認める発言をしている(13)。何しろ甘粕には、恩師の東條を公然の不仲だった石原莞爾に堂々と引き合わせたというエピソードさえ存在するのだ。もちろん満映には、左翼ばかりでなく右翼の映画人も少なからず参加していた。甘粕の清濁併せのむスケールの大きさが、満州の地に多くの映画人を引き寄せたといえるだろうか。
 もっとも、多士済々な映画人が参画していた満映だが、多くの作品は日本映画の二番煎じだったとされ、お世辞にも評価が高いとはいえない。また作品のよしあし以前の問題として、島津保次郎の『私の鶯』(しかもこの作品は東宝との合作で、満映独自の作品ではない)を除くすべての作品が散逸してしまったとされ、長らく見ることもできない状態だった。だが1994年6月、ロシア国立映像資料館から多数の満映作品が発掘された。発掘された作品は約300本、上映時間にして約38時間。これらの作品は、映画好きだったスターリンの指示によって保管されていたという。その多くは未編集の記録映像(もちろん、そこに映っているさまざまな式典や満州国の人々の日常の様子は、資料として極めて貴重なものだ)だが、それに加えて李香蘭主演の『迎春花』や森繁久彌ナレーションの啓蒙映画『北の護り』、アニメ映画『蚤はこわい』なども残存していた(14)。松竹、日活、新興、芸術映画社などの国内各社から多くの撮影技師、映写技師、照明技師などを招聘し(戦後プログラムピクチャーの職人監督として活躍する加藤泰もその一人であった)、またドイツからウーファ社の優れた映像技術を導入し、アグファ社からフィルムの供給を受けるなど、甘粕は最新の映像技術への関心が強かった。半面制作現場には一切口を出さない方針だったため、満映の制作スタッフは、日本では到底不可能な映像実験に取り組むことが可能だったのである。
 甘粕は満州国が滅亡した翌々日の1945年8月20日に服毒自殺を遂げ、10月には満映は中国共産党によって接収され中国電影公司となる。それ以降はその後身である長春電影制片廠(旧名:東北電影公司)が長春映画撮影所として長らく使い続け、現在のような博物館となったのは2014年9月とごく最近のことだ。博物館の展示はほとんど戦後の中国映画にさかれていて、とりわけ、戦後間もない1940年代から50年代の中国映画はほぼ抗日戦争もの一辺倒といってよく、いまさらながらあの戦争が残した傷跡の深さを思い知らされるのだが、エントランスの近くに設置されている数枚の解説パネルとわずかな展示品は、かつてここが満映だったことを教えてくれる。椹木野衣は満映のさまざまな映像実験が戦後の大阪万博のハイテク映像の先駆となったことを指摘しているが(15)、同時代に開催されるはずだった紀元2600年博にもダイレクトな影響を及ぼしたのではないかと感じるのは私だけだろうか。

大東亜建設大博覧会

 また、新京で満州国建国10周年を記念する大規模な博覧会が開催されていたことにもふれておかなければならないだろう。1942年8月10日から9月30日にかけて、「大東亜建設大博覧会」と題する展覧会が開催された。会場は新京特別市内の百道松原、満州新聞社、康徳新聞社、満州日日新聞社の3社が主催者として名を連ねている。
 会場には屋外大パノラマ・ジャングル地帯、陸軍館、海軍館、航空館、武勲館、馬事館、大東亜戦時館、新興産業館・科学館、総力奉公館、通信交通館、特設館(朝鮮館・台湾館・満州館・華北交通館)、盟主日本館、映画館・芸能奉仕館といった展示館が設置された。すでに日米が開戦していた時期の開催ということもあり、建国神廟や対イギリス・アメリカ戦の戦利品など、全体としては大東亜共栄圏を鼓舞するようなプロパガンダ的な色彩が強かったが、「五族協和」を意識してか、オロチョン族など少数民族関連の展示がおこなわれたという。観客動員は100万人を突破するなど好調に推移したが、現在ではすっかり忘れ去られてしまっている観がある。プロパガンダ色が強い博覧会は当時国内でも盛んに催されていたし、それと比べてもこの博覧会にはこれといって特筆すべき内容がなかったように思われる(16)。

ハルビン――満州北部の人工都市

 わずか1泊の長春滞在のあと、9月6日の夕方、私はまたしても高速鉄道に乗車し、今度は黒竜江省の州都ハルビンへと向かった。鉄道の旅は快適で、1時間半もしないうちに目的地に着いてしまった。現在、ハルビンの都市圏人口は1,000万人を超え、満州でも最大級の規模を誇る。かつてのあじあ号の終点であり、また安重根による伊藤博文の暗殺現場でもあるハルビン駅の駅前広場は、無数の群衆でごった返していて足の踏み場もないありさまだった。
 漢字の哈爾浜よりカタカナのハルビンのほうがなじみ深いことに明らかなように、ハルビンはヨーロッパ的な色合いが濃い都市である。その独特の雰囲気は、ロシアやモンゴルにほど近い地理的環境はもとより、ロシアによって開発が進められ、またかつてはユダヤ人のゲットーが存在した歴史的経緯も相まって形成されたものだ。
 ハルビン市の北部には松花江という大きな河川が町を横断するように流れていて、その南側を並行するように鉄道の路線が走っている。松花江と鉄道の間隔は約2キロ、両者の間には多くのヨーロッパ風建築が立ち並ぶ中央大街が走っていて、一方、駅前広場から南に延びる紅軍街の先には巨大な円形広場が待ち構えている。ロシアがこの一帯の開発に乗り出し、ハルビンにアール・ヌーヴォー調の東清鉄道の駅を設けたのは1896年のことだが、この広場に初のロシア正教会であるニコライ聖堂が建設されたのは、それからわずか2年後の98年のことだった。市街地にロシア正教の教会を設けるのはロシアの都市計画の典型だが、それを市の交通の要衝に設ける手法には、明らかにオスマンのバロック的都市計画の手法を見て取ることができる。もっとも、ニコライ聖堂は文化大革命の渦中にあった1966年に近衛兵によって破壊されてしまったため、現存していない。現存する教会のうち最も著名なのは07年に建てられた聖ソフィア教会だが、外観こそ見事なビザンチン様式を保っているものの、すでに教会としての機能は失われ、現在はハルビン建築芸術館として活用されている。
 一方、北川の中央大街はかつてキタイスカヤ(中国人街)と呼ばれ、ロシアや日本が建てた多くの欧風建築が立ち並んでいた。中国の都市に中国人街があるのも妙な話だが、それはそれでハルビンという都市の国際的な性格を強く物語っているといえるだろう。旧秋林洋行、モデルン・ホテル、旧ハルビン市公署、旧ユダヤ国民銀行、旧松浦洋行などのビルはいまでも現役で使用されていて、ロシア人が姿を消して久しいこの街の景観を依然として国際色豊かなものにしている。ロシアの都市計画をもとに大きく上書きした大連と異なり、ロシアが残した街路や建物をほぼそのまま引き継いだハルビンの都市景観に、日本的な要素はあまり認められない。ただ日本が整備した中央広場にはロシア正教会のような宗教施設がなく、そこにははっきりとした差異が認められる。また、ハルビンには傳家甸(フーシャンテン)と呼ばれる中国人の居住区があり、ここでヨーロッパ的とも日本的ともいいがたい独自の建築様式が発達した。その独自のデザインは現在では「中華バロック」と呼ばれていて、ロシアや日本の支配に対する中国人の抵抗を見て取ることができるかのようだ。
 ハルビンといえば、あの731部隊の拠点だった都市でもある。中心部から南側約20キロに位置する「侵華日軍第731部隊遺址」にはボイラー塔の残骸が残され、また現在でも終戦直後に破壊された施設の遺構の発掘が進められているほか、2015年8月に開館した罪証陳列館では、731部隊の蛮行を物語る多くの物品が展示されていた。ベルリンのユダヤ博物館をほうふつとさせる空間や過剰とも思える演出が施された数々の展示には、当然ながら強烈なプロパガンダ的な意図がうかがわれたが、そのことを割り引いてもなお、当時の満州でいかなる悪夢が起こったのかを想像するには十分すぎるほどだった。万博というテーマからかけ離れているので、これ以上展示の詳細には立ち入らないが、731部隊がおこなったとされるさまざまな実験に、満州国という人工国家の実験的な側面が極端なかたちで露呈していることは確かだろう。

大東亜戦争完遂哈爾浜大博覧会

 日本の支配下にあった時期が短かったこともあり、大連や長春に比べて日本の色彩が薄いハルビンだが、戦時中にはこの都市でも博覧会が開催されたことがある。1943年8月1日から9月20日にかけて、松英江河畔の道理公園で開催された「大東亜戦争完遂記念哈爾浜大博覧会」である。展示館は国防産業館、戦時生活館、大東亜旅行館の3館だけで、当時の戦局を反映してか、兵站や配給などに焦点を合わせた戦時色が強い展示がおこなわれたようだ。61万人の観客を動員したということだが、この博覧会についての資料は乏しく、「博展」で長谷川一郎が執筆したレポート以外にこれといった報道も見当たらない(17)。当時はすでに戦局が悪化していて、ハルビンを訪れる観光客の客足も落ちていたものと推測される。大本営発表ではないが、この動員数にもいささか誇張が含まれていたのかもしれない。

おわりに

 こうして、6泊7日の満州滞在を終えた私は、9月8日早朝にハルビンを発って北京経由で日本へと戻ってきた。瀋陽を訪れる機会を逸したのは返す返すも残念だったが(幸いこの都市は日本とも直行便で結ばれていて、近いうちにぜひ訪れたいと思っている)、満州族の故地であり、清朝建国の祖であるヌルハチが王宮を構え、現在も陵墓に眠る瀋陽は、今回訪れた3都市とは異なって長い歴史がある「自然都市」である。結果論とはいえ、本稿の目的に即せば、今回の訪問先を3つの「人工都市」に限定できたことは諒とすべきなのかもしれない。さて、日本へと戻ってきた私は、あらためて今回の満州滞在を振り返ってみて、最も強いインパクトを受けていたのは長春の景観だったことを再認識した。
 長春駅に到着した当日はすでに夜だったためにわからなかったのだが、翌日の出発時に駅舎の南側を見た私は、大通り(人民大街)が一直線に市街地を貫いていることに気がついた。また帰国後に長春の地図を見返した私は、それが完璧な人工都市であることをあらためて実感した。鉄道と運河に沿って整理された区画、市内に点在する公園、要所要所に設けられた広場とそれらを結ぶように走る幹線道路。池までが人造湖で、手つかずの自然や昔からの集落が放置されていた要素がほとんど見当たらない。繰り返すが、満州国時代の首都「新京」は、文字どおり「新しい京」として構想された都だったのである。
 満州国の首都として整備された長春=新京には、当然のように多くの首都機能を備えた施設が建てられた。駅から人民広場を抜けて南側に延びる人民大街と、それと並行するように文化広場と新民広場を結んで走る新民大街という2本の大通りの沿道に集中しているそれらの施設は、みな一様に鉄筋コンクリートの躯体の上に東洋風の意匠の屋根を頂いていた。
 1920年代の日本国内では、西洋風の躯体に日本風の屋根を載せる和洋折衷の様式による官公庁の建築が流行したことがある。帝冠様式と呼ばれるこの様式は、西洋の先端技術に日本趣味を融合して日本精神の優越性を打ち出すことを大きな目的としていた。これと同様の意図は、当然長春の施設群にも認められる。ヤマトホテルのような民間の建物とは異なり、官庁舎は意匠の面でも日本支配を示す必要があるからだが、その一方で「五族協和」という理念を表象するためには屋根の意匠に中国的な要素を取り入れる必要もあり、建物の細部は日本国内の帝冠様式とは微妙な違いをはらむことになった。これらの施設群の様式は、現在では興亜様式と呼ばれている。
 9月6日の日中、私は新民広場から新民大街と人民大街を北上して、長春駅を目指して歩いた。沿道の多くの部分には公園が整備されていて、そのところどころに旧満州国時代の建物が深い緑のなかに埋没するかのように点在している。それらの建物はどれも強いインパクトを残すが、なかでもひときわ異彩を放っていたのが、それぞれ日本の国会議事堂と天守閣を中華風にアレンジした趣の「偽満州国国務院旧址」と「旧関東軍本部」であった。帝冠様式がヨーロッパと日本のアマルガムだとすれば、そこにさらに中華趣味も加えたものが興亜様式だといえるだろうか。もちろん、私はいままでにこんな奇怪な建物をほかのどの場所でも見たことがないし、これからも見ることはないだろう。だがこれらの建物が佐野利器の指導によって建てられたこと(18)を事前に知っていた私は、ふと彼が肇国記念館コンペの審査委員長を務めていたことを思い出し、紀元2600年万博が開催されていたら、満州以外の世界のどこにもないはずの建物が、ひょっとしたら月島界隈に出現していたのかもしれないという不思議な感慨に囚われた。
 1945年8月18日、皇帝・愛新覚羅溥儀の退位によって満州国は滅亡した。日本の降伏からわずか3日後のあえない最期だった。すでにふれたように、満州国が日本の傀儡国家であり、短期間で滅びる運命にあったことは誰の目にも明らかだったが、にもかかわらず(あるいはそれゆえに)この人工国家では他国では到底不可能なさまざまな実験が展開され、一部の人間にとってはつかの間のユートピア、文字どおりの「王道楽土」たりえていたこともまた否定しきれない事実なのだ(19)。その雰囲気は、例えば和田三造の『興亜曼荼羅』(1940年)が伝えるとおりである。そして、つかの間のユートピアという性格は、当然ながら万博に対してもあてはまる。6泊7日の慌ただしいスケジュールのなかで、私が接した満州国時代のさまざまな実験の痕跡は、同時代の紀元2600年万博計画と深くシンクロしているように感じられた。私は満州国という国家そのものが巨大な万博のような存在だったのではないかという従前の仮説を訂正する必要は一切ないと感じているし、また今後もさらに検討を重ねて、その仮説をさらに補完していきたいと考えている。


(1)『ラスト・エンペラー』監督:ベルナルド・ベルトルッチ、1987年
(2)安部公房「終りし道の標べに」『安部公房全作品』第1巻、新潮社、1972年
(3)村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』全3部、新潮社、1994年
(4)西澤泰彦『図説「満洲」都市物語――ハルビン・大連・瀋陽・長春 増補改訂版』(ふくろうの本)、河出書房新社、2006年、52ページ。以後、各都市の市街地の歴史に関しては原則として同書に依拠する。
(5)同書70ページ
(6)満州での博覧会の概要は、山路勝彦『近代日本の植民地博覧会』(風響社、2008年)に依拠する。
(7)ケネス・ルオフ『紀元2600年――消費と観光のナショナリズム』木村剛久訳(朝日選書)、朝日新聞出版、2010年、20ページ
(8)例えば、越澤明『満州国の首都計画』(〔ちくま学芸文庫〕、筑摩書房、2002年)14ページには、「満州事変前の満鉄時代の長春都市計画は、近代日本都市計画の産みの親である後藤新平の都市計画に対する情熱の基をつくった原体験であること、そして満州事変後の満州国時代の新京都市計画は、それまで日本の都市計画が消化し、蓄積してきた理念と技術を全面的に適用した一大実験場であったということである」と記載されている。
(9)同書175ページ
(10)満展については、崔在★火偏に赫★「満洲国の美術 1932―45年」(北澤憲昭/佐藤道信/森仁史編『美術の日本近現代史――制度・言説・造型』所収、東京美術、2014年、377―389ページ)を参照した。
(11)『血槍冨士』監督:内田吐夢、1955年
(12)『宮本武蔵』監督:内田吐夢、1961年
(13)山口猛『幻のキネマ満映――甘粕正彦と活動屋群像』(平凡社ライブラリー)、平凡社、2006年、103ページ。なお、満映についての概要は同書に依拠している。
(14)『私の鶯』(監督:島津保次郎、1944年)、『迎春花』(監督:佐々木康、1942年)、『北の護り』(1942―44年)、『蚤はこわい』。これらの発掘映像については、『満州の記録――満映フィルムに映された満州』(集英社、1995年)を参照のこと。
(15)椹木野衣『戦争と万博』美術出版社、2005年、251ページ
(16)同博のリアルタイムな反響としては、西澤捷「満洲建国十周年記念 大東亜建設博覧会を観る」(「博展」第26号、日本博覧会協会、1942年、8―11ページ〔津金澤聰廣/山本武利総監修、加藤哲郎監修・解説、増山一成編・解説『近代日本博覧会資料集成』(「紀元二千六百年記念日本万国博覧会」第4巻)、国書刊行会、2015年、426―429ページ〕)が挙げられる。もっともこの記事は展示の紹介ともろもろの困難を克服して開催にこぎ着けた主催者の奮闘を称えることに終始していて、内容についての踏み込んだ言及は見られない。
(17)長谷川一郎「哈爾浜博作品の展望」(「博展」第37号、日本博覧会協会、1943年、8―9ページ〔前掲『近代日本博覧会資料集成』(「紀元二千六百年記念日本万国博覧会」第4巻)、636―637ページ〕)。なお乃村工藝社アーカイヴが所蔵するこの博覧会の資料は絵はがき3点とスタンプシール1点だけであり、前掲『近代日本の植民地博覧会』にもこの博覧会については一切記載されていない。
(18)前掲『満州国の首都計画』248ページ
(19)その一例として、先に述べたように、満映に左翼の映画人が多数流入したことなどが挙げられる。またルイーズ・ヤングは、満州に渡った日本の左翼知識人にとって、そこ(満州)が「日本とは異なり、新しい考え方に寛容であり、社会的な実験を呼び込み、都市計画家・芸術家・写真家・左派の学者などが創造的な活動をするのにふさわしい、開かれたフィールド」だったことを指摘している(ルイーズ・ヤング『総動員帝国――満州と戦時帝国主義の文化』加藤陽子ほか訳、岩波書店、2001年、178ページ)。

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