第3章 パリに出現したナチのショーウインドー――1937年パリ万博へのドイツ出展

江藤光紀(筑波大学教員・音楽評論家)

「巴里通信」

 1930年代になると第1次世界大戦の傷跡からヨーロッパもようやく立ち直り、万博開催の機運が世界的に広がってくる。29年から30年にかけてのバルセロナ万博を皮切りに、シカゴ(33―34年)、ブリュッセル(35年)、さらには37年のパリ万博、39年のニューヨーク万博と続き、皇紀2600年に合わせて開催されるはずだった東京万博へと至る。日本万国博覧会協会が発行していた雑誌「万博」は、国内での準備状況を記録するだけでなく、こうした万博の世界的な流れもリアルタイムでキャッチしている。
 日本産業協会主事として1920年代からパリの博覧会の日本出展に関わってきた佐々木綱雄は、37年のパリ万博を視察、同年「万博」5月号から「巴里通信」を計6信寄せていて、来る日本での開催を見据え、パリ万博の特性から予算や建築まで詳細な分析を加えている。帰国後、佐々木は日本万国博覧会の事業部部長に就任した。39年のニューヨーク万博は開催時期が近く、日本が大きな示唆を受けた直近の万博は、この37年のパリ万博だったと思われる。
 その第一信はフランス政府の支出総額、ならびに主要参加国の支出の記録から始まっている。それによればフランスの万博事務局の公表予算総額は11億5,000万フラン(以下、単位はフラン)、外国側はドイツ4,000万、イタリア1,500万、ソビエト連邦(ソ連・ロシア)1,300万、ベルギー1,200万、アメリカ800万、イギリス800万、日本300万、その他が2,600万(1)。外国出展ではアドルフ・ヒトラー政権下のドイツが他を圧していて、同じくファシズムのイタリアと、共産国であるソ連がほぼ同額というあたりが、政治情勢を生々しく反映している。
 帰国後の報告「巴里万博より帰りて」では、これらの予算額が各国間の競争になって平均約5割増しになったとある。佐々木は1939年のニューヨーク万博、41年のローマ万博と、日本と競合する万博の宣伝運動に対し、日本は歴史性や地の利の問題からも不利、普及運動も立ち遅れているとして、「乃ち難関突破の計画としては凡ての計画が全国総動員的の規模を持ち、又全国民をして自分自身の仕事である様に凡ての点から見て多大の関心と絶大の興味とを持たせる様に仕向けて行かねばならぬ(2)」と結んでいる。日中戦争が泥沼化し総力戦の様相を呈していくなか、佐々木にとって万博は文化の総力戦だったのだろう。
 ところで37年博当時のフランスは左派が政権を握っていたが、毎年のように首相が変わり、政情は安定していない。36年6月に人民戦線政府として誕生したレオン・ブルム政権は、前政権から万博計画を引き継ぐ一方、週40時間労働など大胆な労働改革にも取り組んだ。しかし1日8時間労働、週休2日制で働くフランス人労働者に、佐々木は「博覧会の様な忙しい仕事に従事せる労働者が土、日、2日の休日を取って平然と致居候」、5月1日の開会も20日ほど遅れるだろうと述べている。一方、外国勢ではドイツが断然トップにあり、材料職工一切を自国から調達している(3)と報じている。
 ドイツの万博への参加は早くから検討されていたとはいえ、正式参加表明は開催前年の10月、さらにドイツ館の建設がスタートするのはようやく1937年1月になってからのことだった。しかし佐々木の報告にもあるように、ドイツは資材・職人を本国から送り込み3交代制のシフトを敷いて、わずか5カ月の工期でパビリオンを完成させている。オープニングは3週間遅れの5月25日だったにもかかわらず、フランスの関係パビリオンのほとんどはまだ建設途中だった。遅れてスタートしたドイツ館が期日どおりに完成したこと、そしてそれが金賞をとるほどに高い評価を得るものだったことは、政情が不安定な左派フランスと盤石な右派ナチとの対比を、訪問者たちに印象付けたはずだ。
 緊張感を帯びつつあった国際情勢を背景に、万博という場にはさまざまな政治的な磁力がはたらいていた。それはまさに、国家の威容を可視化する装置だったのである。シャイヨー宮のテラスからセーヌ川を挟みエッフェル塔を臨む37年博会場の写真(図1)は、そうした力学をはっきりと映し出している。向かって左にそびえるのがドイツ館で、その突端にはナチのエンブレムである鷲が止まっている。向かい合って立つのがソビエト館で、こちらは鎌と槌を掲げる男女の像を頂いている。

図1 パリ万博会場

 会場の最も重要な場所を占めるこの2つのパビリオンを、誰もがファシズムと共産主義というこの時代の二大政治思潮の対峙として理解した。エッフェル塔は2つの強烈な磁場に引っ張られて股裂きになっている。実際、フランスの政治家や知識人たちの心は揺れていた。伝統的に左派思想が強い国ではあるが、共産主義革命のような急進的で極端な変革は彼らの恐れるところでもあった。強い結束力のもと快進撃を続けるファシズムを魅力的な政治的選択肢ととらえる人々も少なくなかったのである。

「文化による友好」というまやかし

 とはいえ、ファシズム勢力による国際協調体制の侵犯は日増しに明白かつ大胆になり、ドイツの対フランス政策も強硬路線を突き進んでいた。ブルム政権成立直前の1936年3月には、ドイツ軍はヴェルサイユ条約とロカルノ条約をほごにして非武装地帯のラインラントに進駐している。第1次大戦で苦い勝利を得たフランスにとって、これは重大な約束違反であり脅威だった。さらに同年7月には、スペインの人民戦線に対しフランシスコ・フランコ率いる反乱軍が蜂起し、ファシズム諸国の支援を受けながら内戦へと突入していく。国際問題だけではない。35年9月にはユダヤ人の公民権を否定するニュルンベルク法が成立するなど、強化される人種差別に対しても、国際的な非難は高まっていた。
 1937年の万博は、新たな世界大戦が具体性を帯びていくなかで開催された。とするならば、左派ブルム人民戦線政府が開催する万博に、ドイツがこれほどまでに注力したのはかなり奇異に映る。ドイツのパリ万博出展はなぜ可能になり、どうしてここまで大規模なものになったのだろうか。
 それは戦争を回避したいフランスと、戦争までの時間を稼ぎたいドイツとの、奇妙な協調関係だった。そもそも1920年代にナチは、アーリア人がスラヴ、黒人、ユダヤ人といった“劣等人種”と競うことや、自らを苦しめている連合国の選手との国際競技に反対していて、また35年のブリュッセル万博も出展をとりやめている。ヒトラーは当初、オリンピックにも万博にも関心がなかったといわれるが、ラインラント進駐やスペイン内乱のただなか、36年1月にはミュンヘン近郊で冬季オリンピックが、8月にはベルリンで夏季オリンピックが開催されている。明確な方向転換には、ドイツが他国と協調ができ、平和を愛する、信頼に足る国家であることを示し、批判の矢をかわす狙いがあった。
 とはいえあくまでそれは相手の目を欺くための擬態にすぎなかった。1936年1月、ドイツ南部の町ガルミッシュ=パルテンキルヒェンでは、夏のベルリン大会に先立ってオリンピック冬季大会がおこなわれたが、この町は反ユダヤ主義が渦巻く場所として知られていた。すぐ北部のオーバーアマガウでは、キリストがユダヤ人の密告によって殺される受難劇が毎年伝統行事としておこなわれている。開催の直前までガルミッシュの町なかは反ユダヤの新聞、プラカードや落書きがあふれかえり、町議会はユダヤ人を追放することを決めていた。これが全世界に報道されれば、冬季の成功に影が差すどころか、夏のオリンピックさえ不可能になるかもしれない。懸念を抱いたドイツのオリンピック組織委員の後押しで、35年12月3日にはユダヤ問題に対する掲示やポスターを撤去する総統令が出された。外国からやってきた報道記者は最新の通信設備、秘書や案内人、食事が供されるなど、さながらVIP扱いだったという(4)。国際社会は安堵した。しかしオリンピックが終わると、町にはかつてのように反ユダヤの標識が戻ってきた。同じことは、夏のベルリンでも繰り返された。
 こうした偽装は功を奏し、反対を叫ぶ一部のユダヤ人団体やマスコミを除き、ナチの支持者はフランス内にも増えていった。右翼系新聞の発行部数は、1930年代後半には左翼系のそれの2倍以上に及んだという。20年代に両国の外相アリスティード・ブリアンとグスタフ・シュトレーゼマンがドイツ・フランスの融和路線を築いて以降、ドイツ・フランス間では公的なものから民間まで数多くの合同行事がおこなわれていて、友好こそがフランスにとっての確実な安全保障だという考え方も根強かった。フランスがドイツ誘致に積極的だったのも、こうした背景があったからだ。ワイマール共和国からナチ政権への変遷を目の当たりにしたフランス在ドイツ大使アンドレ・フランソワ=ポンセは、36年から37年にかけてドイツ・フランス間でおこなわれた数々の友好イベントを、「軽食やお菓子が供される幕間の休憩時間」で、そのあとに「悲劇が再開された(5)」と述べている。草の根レべルでの交流は政治的な決定には影響を及ぼさず、結果的に戦争へ向けてのつなぎにしかならなかった。
 ドイツの万博参加をめぐるパリの万博委員会とナチとの交渉プロセスは、両者の同床異夢ぶりを見事に示している。参加についてのドイツ側の具体策の協議は、すでに1934年4月には始まっていた。フランスからの正式な招待が届くのは同年12月のことで、その後パリのドイツ大使館、外務省、経済省などナチの複数のチャンネルを通じて、ベルリン・オリンピックへのフランスの参加と引き換えにドイツ出展を促すなどの駆け引きがおこなわれた。その際、最も大きな懸案事項は費用だった。当初、参加外国館に対して支出されるフランス側の補助金は1平方メートルあたり600フラン、割り当て面積上限が1,000平方メートルだったので、60万フランが総額の上限だった。一方、ドイツがパビリオン建設に求めた予算は2,000万フラン。フランス産業省はこれに対し、2国間で結んだ特別な貿易決済システムを使い、いわば迂回するかたちで毎月150万フランを10カ月にわたってドイツに送金することを決め、さらに不足分はパリ万博会場の設営材をドイツから購入することでまかなおうとした。万博の目玉、「光の祭典」の高価なアトラクション設備もまたドイツ製だったのである。
 ブルム政権下でおこなわれたデノミネーションは、こうした費用をさらに押し上げた。ドイツはフランス側の建築主任をドイツに招いてさまざまな援助を引き出し、それでも不足とわかると今度は万博委員会に接近した。2国間決済システムを通じた送金は200万フランに引き上げられ、フランス企業が手掛けるはずだった会場設備や資材を用意する仕事もドイツに渡った。国内企業から上がった不満の声に対する建築部門長の答えは、週40時間労働とたび重なるストライキによって、フランスには設営を完遂する力がない、というものだった。ドイツの要求を黙認し続けた結果、ドイツ出展の費用の多くが、フランス側から引き出されたのだった(6)。
 ナチが政権をとって以降、多くのユダヤ人や左翼活動家がフランスに亡命していたが、これに対する万博委員会の対応も、ナチにとってまことに都合がいいものだった。1937年1月、フランスの亡命者たちが発行する新聞「新日記」で、トーマス・マンが亡命左翼とユダヤ人たちにパリ万博出展を呼びかけた。これに対するドイツ側の激しい反発を受けて万博委員会は、そのような計画は関知していないし、ドイツ出身者の万博の参加はドイツ本国との公式ルートを通さないかぎり許可しない、と答えた。首相のブルムがユダヤ系だったにもかかわらず、である。ドイツの参加を最優先したい主催者にとって、亡命左翼もユダヤ人も騒擾要因でしかなかったのだろう。
 この数カ月後には、ドイツ出身のアーティストに対しても、たとえそれがフランスの出展部門だろうと、公式ルートの許可なしには作品を展示することはできないという制限が課された(7)。「現代生活における芸術と技術」をテーマに掲げたこの博覧会では、ラウル・デュフィが電気館に巨大壁画『電気の精』を制作したのをはじめ、フェルナン・レジェやロベール・ドローネーというフランスのモダニズム画家たちが展示会場を飾っている。一方ドイツ国内では、ナチの政権奪取後から、各地の美術館でビルダーシュトゥルム(絵画嵐)と呼ばれるモダニズム絵画排斥運動が激化し、前衛画家たちは次々と要職を解かれ、亡命を余儀なくされた。そうしたアーティストたちは、また万博でも参加の機会を奪われたのである。これが左派政権下でおこなわれた万博の実態だった。

ドイツ館とその展示内容

 パリ万博でのドイツの出展はナチ体制が参加した唯一の万博だが、フランス側の全面協力もあって、その内容は極めて多岐にわたり、ヒトラーのもとで“花開いた”文化や産業のショーウインドーの役割を果たした。内容は人文・思想、社会問題、芸術・技術教育、都市建築、美術など14ジャンル114クラスに分類されていて、メインパビリオンであるドイツ館を中心に、国際館(鉄・ガラス・プラスチックなどの加工技術から家具・文房具・繊維品といった日用品などを展示)、新装なったトロカデロ/シャイヨー宮(図書館学や記念碑保存についての展示)、近代美術館で展示がおこなわれたほか、旅行館、鉄道館、安全館(国家財や国民の健康の保全に関する展示)、教育館(教材などを展示)、広報館、プレス館、皮革製品館、版画・彫刻館などに加え、水上スポーツに関連した帆走ヨット館にも参加している。
 なかでも最大のものは、アルベルト・シュペーアが設計したドイツ館(図2)である。正面には7本の列柱に支えられた高さ65メートルの塔がそびえる。塔の下部にしつらえられたエントランスを抜けると、幅19メートル、奥行き140メートル、高さ15メートルに及ぶ展示会場が開けてくる。パビリオンに向かい合って立つと、来場者はまず垂直方向に視線をはわせてその威容に圧倒され、ホールに入ると水平方向に伸びる奥行きに引き込まれる。

図2 ドイツ館

 平面図・側面図から建物と会場構成が、また展示カタログから具体的な展示内容や出品物がわかるが、会場内部の写真からもまた実際の雰囲気を感じ取ることができる。そうした写真を追っていくと、ハインリッヒ・ホフマンという名前によくぶつかる。ニュルンベルクの隣町フュルト出身のこの写真家は、第1次大戦後すぐにヒトラーと個人的な親交を結び、そのポートレートを刊行して大成功を収めた。パリ万博でも大活躍したようである。
 ホフマンはまた立体写真機を用いてパリ万博の会場を撮影し、『パリ1937年万博(8)』というタイトルのポートフォリオにまとめている。立体写真というのは左右の2つのカメラレンズから同時に撮影した写真で、視差を調整し2つの像を重ね合わせると、被写体が浮かび上がって見えてくる。慣れれば裸眼でもできるが、写真集には立体視眼鏡が付いていて、写真を所定の位置にセットして眼鏡をかけると、意識的な調整をせずに立体写真が鑑賞できる。
 写真集は「帝国写真報道家」という肩書のホフマンの写真100枚と、E・P・フランクという人物による会場散策のエッセーからなっている。ドイツ語・フランス語・英語の3カ国語で掲載されたこのエッセーの著者は、パリ在住というほかに詳細は不明だが、テキストを片手に各館の立体写真を眺めていくと、バーチャルな万博旅行を楽しんだ気分になった。その印象は暗雲立ち込める大戦前の国際関係を反映したようなものでは全くなく、主要国が力を入れたパビリオンを通じて、世界各国のさまざまな生活や文化、食事を楽しんで回る、現代の万博と基本的にはさして変わらないものだった。
 写真集ではほとんどのパビリオンが1枚で紹介されているのに対し、ドイツ関連の展示には多くの枚数が割かれている。国際館のドイツ部門を写したものが2枚。ドイツ館とともにケルン館(直前になって市として特別出展した)を写したものが1枚。後者の奥に写り込んでいるシャイヨー宮はまだ建設途中で足場が組まれていて、これらの写真がオープニング後の早い時期に撮影されたとわかる。さらにドイツ館の外観や会場内を写した写真が17枚ほど続く。写真集をもとに公式カタログ(9)やフィス、ジゲル(10)らの先行研究の情報を加えながら、約80年前の展示会場を歩いてみることにしよう。
 ドイツ館は、エッフェル塔からイエナ橋を渡ってセーヌ川を越えたすぐの場所に、川に沿ったかたちでソ連館と向かい合って立っていた。鉤十字の紋章をつかんだ鷲を頂く長い塔の下に立つと、エントランスへと続く正面階段と、その両脇に設置された群像彫刻が来場者を出迎える。これはヨゼフ・トーラクの『友情』『家族』で、左側の『友情』は2人の男ががっちりと握手する後ろに女が立ち、右側の『家族』では男女のペアの背後に女性が、いずれも三角形の安定した構図を成すように立っている。力強い体躯をもった裸身像である。階段を上り柱を抜けると、正面扉の前のホワイエにあたるところに、ゲオルグ・コルベの『受胎告知の精霊』が置かれている。柔和な曲線美をもった裸体の女性像で、右手を脇に突き出し、左手は頭の上に掲げ、巨大な石の台座の上で片膝をついている。トーラクもコルベもナチ時代の代表的な彫刻家だ。ホフマンのポートフォリオには、この広間から後ろを振り返ったショットもあって、向かいのソ連館の屋上に設置されたヴェラ・ムーヒナの『労働者とコルホーズの女性』が、ちょうど柱によって額縁に収められたように写っている。来場者はこれらの建築や彫刻がもつ壮大なスケール感に、古典古代へとタイムスリップするような感覚を味わったにちがいない。
 ホワイエの向こうには3枚の扉が並び、ここを通って本会場に入る。内部はブレーメンの内装建築の専門家ヴォルデマール・ブリンクマンが担当した。観客は建築マケット・総統の建築のモデル(後述)の出迎えを受け、その奥の細長い展示スペースへと入っていく(図3)。光は天井に設置された窓からとられ、ほかに8本の置き型ランプ、それぞれが3トンもある12個の豪華なシャンデリア、さらに24の壁付け型ランプが会場を照らし出した。側面壁には一定の間隔に沿って柱が立ち、その間にドイツの国内の様子を描いた絵画が掲げられている。

図3 ドイツ館内部

 細長いホールには左右2列に一定間隔で展示ケースが設置され、陶器、革製品、化学繊維、防虫剤などの化学製品といったこまごまとした日用品から、宝石やハンドバックなどの装飾品、楽器や書籍、さらには伝統産業としてのおもちゃや人形も展示されていた。実演制作もおこなわれ、職人がガラス管を熱して器用に曲げ、ガラス細工を作り出すと観客から大きな拍手が起こったという。これらの工芸品はそのまま販売された。
オシログラフやレントゲンをはじめとする機械製品、ツァイス社、アグファ社などの光学製品も最先端の技術力を示すものとして展示され、その結晶として、会場の中心線に沿ってツァイス社の望遠鏡、世界記録をたたき出したメルセデス・ベンツのスポーツカー、蒸気機関やツェッペリン社のモーターといった大型機器が並べられた。
 次に絵画を見ていこう。入口にいちばん近いところ、総統の建築のモデルが置かれた両側の壁面に向かい合って掲げられたのはマックス・シュヴァルツァーの連作モザイク画『労働』と『歓喜力』で、『労働』では、それぞれ槌、シャベル、歯車とシャフト、縄とのこぎりを持った4人の男たちが台座の上に立っている。いずれも上半身裸で、その肉体は厚い胸板と隆起する筋肉に覆われている。一方、『歓喜力』は同じ構図で4人の女性を描いている。両端の女性は円盤とタンバリンを持ち、古代ギリシャの競技を連想させる。中央の2人のうち1人はギターを持ち、もう1人は腰にブーケを着け、手に杖を持って、ハイキングのいでたちである。
 タイトルの『歓喜力Kraft durch Freude』は、ナチのレジャー促進組織の名称でもある。ナチはアウトバーンの建設や再軍備によって新たな労働市場を創出し、この時期には完全雇用を達成、国民の強力な支持を取り付けていた。しかし戦争準備が進むにつれ、労働は過酷になっていったといわれる。歓喜力行団は、国民にスポーツや音楽、イベント、旅行などを提供することで、レジャーを管理して不満を解消し、国民をまとめ上げるという役割を担っていた。
 この個所を通り一定間隔に置かれた柱の間に展示されていた絵画は、フォーマットが同一なのでドイツ館の展示を前提として制作されたものだろう。E・P・フランクのエッセーによれば、「風景、都市、産業的もしくは歴史的意義をもった出来事、重要な公共労働」などをテーマにしたもので、バイロイト音楽祭を描いた絵画は楽器の展示の近くに掲げられるなど、展示品との関連も配慮されていた。同定されている作品は、優れた指導者のもと躍動する国家の力と一致団結した国民の姿を伝えている。ヴォルフ・パニッツァの『雪の中のアウトバーン交差路』は雪に覆われた大地からアウトバーンがくっきりと浮かび上がっている。フリッツ・ヤコブセンはクルップ社の鉄工場、ロイナの化学工場や総合燃料プラントを描き、活力を取り戻しつつある重工業を表象した。エーリッヒ・メルカーは光の聖堂 Lichtdom(後述)の脇を歩くニュルンベルク党大会のヒトラーを描いた。主題としてはいずれも引き伸ばし写真で代用できるような内容なので、ナチの芸術に対する独特な考え方が表れているともいえる。
 展示会場を一通り歩いていくと、会場のいちばん奥まったところが一段高くなり、礼拝堂の内陣のようになっている。階段を上ると、そこにはオープンになったばかりのミュンヘンの芸術の家(後述)のマケットが、神体か何かのように設置されていて、後部正面の窓には巨大な鉤十字と鷲をあしらったステンドグラスが埋め込まれていた。このステンドグラスはベルリンのアウグスト・ヴァーグナーの工房で制作されたもので、広げられた鷲の翼の下には労働に従事する4人の男が描かれ、また下3分の1には各地の紋章がはめ込まれた。同じ鷲と鉤十字のモザイク画が入口の3枚扉の上部にも設置されていて、最後の区画にたどり着いた鑑賞者が帰ろうとして後ろを向くと、140メートル離れた向かいの壁にもう一度、ナチのシンボルを発見するという仕掛けになっていた。
 この階段上部の左右の壁面には大きな群像画も掲げられていた。ルドルフ・ヘングステンベルクの油彩画『同志』は、大きなテーブルの上で設計図を開く建築家の周りにのこぎりや槌を持った労働者が集い、背後には団結して木造建造物の建設に取り組む男達が見える。向かいに掲げられたもう1枚は、1936年12月に帝国造形美術院総裁に就任したばかりのアドルフ・ツィーグラーの『四元素』の構図を元に作られたタペストリーである。原作は三幅対の大きな油彩画で、火、土、水、風を表す4人の裸婦が新古典主義調のタッチで描かれている。ミュンヘンの総統官邸に掲げられ、「大ドイツ芸術展」のオープニングにも展示された作品で、美学的にもその描かれている内容でも、ナチの芸術理念を代表する例と見なされていた(11)。
 先端技術と、伝統や共同体との強い結び付きを思わせる復古的なスタイルとの奇妙なアマルガムが、ドイツ館から受ける印象である。流線形のスポーツカー、最新型の天体望遠鏡やエンジンが展示される一方で、古典主義的な人体彫刻にはじまり、フレスコ画、モザイク、ステンドグラスなど、技法のレベルから古典古代を思わせる表象が混在している。そうした異質なもののミックスを最も強く感じさせるのが、展示会場の最奥部だ。階段を上れば荘厳ささえ感じさせる祭壇のような場所に至るが、下りれば上映室へと続き、テレフンケン社が開発した高性能テレビ装置(走査線数375本、50枚/秒)を用いて、映画や野外公演が放映されていた。
 ラジオは1920年代から一般的な情報網として普及し始めるが、テレビもその頃から実験放送が各国でおこなわれていて、30年代になると徐々に実用段階に入ってくる。オリンピックや万博はそうした最新技術の格好のお披露目の場になった。日本では23年に浜松口頭工業学校の高柳健次郎が開発に着手し、26年には電子式ブラウン管テレビ上に「イ」の字を映し出す送受信実験を世界に先駆けて成功させた。34年にはソ連出身のウラジーミル・ツヴォルキンがアメリカでアイコノスコープ(撮像管)を実用化させる。その技術はドイツでさらに改良を加えられていく。
 もともとドイツでは1929年から帝国郵便の旗振りでテレビ放送が試験的におこなわれ、パリ万博の2年前からはベルリン市内に設置されたテレビ塔で2つの放送局が映像配信を始めている。それは放送展示会などを通じ発展していくが、なんといっても36年のベルリン・オリンピックが果たした役割が大きい。市内各所に設置された受像機から流れる映像を、人々は無料で見ることができた。このときに用いられた受信機は走査線数180本、25枚/秒という解像度だったので、翌年のパリ万博で大きく進歩していることがわかる。
 またテレビ電話システムの開発も進められ、ドイツ館ではこの体験ブースも設けられた。わずかに間をおいて設置された2つのブースには電話機とテレビ画面が設置され、2人の訪問者が交わすやりとりとその画面を、観客は同時に眺めることができたのである(12)。
 ちなみに日本でも、東京万博、オリンピックに向けてテレビ開発は進められていて、高柳はNHK技術研究所に招かれ、走査線本数441本、25枚/秒という性能のテレビ放送を標準として実用化が図られた。オリンピックや万博が返上や中止になるなか、研究自体も1941年には中止されているが(13)、世界的イベントが技術の競争と普及に与えるインパクトの大きさがよくわかるエピソードだ。ナチの大衆操作でも、ラジオやテレビは決定的な役割を果たしている。
 さて、鑑賞を終えた観客は再びエントランスにまで引き返すが、その両脇には階段が、高い塔を支える柱の内部にはエレベーターが設置されていて、上ると屋上テラスに出る。ここは憩いと癒しのスペースで、花壇に日よけのための植物棚やパラソルがしつらえられるなか、提供されたグラフ雑誌を片手に人々はリクライニング・シートに寝そべってくつろぎ、レストランやバーではドイツ料理に舌鼓を打った。テラスには旅行ポスターが張り出され、観るものを旅情へ誘った。

そのほかの展示や催し

 この時代、旅行は有力な外貨獲得のための手段だった。実際に公式カタログ巻末には、出展した企業の広告に交じり、都市や観光局の広報が多いのが目につく。デュッセルドルフ(この年の秋に開かれる産業博の広報)、ライン川下り、ベルリン、ダルムシュタット、エッセン、バーデン・バーデン、ドレスデン……。ニュルンベルクは落成なったツェッペリン広場の党大会会場の柱廊をあしらった一面広告を打っている。小さい枠の広告も合わせると、相当な数の都市が自らの魅力を、多くはドイツ語・フランス語・英語3カ国語でアピールしている。
 また帝国鉄道もドイツ館に加え、旅行館や旧アンヴァリッド駅に設置された鉄道館にも出展した。展示パンフレットには、電気式の特急からディーゼルエンジンや連絡系統に関する最新設備が紹介され、最終ページは石炭式車両と煙突がない新型車両を上下に並べ「ドイツ鉄道100周年」という言葉で締めくくっている(14)。
 アトラクション公園にはプラネタリウムを設置し、人体の解剖学的モデルであるグラス・マンを展示した。宇宙と、その対極のミクロコスモスを対比させるという意図だろう。グラス・マンといってもガラスでできているわけではなく、透明なプラスチック素材を用いているのだが、両手を広げて天を仰ぐマネキンの皮膚や筋肉組織は透明で、骨格、神経系、内臓、血管が透けて見える。もともと1930年にドレスデンの衛生美術館で制作されたあと、各国に輸出されるほど好評だった。プラネタリウムもグラス・マンもパリ万博で最も来場者数の多いアトラクションとなった(15)。
 ところで、現在でも万博では日や期間を区切って特定の国に焦点を合わせた催しがおこなわれているが、37年パリ万博でも国際芸術フェスティバルと銘打たれ、イギリス、スイス、パレスチナが独自の「芸術週間」を開いたのを筆頭に、ソ連もゴーリキー劇場の引っ越し公演をおこなうなど、世界各地の有名オーケストラや劇場、バレエ団がこぞってパリの土を踏んだ。音楽に加え劇作品も加わったことで、バラエティーも豊かになった。
 なかでも質量ともに群を抜いていたのはドイツの芸術週間だった。9月3日から13日にかけておこなわれたプログラムは、まず映画、ダンス、ポピュラーも含めたリーダーアーベントが一夜ずつおこなわれたあと、6日からはベルリン国立歌劇場によるオペラ『ばらの騎士』『ヴァルキューレ』『トリスタンとイゾルデ』『ナクソス島のアリアドネ』、そしてルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの『交響曲第9番』の上演がおこなわれた。『ばらの騎士』『ナクソス島』は作曲者であるリヒャルト・シュトラウスがタクトをとり、リヒャルト・ワーグナーの2作はバイロイト音楽祭で制作された新演出が採用された。これはナチ体制下で音楽界に君臨していた指揮者でもあるハインツ・ティーティエンによるもので、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、カール・エルメンドルフといった人気指揮者も参加する、総力を挙げての引っ越し公演だった(16)。自主運営組織だったベルリン・フィルが、ナチの政権掌握後国有化され、プロパガンダの先兵として主要なイベントや演奏旅行に送り出されていたとことは、近年かなり紹介が進んだが、オペラもその例に漏れなかったわけである。
 芸術面についてさらに見ていこう。ドイツ館に掲げられた絵画は、国土や国民の活動を示すために制作されたものだったが、版画・彫刻館ではドイツ絵画が体系的に展示された。ドイツ館に『四元素』を展示したツィーグラーは、版画・彫刻館でおこなわれた造形美術グループ・ドイツ部門の展示カタログにも帝国美術院総裁として巻頭言を寄せている。
 ツィーグラーはドイツ絵画の伝統を古代や中世までさかのぼってことほぐことから始め、「ここ数年、これほど多くの驚くべき創造を可能にしたドイツの文化保護のしばしば誤解されている秘密は、ある民族の創造的本質が花開いていて、そしてそれは、正しく語りかけられればどんな時代にあっても作用し始めるのだ、という認識にある。このような語りかけが成功し、作用し始めているのだ。だから当然のことながら、ドイツでの新しい基本的な生の諸潮流のもとでは、いわゆる芸術のトレンドとか、あれやこれやの知的イズムなどはもはや存在しないし、存在しえない。こうした古くさいものさしで新しいドイツ芸術を測ろうとすれば、過ちを犯すことになるだろう(17)」。そうしてドイツ芸術の開花をもたらした偉大なる庇護者として、アドルフ・ヒトラーの名前を挙げるのである。
 この展覧会には絵画19点、版画45点を中心に、彫刻、硬貨、メダルなどが展示されていた。私見だが、ツィーグラーが「同時代の最良の創作」と呼んだその内容は、カタログに掲載されている作品から推測するかぎり、いずれもドイツの伝統にのっとっているという以上に、デューラーやホルバインの肖像画、ブリューゲルの風刺画、さらには主題こそ穏当なものになっているが表現主義や新即物主義のスタイルまで、発想元が透けて見える亜流の焼き直しばかりである。ヒトラーが芸術に大きな関心を寄せていたのは事実だとしても、3年や4年で新しいスタイルができあがるわけがない。ツィーグラーが非難した「芸術のトレンド」「知的イズム」とは、退廃芸術展に至る流れのなかで息を止められた前衛芸術を指しているが、「創造的本質」という言葉のもと提示されたのは、単なる過去の反復であり、そこには彼らが忌避したスタイルが含まれているようにさえ見える。
 ヒトラーが直接関わったプロジェクトには、その審美意識が比較的はっきりと表れているが、ナチの芸術政策を全体として見ると、一貫性を欠いた場当たり的なところも多く、統一的な基準を見いだすことは難しい(例えばヨーゼフ・ゲッベルスは表現主義を肯定的にとらえていた)。そのことが最もよく表れたのが、ツィーグラーを中心に組織された「ドイツ大芸術展」である。これはパリ万博開催中に落成したミュンヘンの芸術の家(そのマケットがドイツ館最奥部に展示された)で1937年以降開催された展覧会で、ワイマール時代の絵画潮流の克服を目標に、現存のドイツ画家たちから広く公募されたものだった。
 展覧会場の事前視察でヒトラーは、しかしツィーグラーらの審査によって選ばれた作品80点あまりを自らの手でとりはずしたといわれている。そこには急進的な傾向をもった作品が含まれていたからだろう。結果、19世紀の牧歌的風景画や農民の肖像画、また筋骨隆々とした男性像、優美な裸身を献身的に差し出すポーズの裸婦像などが主たるテーマになり、1944年の第8回までの主なトレンドを規定することになる(18)。
 パリ万博のオープニングにヒトラーは代理人を送っているので、版画・彫刻館のセレクションは見ていないはずで、そこには人によって異なるちぐはぐな〈好み〉も表れていたといえそうだ。

ヒトラーとシュペーア

 次にドイツ館の建設プロセスについてみていこう。設計はシュペーアの手になるとはいえ、そこにはヒトラーの意向も強くはたらいていた。これはヒトラーとシュペーアが残した一連の仕事のなかで理解されるべきものだ。
 1934年の段階で招待がありドイツ側も検討はしていたにもかかわらず、ようやく開催前年の10月になってから正式参加が表明されたが、これはヒトラーが当初のドイツ館のプランに満足しなかったためで、結局その役はシュペーアに回ってきた。彼はパリ事前視察旅行の際、極秘となっているソ連館のプランが展示されている部屋に偶然迷い込み、その群像を超える高さの塔のデザインに思い至ったと述べている(19)。もっともシュペーアのコレクションにはフランス語で表記されたソ連館のスケッチが残されているため、シュペーアはフランス人の協力者(外国館の建設にはフランス人建築家の参加が必須条件だった)からソ連館の情報を手に入れたのではないかと、フィスは疑義を投げている(20)。いずれにしてもシュペーアは36年8月に設計を打診されたあと、9月にパリに飛び、10月にヒトラーが正式受諾にゴーサインを出す、というかなり急なスケジュールでことは動いていった。
 この急展開はシュペーアに対するヒトラーの厚い信任を裏付けている。政権掌握当時、総統官邸や芸術の家などの主要なプランを任されていた建築家パウル・トローストが1934年に没すると、ベルリンの官邸改装で評価を得ていたシュペーアが党主任建築家に登用される。もともと芸術家志望だったヒトラーは、シュペーアの建築だけでなくその人柄にも魅了されたようで、その後のナチの大きなプロジェクトで彼は中心的な役割を担っていく。
 シュペーアの名声を高めることになった最初の仕事は、1934年にニュルンベルクでおこなわれた第6回ナチ党大会である。この年の6月にはヒトラーが親衛隊を使って突撃隊幹部たちを虐殺する、いわゆるレーム粛清事件が起こっている。大統領と首相を兼務することでドイツの全権を掌握した直後のこの党大会には国防軍も参加し、国家のオーセンシティーによって血なまぐさく不穏な空気はぬぐわれていった。シュペーアは会場演出に忙しく立ち回り、その様子はレニ・リーフェンシュタール監督の『意思の勝利』(1935年)に記録された。“真正なドキュメンタリー”といううたい文句とは裏腹に、この映画では巧みな編集によってヒトラーのカリスマ化が図られている(21)。統率がとれたナチ党員と、それを熱狂的に迎える市民の姿をとらえた『意思の勝利』は、優れたカメラワークと映像美から国際的にも大きな反響を呼び、ベネチア・ビエンナーレに続きパリ万博でもグランプリを受賞した。
 1934年の党大会の終了後、シュペーアは11平方キロメートルに及ぶニュルンベルク党大会会場の総合プランニングを任されることになる。ドゥツェント湖を中心としたこの一帯は19世紀から都市近郊の憩いの場としてにぎわい、20世紀に入るとバイエルンの摂政王子ルイトポルトの名にちなんだ公園や動物園、工場なども作られた。第1次大戦後には戦没者慰霊堂や巨大なスタジアムが建設されている。33年にはドツェント湖の北西に5万人を収容できるコングレスホールの建設計画も決定していた(設計はルートヴィヒ・ルフによる)。
 シュペーアが描いた会場案は次のようなものだ。慰霊所が置かれた北側の広場ルイトポルトハインは、ヒトラーの政権掌握後から整備が始められ、すでに党大会のメイン会場になっていたが、そこから幅60メートル、長さ2キロの直線の大通りがゲレンデを貫いた。6万枚の花こう岩を敷き詰めたこの通りは、旧市街地の中心に向けて伸びることで、中世と現代のニュルンベルクをシンボリックに結び付けることが意図された。通りの東側、飛行船ツェッペリン号が着陸したことにちなんでつけられたツェッペリン広場には、ギリシャ・ペルガモン祭壇を範にしたトリビューネ(閲覧所)を設置。また通りの東南端には955×610メートルという広大な演習場が設置される。軍神マルスの名前にちなんだこのメルツフェルト(3月広場)は、24本の塔によって囲まれ、25万人を収容できるという巨大なものだった。さらに大通りの南東部には、40万人を収容する世界最大のドイツ・スタジアムが建設されることになっていた(22)。
ニュルンベルクの党大会会場建設計画は、パリ万博のドイツ館ともつながりをもっている。ドイツ館の訪問客が7本の柱廊からなるエントランスを通り、本会場に足を踏み入れたとき、真っ先に目にすることになるのが、この党大会ゲレンデのマケットだった(総統の建築のモデル)。広大な敷地の模型が置かれた区画には、前述のシュヴァルツァー作のモザイク画『歓喜』『労働』が掲げられていた。これらが一体化されることで、観客の脳裏に「ナチ党の指導のもと一致団結した国民の幸せな労働と生活」というイメージが生み出されることになる。
 すでに述べたように、細長い本会場の奥の一段高くなった部分には、トローストが設計し、ちょうどこの時期に竣工した芸術の家のマケットが設置されていた。つまりドイツ館の展示はヒトラーが愛した建築に始まって終わっているのである。
 もう一つ、見逃せないのが夜間ライトアップである。万博で電気を用いた演出が初めておこなわれたのは1889年のパリ万博といわれている。この年に竣工したエッフェル塔をサーチライトで照らし出して以来、光によるショーアップは観客動員のための不可欠なエレメントと化し、1937年の万博では音や水を連動させた総合芸術「光の祭典」へと結実する。フランスの万博組織委員会がとりわけ力を入れたこの祭典のために、木々や地面、エッフェル塔に設置されたスピーカー、さらにはセーヌ川に設けられた噴水からも音が出て、一帯を包括するサウンド・システムが構築された。フランスを代表する18人の作曲家の手になる音楽がこのシステムを通じて流れ、花火やイルミネーション、噴水と連動するという大掛かりなイベントは、平均20万人近い来場者を集めたという(23)。それは夜間であるがゆえに「現代生活における芸術と技術」という万博のテーマを十全に体現しえた、シンボリカルなものだった。
華やかな夜のイベントを楽しむ観客の背後で、各国もまた自国パビリオンに光の演出を施した。ドイツ館はエントランスを内側から照らし出したが、こうすると水平に伸びた後部のメイン展示会場が闇に沈み、垂直に伸びるエントランスの塔部分だけが浮かび上がる。それだけではない。暗闇では塔の柱とその間隙が逆転し、柱の間の空間が光の筋となって浮かび上がる。これもシュペーアが得意とする空間演出だった。
 それはのちに光の聖堂Lichtdomと呼ばれるもので、1936年の党大会の際にツェッペリン広場を152台の軍用の投光器を用いて演出したのが始まりだった(図4)。第1次大戦中に開発されたフラック投光器は、この時期には改良されて12キロから15キロの射程を誇った。ゲーリングは防空が手薄になるとサーチライトの使用に難色を示したが、ヒトラーは逆にそれだけ集めれば敵はひるむだろうと答えた。シュペーアは回想する。「12メートル間隔で飛行場の周囲に並べられた130台の鋭い光線は、6,000ないし8,000メートルの上空に達し、そこに一面の淡い光の海を作った。それぞれの光線が夢幻に高くそびえ立つ外壁の列柱となっている一戸の巨大な空間という感じだった。ときどきこの光の束の中を雲が通り過ぎると、壮大な光景にシュールレアリスム的非現実感を添えた(24)」。

図4 光の聖堂

 ドイツ館のライトアップは、光の聖堂の一種のバリエーションといえる。もっとも夜間の万博会場で最も目立ったのはドイツ館ではなかったし、サーチライトの使用はシュペーアの創出でもなかったようだ。セーヌ川の反対側に立つエッフェル塔は30台から40台のサーチライトによってトリコロールの色に染め上げられ、海を渡ってル・アーヴル港に入港した旅行客もその光を見ることができたという。万博の広報雑誌やドイツ国内を走ったトレイン・エクスポには、開催のかなり前から投光器によってライトアップされたエッフェル塔の様子が掲載されていた(25)。

ゲルマニア計画とその影響

 とはいえ、党大会ゲレンデとパリ万博のドイツ館(この建築はソ連館とともに金賞を受賞した)の相次ぐ成功によって、シュペーアはいまや押しも押されぬ党の顔となった。ヒトラーはいよいよこの建築家に積年の夢であるベルリンの都市改造、ゲルマニア計画を託す。
 1938年に発表されたプランは次のようなものだ。現在のフリードリヒ通りを整備して南北を走る幅156メートルの巨大幹線道路にする一方、市内中心部を占めるティアガルテン公園を突き抜けて走る東西道路(6月17日通り)をウンター・デン・リンデンに向けて東に延ばす。直交する南北・東西の道路を、環状道路であるアウトバーンが囲む。核となる南北道路の北端には15万人を収容する巨大なドーム、その周辺には官庁街が配され、そこから凱旋門を経て南駅へと続き、その先に住宅地が置かれることになっていた(26)。
 ゲルマニア計画はナチの都市改造計画のなかでも最重要かつ最大のものである。ヒトラーは1933年の芸術の家定礎式で、ベルリン、ミュンヘン、ハンブルク、ブレーメン、ライプツィヒ、ケルン、エッセン、ケムニッツの8都市の改造を宣言、さらに40年にはベルリン、ハンブルク、ニュルンベルク、ミュンヘン、リンツの5都市を総統都市に指定して、優先的に改造をおこなおうとした。37年にはベルリンの都市改造のために帝国首都総監督という役職が設けられ、シュペーアが任命される。これは総統直属の役職で、独立して計画を進める極めて強い権限をもっていた。すでにヒトラーは計画の基本骨子を決め部局との折衝をおこなっていたので、個々のエレメントの検討と設計というのが総監督の主な役割だった(27)。
 シュペーアの役は補佐的なものだったとはいえ、それだけでも作業は膨大である。モニュメントの意匠の細部にわたるまで、ヒトラーの満足のいく仕上げにしなければならない。彫刻家アルノ・ブレーカーはオリンピック・スタジアム敷地内の彫刻で銀賞を得て以来、ナチの中心的なアーティストとなるが、回顧録によると、総統官邸の中庭に設置する彫像を皮切りに、南北幹線道路の円形広場の噴水を彩る彫刻など、短期間に“途方もない量”の注文がシュペーアから降ってきたという。ちなみにこの噴水のためにブレーカーが選んだのは、4頭立ての二輪馬車を駆って水面から駆け上がるアポロンで、実在する10種競技のドイツ人選手をモデルにしたものだった。
 ブレーカーは書いている。「私の計画は全て、ヒトラーの承認を得ていた。計画の審美面、形式面であれ、主題の選択であれ、命令的な指示は私には一切なかった。(略)従わなければならなかったただ一つの要請といえば、都市ベルリンの刷新にひたすら一身を捧げてほしいということだった(28)」。総統直轄のプロジェクトに関しては、ヒトラーの趣味はアーティストの選択を通じて反映されていたといえるだろう。ヒトラーのトップダウン方式がよく表れているエピソードである。
 第2次大戦が始まってからもこの計画には莫大な予算が投じられたが、さらに意外なところ――枢軸国として共闘していたイタリア・ファシズムの都市計画エウルにも影響を及ぼしていく。
 一党独裁体制を先に敷いていたファシスト党から、ナチはプロパガンダの手法や国民動員のための体制作りなど多くの手法を取り入れた。ヒトラー・ユーゲントはイタリアの少年団バリラを、歓喜力行団はリクリエーション組織・ドーポラボーロを範に仰いでいたし、文化活動の国家による一元化もイタリアに先例があった。
 1930年代半ば、ナチの体制が整ってくるにつれ、こうした一方的な影響関係が変わってくる。そのメルクマールとなるのが、37年9月、ベニート・ムッソリーニのベルリン訪問である。ムッソリーニはエウルの建設計画にゴーサインを出したばかりだったが、ベルリン訪問の際に都市改造計画を目にし、本質的な変更を考えるようになったという(29)。最終計画案の詳細は本連載の鯖江秀樹の論文に譲るが、万博をきっかけにしたこの新都市エウルもまた、中心となる道路を軸に、古典様式の建物をシンメトリカルに配した中心部を環状道路が取り囲む。こうした基本構想は、ベルリンの計画案とある程度の関連性をもっている。
 エウルの設計に力をもっていたマルチェッロ・ピアチェンティーニはシュペーアと情報を交換していただけでなく、ムッソリーニもヒトラーと個人的なコンタクトをもっていた。ドイツは出展を直前まで渋ったパリ万博とは対照的に、1938年10月にはローマ万博への参加を表明し、ドイツ館の計画案も公開した。それは列柱に囲まれた中庭をもつ、3つの部分からなる左右対称の建物で、万博期間が終了したのちにはイタリアでのドイツの文化・政治活動のセンターとして用いられることになっていた。ジゲルはこの案を、個々のボキャブラリーはナチ建築のものだが、全体としてはバロックの宮殿や式典建築を思わせると述べている(30)。おそらくシュペーアは、ピアチェンティーニからもエウルの全体構想に関して何らかの情報を受けていただろう。ヒトラーはローマ万博でドイツに大きなアドバンテージを与えた返礼として、都市改造後のベルリンにムッソリーニの名前を冠した広場や駅を作ると表明した(31)。

ドイツ館は何を表象したか

 こうした計画が進められる一方、ヒトラーの対外拡張政策はテンポを速めていく。1938年にはチェコスロバキアに対しスデーテン地方の割譲を要求。戦争準備をちらつかせて、9月のミュンヘン協定でイギリス・フランスから融和政策を引き出すことに成功した。このときには一度は踏みとどまった全面戦争も、しかし翌年のポーランド侵攻によって現実のものとなる。戦争が激化するとゲルマニアもエウルも暗礁に乗り上げ、ファシズム政権の崩壊によって計画も頓挫する。
 本章を結ぶにあたって、ドイツ館が提示していた価値とはどのようなものだったのか、もう一度考えてみたい。建築でも芸術でも、ナチ様式と呼べるようなはっきりとしたものがあったかどうかは疑わしい。例えばナチ建築は新古典主義的ではあるが、新古典主義がナチ固有のものだったとはいえない。それはイタリアはおろか、パリやワシントン、ロンドン、果てはモスクワにまで広がったスタイルだった(32)。とはいえ、ドイツ館の展示にはある種の意識が通底していたようにも思われる。それは、進歩や変化を前提とし機能を優先するモダニズムに対し、伝統や永続的な価値、永遠なるものを尊重する意識であり、そうした価値はカリスマ的な指導者のもと、優秀なテクノクラートや先端技術によって実現されるはずだという信念である。
 そのことがよく表れているのが、ヒトラーとシュペーアとの関係である。ヒトラーは確かに都市を自らの審美眼と理念に沿って構築しようとした。ベルリンの外観を、単にパリやロンドンと匹敵するように豪華に塗り替えるのではなく、動線を軸に構想することで、都市をよりダイナミックな活動の場へと変容させようとした。その中心にはヒトラーの命令一下、迅速かつ効率的に動く実行機関、テクノクラートが必要だ。と同時に、大衆を引き付け自らの影響力を行使するには壮麗さや威厳も欠かせない。まして欧州制覇のあかつきには、ベルリンはその中心都市になるのだから。ゲルマニア計画はヒトラーの思考を視覚化したものだといえる。
 シュペーアはそうした意図を着実に実行できる最高のテクノクラートだったが、ときとしてヒトラーが考えている以上のものを加えることもできた。そのことが表れているのがニュルンベルクのツェッペリン広場である。小山明は、党大会の会場、広場でもなければスタジアムでもない場所を、通常の建築の類型に当てはまらないとして、トリビューネについて「オーダー(列柱)をもった、一見古典的な建築に見えるこの建築は、しかしその構成エレメントが異常な統合の中に配列された、未知の形式の建築」で、「144本の列柱は梁以外の荷重を支えているわけでもなく、ただひたすら横に広がりながら空中を走」り、「『柱』の概念だけを漂わせながら、しかし唐突に、くさび形の桟敷と組み合わされる(33)」と述べている。ドイツ館でともに展示されたトローストの芸術の家の列柱が通常の列柱の使用の域を出ていないのに対し、ツェッペリントリビューネでは列柱というファサードの形式が観覧席に用いられることで、見るものと見られるものという関係が両義的な相に置かれるのである。
 夜になると出現した光の聖堂も、そうした発想の延長で理解できるだろう。スタジアムとも広場ともつかないこの場所は、サーチライトが生む「光の柱」によって概念の領域に移行し、聖堂はバーチャルな空間に生み出される。柱はもはや支えるべき梁さえもたない。人々が集う場で、これほどのスペクタクルはあるだろうか。それを目の当たりにしたものは興奮し熱狂し、陶酔する。これがヒトラーの統治を根底で支えた「政治の芸術化」である。
 こうした点からパリ万博のドイツ館を見てみると、面白いことに気づく。正面の塔の柱は機能の点からは奇妙なことこのうえない。この柱もまた支えるべき重量をもたず、65メートルの高さにまで引っ張り上げられている。しかし夜になり内側からライトアップされると、柱とその間隙の意味が逆転し、実在の柱は存在感を失って、合間から光の柱が現れる。党大会の演出を通じてシュペーアの実力を知悉していたヒトラーは、ドイツ館がもつこうした効果についても手応えを感じていたにちがいない。
 計画を確実に遂行する力だけではなく、インスピレーションを加えることで計画に新しい次元を付与していく。シュペーアのこうした力をこそ、ヒトラーは買っていたのではないだろうか。戦争が始まりゲルマニア計画が棚上げになったのちも、シュペーアは事故死したフリッツ・トートの後を受けて軍需大臣に抜擢されている。

 ヒトラーは自らのプロジェクトが数世紀の星霜に耐えることを夢見ていたし、シュペーアも自分の仕事を、ギリシャやローマの遺跡に接したときのような時間的遠方から顧みていたことを告白している。パリは万博を重ねるたびにその跡を組み込むかたちで相貌を変えてきたが、ナチの建築ははたして時間の試練に耐えたのだろうか。党大会会場となったニュルンベルクのゲレンデを歩きながら、そんな疑問が湧いてきた。
 外周を区切る24本の塔のうち半分ほどが完成したところで工事が中断したメルツフェルトは、戦後ニュルンベルク市の人口増に対応するために住宅地となった。1920年代に整備されたスタジアムは何度か建て替えられ、現在はサッカーチームFCニュルンベルクの本拠地となっている。基礎工事だけで中止された世界最大のドイツ・スタジアムの土台の溝には、爆撃によって生じた市内のがれきが集められ、山ができた。山と接した湖は残りの窪地に地下水が湧き出したもので、がれきから有毒物質が流れ込んでいるため遊泳は禁止されている。ツェッペリントリビューネのハーケンクロイツはアメリカ占領軍によって爆破され、60年代には老朽化が進み危険という理由で列柱部分も破壊された。現在は下部の観覧席が残るだけだが、こちらも老朽化が進み、最近も市が予算を入れて整備するかどうかという話題がメディアをにぎわせていた。
 一方、花こう岩を敷き詰めた大通りは壮大なプロジェクトの名残をとどめていた。この通りを北西に歩くと、ルフが設計したコングレスホールが見えてくる。ローマのコロッセウムを模したこのホールも表面が花こう岩で覆われていて、遠目に見るとなかなかに壮観だ。
 未完に終わったホールの一部は現在、ナチの所業を記録する博物館、そしてニュルンベルク交響楽団の本拠地として使われているが、U字型のアレーナの開口部には守衛所なども設置されておらず、内部は文字どおり工事途中で打ち捨てられた建設現場だった。足を踏み入れると、丁寧に磨かれた外観とはまるで正反対の、レンガ積みの安っぽい壁面が見えてきた。それはギリシャやローマの古代建築が見せる廃墟というよりは、うら寂しい場末の街角という形容がぴったりくる風景だった。風雪にさらされたレンガは、少し触れただけで、ぼろぼろ、ぐずぐずと指先から崩れ落ちるのだった。


(1)「万博」1937年5月号、日本万国博覧会協会(津金澤聰廣/山本武利総監修、加藤哲郎監修・解説、増山一成解説・解題『近代日本博覧会資料集成』〔「紀元二千六百年記念日本万国博覧会」Ⅰ〕、国書刊行会、2015年、468ページ)
(2)同誌(同書634ページ)
(3)同誌(同書469ページ)
(4)デイヴィッド・クレイ・ラージ「冬季オリンピック」『ベルリン・オリンピック1936――ナチの競技』高儀進訳、白水社、2008年
(5)Karen Fiss, Grand Illusion, The University of Chicago Press, 2009, p. 1.
(6)Ibid, pp. 48-51.
(7)Ibid, p. 52.
(8)Heinrich Hoffmann (Raumbild-Aufnahmen), E. P. Frank (Text), “Die Weltausstellung Paris 1937”, Diessen am Ammersee, 1937.
(9)Der Reichskommissar für die internationale Ausstellung Paris 1937 (hrsg.): “Deutsche Abteilung”, 1937.
(10)Paul Sigel, Exponiert: Deutsche Pavillons auf Weltausstellungen, Bauwesen, 2000.
(11)関楠生『ヒトラーと退廃芸術――〈退廃芸術展〉と〈大ドイツ芸術展〉』河出書房新社、1992年、81―91ページ
(12)展示パンフレット Der Fernsehschau der deutschen Reichspost auf der internationalen Ausstellung Paris 1937, 1937.
(13)夫馬信一『幻の東京五輪・万博1940』原書房、2016年、152ページ
(14)展示パンフレット Die deutsche Reichsbahn auf der internationalen Ausstellung Paris 1937 (hrsg. v. der deuschen Reichsbahn), 1937.
(15)Fiss, op. cit., pp. 73-74.
(16)井上さつき「1937年パリ万博における音楽」「愛知県立芸術大学紀要」第39号、愛知県立芸術大学、2009年、7―9ページ
(17)Adolf Ziegler, “Bildende Kunst in Deutschland”, im Katalog “Internationale Ausstellung in Paris 1937, Gruppe: Bildende Kunst, Deutsche Abteilung,” 1937.
(18)関楠生「芸術選別の迷走」「大ドイツ芸術展」、前掲『ヒトラーと退廃芸術』、参照
(19)アルベルト・シュペーア『第三帝国の神殿にて――ナチス軍需相の証言』上(中公文庫)、中央公論新社、2001年、149―150ページ
(20)Fiss, op. cit., p. 60.
(21)芝健介「『意思の勝利』の虚構性」『ヒトラーのニュルンベルク――第三帝国の光と闇』(歴史文化ライブラリー)、吉川弘文館、2000年、参照
(22)会場詳細についてはニュルンベルク州文化局が開設しているサイトを参照した。各施設に関する数字はシュペーアの回想録とはかなり異なるものがあるが、ここではサイトに依拠している。“Geländeinformationssystem ehemaliges Reichsparteitagsgelände”(http://www.reichsparteitagsgelaende.de/index.htm)[2016年4月25日アクセス]
(23)前掲「1937年パリ万博における音楽」10―11ページ
(24)前掲『第三帝国の神殿にて』109ページ
(25)Anne Krauter, “Die Schriften Paul Scheerbarts und der Lichtdom von Albert Speer – ‘Das große Licht’,” Dissertation, 1997, S. 162-164. (http://www.ub.uni-heidelberg.de/archiv/4903)
(26)八束はじめ/小山明『未完の帝国――ナチス・ドイツの建築と都市』福武書店、1991年、173―174ページ
(27)同書167―168ページ
(28)アルノ・ブレーカー『パリとヒトラーと私――ナチスの彫刻家の回想』高橋洋一訳、中央公論新社、2011年、43ページ
(29)Nicola Timmermann, “Repräsentative ‘Staatsbaukunst’ im faschistischen Italien und im nationalsozialistischen Deutschland: der Einfluss der Berlin-Planung auf die EUR,” Thesis/dissertation, 2001, S. 4.
(30)Siegel, a. a. O., S. 145.
(31)Timmermann, a. a. O., S. 7.
(32)前掲『第三帝国の神殿にて』150ページ
(33)前掲『未完の帝国』206―208ページ

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