第1章 幻の紀元2600年万博――開催計画の概要とその背景

暮沢剛巳(東京工科大学教員・美術評論家)

鈴木俊一の夢

 2010年5月14日、鈴木俊一が亡くなった。享年99の大往生だった。1959年から67年にかけては東龍太郎東京都知事のもとで2期8年の間副知事を務め、また79年から95年にかけては4期16年にわたって自ら都知事を務めた鈴木は、長く東京に君臨した文字どおり「地方自治の巨星」(石原慎太郎)だったが、その輝かしいキャリアは栄光にばかり彩られているわけではない。とりわけ、都知事時代の末期に自ら開催の音頭をとった世界都市博覧会(以下、都市博と略記)に強く固執し、開催前年に任期を終えた鈴木のあとに都知事に就任した青島幸雄が選挙時の公約どおりに都市博の開催中止を決定した際、「都政にサリンをばらまかれたようだ」と吐き捨てたことは、しばしば晩節を汚すものとして否定的に語られる。都市博は、96年に臨海副都心地区を舞台に開催が予定されていた大型博覧会だが、「失われた10年」とも称されたバブル崩壊後の長期の景気低迷によって計画時のもくろみははずれ、当初参加を発表していた国家や企業の多くが参加を辞退することは確実視されていた。私事で恐縮だが、私も当時ある企業パビリオンの計画に携わっていて「これは失敗するだろうな」という予感がしたものだ。多くの東京都民がその開催を歓迎していなかったことは、各種の世論調査の結果や開催中止を公約した青島が都知事選に圧勝したことからも明らかだった。にもかかわらず、なぜ鈴木は評判が悪かった都市博開催に固執したのだろうか。
 その理由としてしばしば指摘されるのが、大阪万博の成功体験である。いまとなっては知る人も少ないだろうが、実は鈴木は副知事を退任後、大阪万博の事務総長に就任し、開催計画の指揮をとっていた。だが鈴木にとって、この役職は必ずしも本意ではなかったらしい。東京育ちで直前まで副知事を務めていた鈴木は、オリンピックに次ぐ国家事業である万博も東京での開催を強く望んでいたのだが、当時の佐藤栄作内閣は地域バランスを優先して大阪開催を決定したからである。そのときの無念を忘れなかった鈴木は、都知事として絶大な権力を掌中に収めた後年、大型博覧会の首都圏開催に強く執着するようになったというわけだ。だが、鈴木と万博の接点は、さらに以前にさかのぼることができる。
 1933年に東京帝国大学法学部を卒業した鈴木は内務省に入省し、地方事務官や内務事務官を歴任したあと38年に出征し、その後41年まで満州に滞在して現地の地方自治を担っていたが、ちょうどこれは開催が計画されていた紀元2600年万博の「延期」が決定し、その事後処理がおこなわれていた時期に相当する。後述するように、当時の満州では実験的な都市計画が展開されていて、鈴木もそれに関与していた。鈴木が一東京市民として開催を心待ちにしていた紀元2600年万博が、同時に一若手官僚として格好の実験場に映ったことは想像に難くないし、その「延期」は大いに無念だったことだろう。いずれも幻に終わった紀元2600年万博と都市博がともに月島埋立地を主会場に予定していたことは、決して単なる偶然の一致ではない(1)。

3度目の正直 万博構想のスタート

 では、あるいは鈴木が関与していたかもしれない幻の万博の開催計画はどのようなものだったのか。時系列に従ってみていこう(2)。
 紀元2600年万博の開催計画は、1929年6月22日に博覧会倶楽部のメンバーが田中義一首相以下各省大臣に万博開催を求める建議を起こしたことに始まる。25年に結成された博覧会倶楽部は内国勧業博覧会や海外の万博などに携わってきた有識者の集まりで、土木学会の重鎮である古市公威が会長を、内閣書記官長などを歴任した平山成信男爵が理事長を務めていた。「はじめに」ですでに述べたように、明治新政府成立後の日本では、明治中期の亜細亜大博覧会構想と明治末期の日本大博覧会構想がいずれも実現に至らず流産していた。とりわけ後者の挫折は、多くの関係者の間に、日本が欧米列強と肩を並べるためには是が非でも万博開催を成功させなければならないという共通了解を生み出した。この建議書には、万博開催を待望する関係者の強い意向がにじんでいたのである。
 翌1930年5月23日には万国博覧会協議会が結成される。この協議会には、博覧会倶楽部をはじめ、東京府、東京市、東京商工会議所、東京実業組合連合、神奈川県、横浜市、横浜商工会議所、横浜実業組合連合、日本産業協会の各団体が参画して議論を重ね、8月28日には前年の建議書をさらに発展させ、芝浦埋立地と京浜地区の沿岸を会場とし、35年に約7カ月の期間で開催する計画を浜口雄幸首相以下各大臣へと提案している。この計画では「世界大戦終結20周年 関東大震災12周年」というテーマを掲げ、表向きは国際協調と震災からの復興をうたっていたが、実質的には世界恐慌の結果した悪化した景気へのカンフル剤にすることも大きな目的だった。2,500万円と見積もられた開催経費の大部分は、入場料で賄う計画だった(3)。
 翌1931年3月26日には、国会で「日本万国博覧会開催ニ関スル建議」が採択され、4年後の万博開催が正式に決定される。しかし同年9月18日には柳条湖事件を機に満州事変が勃発し、また翌32年5月には5・15事件が発生して犬養毅首相が暗殺されるなど、社会の空気は急速にきなくささを増していった。また海外へと目を向けてみると、33年にはシカゴで万博の開催が予定されていて、それからわずか2年後では参加国も海外からの来場者もともに多くを見込めそうになく、開催計画は早くも暗礁に乗り上げてしまう。だがここで、万博開催を5年後の40年に延期しようという主張が現れ始める。最初に日本産業協会の副総裁だった阪谷芳郎が、次いで第2会場として予定されていた京浜地区を擁する横浜市が提案したこの延期案は、やがて政府内でも大勢を占めるようになる(4)。この案が多くの支持を集めたのは、もちろん延期の5年間を通じて財源の確保や開催準備を進め、また万博ムードの盛り上げが図れるのではというもくろみがあってのことだが、同時にちょうどこの年が皇紀2600年の節目にあたることも大きかった。仕切り直しの結果40年に開催されることになった万博は、必然的に奉祝行事としての色合いを強めることにになったのである。

皇紀と奉祝

 もっとも、「皇紀」や「奉祝」といってもピンとこない読者も少なくないと思われるので、最低限の説明は必要だろう。
『古事記』と『日本書紀』にはいずれも神武天皇の創建神話が描かれているが、皇紀とはこの神武天皇の即位年をもって開始される紀年法のことで、その元年は西暦より660年も古く、日本の古来の伝統や万世一系の正統性を強調するうえではうってつけだった。とはいえ、皇紀が法制化されたのは1872年11月15日と明治維新以後のことにすぎず、それ以前に皇紀の節目に祝賀行事が催された記録は一切存在しない。言うなれば皇紀は「作られた伝統」の典型であり、そのとってつけたような権威を正統化するべく、政府はさまざまな手段を講じる必要に迫られたのである。「奉祝」と呼ばれる、節目の年に挙行される多くの祝賀行事もその一環だった。
 皇紀が法制化されて以来最初の節目らしい節目の年といえば、紀元2550年に相当する1890年である。政府はこの年にいくつかの奉祝行事を計画し、神武天皇を祀る橿原神宮の創建、同じく神武天皇の東征に倣った金鵄勲章の制定、宮中での舞楽の上演などがおこなわれた。だが最大の目玉と位置付けられていた行事は結局実現しなかった。「はじめに」でも挙げた亜細亜大博覧会である。当時まだ不平等条約を改正できずにいた日本に、欧米列強と対等の立場で万博を開催するだけの国力は備わっていなかったのである。後年になって紀元2600年万博が政府内で多くの支持を集めたのは、約半世紀前の挫折の経験と決して無縁ではないだろう。

東京オリンピック――もう一つの奉祝行事

 次なる節目の年は、当然紀元2600年に相当する1940年ということになるが、10年前の30年頃から、この年に奉祝行事を開催しようとするムードが生じ始める。例えば紀元2550年を記念して創建された橿原神宮の拡張整備計画もその一つだが、世界恐慌の影響による財源難に加え、地域(奈良県)の住民の支持が乏しかったこともあり、31年に国会に提出された整備計画の建議書は一応可決されたものの、実現されることなく立ち消えとなる(5)。
 一方、多くの国民の関心を引き付けたのが、同じくこの時期に浮上した東京オリンピックの開催計画である。1896年にアテネで第1回大会がおこなわれて以降、4年おきに開催される近代オリンピックは、当時世界最大のスポーツの国際大会に成長していた。1912年のストックホルム大会に初参加した日本は、28年のアムステルダム大会で2個の金メダルを獲得するなど、その競技実績を着実に向上させていて、それと並行して国民の関心も大いに高まりつつあった。
 東京オリンピック開催のムードも、こうした関心の高まりのなかから生まれてきたもので、早いところでは、日本の陸上競技チームの総監督だった山本忠興が1930年7月のヨーロッパ遠征の際にスウェーデンで国際陸上競技連盟のエストドローム会長と会見し、東京オリンピック開催の可能性について打診した記録が残っている(6)。このオリンピック開催の機運に敏感に反応したのが、当時の東京市長・永田秀次郎である。32年に開催されたロサンゼルスオリンピックの祝賀会の席上で、女子平泳ぎ200メートルで銀メダルを獲得した前畑秀子を「君はなぜ金メダルをとらなかったのだ。悔しくてたまらない」と詰問した逸話が示すように、永田は大のオリンピック好きであり、アジア初のオリンピック招致に成功すれば奉祝行事の大きな目玉になることを確信していた。山本から招致実現の可能性があるとの報告を受けた永田は、同年12月4日に40年大会への立候補の意向を表明し、翌31年10月28日の東京市議会でこの意向が満場一致で可決される。その議事録には「開国2600年にあたりこれを記念する」という一文が盛り込まれていて、オリンピックを奉祝行事の目玉に位置付けたいという意向が招致活動の大きな動機だったことがわかる。
 以下、招致決定までのプロセスをごく簡単にたどってみよう。1940年大会の招致に名乗りを挙げていたのは、ほかにはローマ、バルセロナ、ヘルシンキ、ブダペスト、アレクサンドリア、ブエノスアイレス、リオデジャネイロ、ダブリン、トロントの9都市で、アジア初のオリンピック開催という大義名分を掲げた東京は、当初から最有力候補の1つだった。
 ほかの9都市のなかで、東京の最大のライバルとみられていたのは、ベニート・ムッソリーニ首相がオリンピック開催を熱望していたローマである。ローマがオリンピック招致に乗り出したのは、同盟国ドイツがベルリンオリンピックの招致に成功したことに刺激を受けたのに加え、1942年に万博開催を計画していたこととも連動していたものと推測される。そのため、奉祝行事としての40年開催に固執する東京の関係者は、早い時期からムッソリーニに接触し、「1940年はわれわれに譲ってほしい。かわりに、東京は44年のローマオリンピック開催を支持する」との意向を伝え、これを受諾したローマはいったん立候補辞退を表明する。しかし、辞退を不服とする関係者がいたことに加え、IOC(国際オリンピック委員会)本部があるローザンヌが44年大会に立候補する可能性が浮上し、このままでは勝ち目が薄いとみたローマは辞退を撤回、結局35年のIOC総会では開催都市が決まらず、東京、ローマにヘルシンキを加えた3都市であらためて開催権を争うことになった。
 その後も事態は二転三転する。翌1936年、第2次エチオピア戦争が開戦したことを受けてローマが再度立候補を辞退し、東京開催を支持することを表明する。その後ロンドンが急遽立候補の意向を表明するも撤回し、36年のベルリンオリンピック開幕直前に開催されたIOC総会で、東京はヘルシンキを36対27で破り次期大会の開催権獲得に成功し、以後オリンピックは奉祝行事の目玉として位置付けられることになったのである。
 以上のように、ほぼ同時期に奈良と東京で浮上した奉祝行事の計画ははっきりと明暗を分けることになった。初代天皇とされる神武天皇を祀った橿原神宮は、天皇主権の近代国家である日本にとって国民統合の象徴であるはずの存在だが、その神社の拡張計画に対する政府や地域の冷淡な反応は、スポーツの国際大会であるオリンピックに対する熱狂とは何とも対照的だ。これは、国民統合という一見内発的な問題が、実は海外からの視線に多くを依拠していることの証左なのかもしれない。そしてこのことはもちろん、海外からの多くの参加国や来場者を見込んだ万博の開催計画にも大きく影響することになる。

紀元2600年万博開催に向けて

 ここであらためて万博へと戻ろう。当初は5年間の延期の提案でしかなかった1940年の万博開催が初めて具体的に検討されたのは、32年7月29日に開催された協議会の席上においてである。この時期に1年半ぶりに協議会が開催されたのは、満州事変が一段落したことに加え、最初に延期を提案した阪谷の強い意向によるものだった(7)。この協議会では、紀元2600年奉祝を趣旨として、40年3月から10月までの8カ月間、月島、新越中島埋立地を主会場として開催する案が検討されている。新越中島埋立地が会場として手狭だったこと、開催経費としては、計上されていた2,500万円の倍額はかかるのではないかと見積もられたことなど、阪谷主導のこの案には多くの不備が指摘された。そのため、開催計画のマトリックスとも呼ぶべきこの案は、その後多くの修正を余儀なくされていく。また40年の開催理由として、当時すでに招致活動が始まっていた東京オリンピックが挙げられていたことにも注目しておきたい。以後紀元2600年万博の開催計画は、オリンピックと足並みをそろえるかたちで奉祝行事としての色彩を強めていく。
 次の転機は1934年、日本万国博覧会協会が結成されたことだろう。これは、先述の協議会に関連の官公庁が加わって発足した任意団体であり、初代会長には永田秀次郎の次代の東京市長である牛塚虎太郎が就任した。市長在任中の牛塚は、山口貯水池(狭山湖)や小河内貯水池(奥多摩湖)の造成や千歳村と砧村の世田谷区合併を実現するなど、都市計画や都市開発の分野で実績を上げたが、博覧会協会会長を兼務した彼はこれを新たな都市開発の好機ととらえ、月島埋立地へと万博を誘致し、会期終了後にはその跡地に東京市庁舎を建設する計画を構想した(8)。その構想案が初めて公表され、JOAK(現在のNHK)を通じて全国に放送されたのは翌35年2月11日のことである。博覧会協会の発表した構想案によると、月島第5号埋立地(現在の豊洲)、第6号埋立地(現在の東雲)、第10号埋立地(現在の有明)、第11号埋立地(東雲)からなるメイン会場の面積は約330万平方メートル(約100万坪)に達し、数年前に阪谷が提案した原案のほぼ2倍の大規模なものだった。「紀元2600年記念日本万国大博覧会」という正式名称が決定されたのもこのときだ。
 翌1936年2月13日には、岡田啓介首相の諮問機関として設立された皇紀2600年祝典準備委員会が万博を正式な記念事業として認定、以後万博は国家主導のプロジェクトとしての色彩を強めていく。37年5月25日には王子製紙社長の藤原銀次郎が社団法人化された博覧会協会会長に、商工省商務局長の副島千八が事務総長に就任し、続いて秩父宮雍人親王が万博総裁に就任する。親王の主な役割は広報宣伝であり、アジア初の万博を海外に積極的に発信していくことが期待されていた。他方、準備が進むにつれて当初計画されていた約百万坪の敷地は広大すぎるということになり、月島第4号埋立地(現在の晴海)と第5号埋立地を中心に、第6号埋立地の一部と防波堤、第3台場公園を含む約150万平方メートル(約45万坪)の会場計画が固まった。第2会場しては、横浜の山下公園を中心とする約10万平方メートル(約3万坪)の敷地が確保された。また規模の縮小に応じて、博覧会の正式名称も「大」をはずした「紀元2600年日本万国博覧会」に変更された。
 開催準備は、その後も粛々と進められた。1936年7月1日には、「内閣紀元2600年祝典事務局」と「紀元2600年祝典評議委員会」が設立され、同年8月25日には、万博協会を発行元とした、財源確保のための割増金付き前売り券の発売が承認された。同じく8月27日には商工省商務局内に「博覧会監理課」が設置され、11月7日には商工大臣を会長とする「紀元2600年記念日本万国博覧会監理委員会」が設置されるなど、万博の管理体制も整えられていく。また同年11月9日に開催された祝典評議委員会の第2回総会では、奉祝行事として40年に日本万博が開催されることが全会一致で承認された。ちなみに、このときに用いられた標語の一つが、近衛文麿内閣が国民精神総動員のスローガンの一つとして掲げた「八紘一宇」である。評議委員長だった阪谷芳郎から広田弘毅首相に提出された報告書の題目は以下のとおり。

 紀元2600年奉祝記念行事ニ関スル件
 紀元2600年奉祝記念行事ハ大体左記方針ニ依リ之ヲ実施スルヲ適当ト認ム
 第1 左ニ掲グル事業ヲ奉祝記念事業トシテ施行スルコト
 1、 橿原神宮境域並畝傍山東北陵参道ノ拡張整備
 2、 神武天皇聖蹟ノ調査保存顕彰
 3、 御陵参拝道路ノ改良
 4、 日本万国博覧会ノ開催
 5、 国史館ノ建設
 6、 日本文化大観ノ編纂出版

 この題目を見ていて、いくつか気になる点がある。1つは、最大の目玉だったはずの東京オリンピックが含まれていないこと。これはおそらく、初期のオリンピック(1900年パリ大会と04年セントルイス大会)が万博の余興扱いされた経緯から、IOCが万博との同時開催をひどく嫌っていたことへの配慮だろう。とはいえ、いくら体裁を取り繕ったところで、オリンピックが奉祝行事の目玉であることは周知の事実だった。次に、いったんは棚上げされたはずの橿原神宮の拡張計画が復活していること。この事業がさして地域住民の関心を引かなかったことはすでに述べたが、やはり国民統合の象徴としての重要性が考慮されたのだろう。また「国史館」とは、東京帝国大学名誉教授の国史学者・黒板勝美が構想していた国史の総合博物館で、「日本文化大観」は、官僚OBや華族、財界人の有志から成る組織日本文化中央連盟が国民教化策の一環として提唱した大規模な出版事業であり、これらの事業が採用された背景には、「作られた伝統」としての紀元2600年をさまざまな角度から正統化しようとする意図がうかがわれる。37年4月23日の第3回総会では「紀元2600年奉祝会ノ監督オヨビ援助ニ関スル件」を議決、この総会を母胎として奉祝会が設立され、秩父宮が総裁に、広田首相が副総裁に、徳川家達元貴族院議長が会長に、阪谷と郷誠之助日本経済連盟会長が副会長に就任、以後万博は紀元2600年奉祝事業の目玉として位置付けられ、準備が進められていく。

事業計画の概要

 紀元2600年万博は1936年11月の祝典評議委員会で正式に奉祝行事として開催が決定し、翌12月には3,500万円の開催経費のうち1,200万円を国庫補助金から支出することが示されたほか、東京市と横浜市が損失を負担する方針が確認されたが、以前に開催経費には5,000万円は必要なのではないかとの試算が示されるなど、依然として資金面の不安は拭えない状態だった。
 膠着していた事業が進展し始めたのは、それまで商工大臣が兼務することが慣例だった博覧会協会会長の座に財界人の藤原が就任してからだった。藤原の会長就任後初めて開催された帝国議会では、彼の尽力もあって、「紀元2600年万国博覧会抽籤券付回数入場券発行に関する法律」が可決され、発行総額3,650万円に達する前売り券の売り上げを開催資金にあてられる見込みが立ったのである。
 では総額3,500万円とも5,000万円とも見積もられた万博の事業計画はどのようなものだったのか。その会場計画は開催決定までに何度か変更されるのだが、ここでは資料をもとに最終決定された開催計画をごく簡単にみてみよう。
 紀元2600年博の会場計画案が最終的に決定されたのは1937年10月のことだ。その計画案によると、「紀元2600年記念日本万国博覧会」は、東京会場約150万平方メートル(約45万坪)、横浜会場約10万平方メートル(3万坪)となっている。厳しい財源や正式名称から「大」がはずれたことを反映してか、最大時の約100万坪からはほぼ半減している。また、開催期間は40年3月15日から8月31日の170日間、入場者数は約4,500万人を見込んでいた。過去に開催された万博と比べてみると、開催期間がごく標準的であるのに対して入場者数は多めに予測されているが、これは「アジア初」の大義名分に加え、オリンピックとの相乗効果を見込んだものだろう。
 開催趣旨としては、「悠遠の過去を有する我国の絢爛たる文化活動の成果を政治、教育、学芸、交通、財政、経済等各般の分野に亘り、之を最も進歩した形態に於て展示し、以て光輝ある紀元2600年を奉祝記念せんとする」ことが、また目的としては、「内外産業文化の精華を収集展示し以て東西文化の融合・・・・・・・に資し、世界産業の発展及国際平和の増進に貢献すること(9)」(傍点は引用者)がうたわれていた。この目的にある「東西文化の融合」が万博のテーマとして定められたのは、万博の開催計画と「八紘一宇」や「五族協和」など当時の内閣が掲げていたスローガンとのバランスを図ったものと推測される。

 会場図面によると、東京会場は月島第4号埋立地、第5号埋立地、第6号埋立地の一部と防波堤、第3台場公園が、また横浜会場は中区山下町と山下公園の一角があてられている。東京会場は当初の予定より西側に移動しているが、これは4号埋立地を日本館エリア、5号埋立地を外国館中心のエリアと分け、「東西文化の融合」を強調する意図があってのことだろう。同様に、横浜会場にも、臨海会場の特徴を生かすべく、陳列館(海洋館、水産館、水族館)を設けることが計画されていた。
 建築面積(建坪)でいうと、東京会場は陳列館(28館)、外国特設館、私設陳列館、スタジアムなど総計約20万平方メートル(約6万坪)、横浜会場は約1万平方メートル(約3,200坪)が予定されていた。
 万博は国内外からの多くの来場者が見込まれるイベントである。会場内ではそうした人々に向けた多くの催し物が開かれるため、会場計画にはそのことを盛り込む必要もあった。「世界大サーカス」や、約5,000坪(約1万6,500平方メートル)の大規模な施設で世界一周旅行を疑似体験できる「万国大観」などがその筆頭だ。ほかにも、各種の音楽を演奏する「野外音楽堂」、子ども向けの「子供の国」、全国各地の園芸を催す「演芸館」や「野外演芸館」、映画の上映施設である「映画館」などの開設が計画されていた(10)。
 1936年3月、日本万博協会は万博事業に関わる職制を制定した(11)。これによって、以後の万博関連の事務はすべて「紀元2600年記念日本万国博覧会事務局」の管轄に置かれることになり、事務局職制、事務分掌規程、服務規程、文書取扱規定、出張旅費規程、会計規定などはすべて事務局の差配によって決定された。万博の組織は総裁を筆頭に以下副総裁、会長、副会長、事務総長、事務次長の縦割りになっていて、事務次長の下に総務部、財務部、出品部、事業部、宣伝部、工営部が設けられていた。その組織図の外には会長と同位の名誉会長が置かれ、また会長の諮問機関である専門委員会には会場計画員会、交通委員会、出品部類目録委員会、出品調査委員会、宣伝委員会などが設けられ、準備の中心的役割を担っていた。

万博の会場計画、交通計画、出品計画――広報・宣伝態勢

 会場計画委員会が設置されたのは1937年1月のことだ。万博会場内の主要な建築物、道路、橋梁、庭園の配置計画や様式の決定が主な仕事だった。会場内に建設される各種施設の配置改革や様式の決定には、塚本靖、伊東忠太、佐野利器、武田五一、内田祥三、佐藤功一、大熊喜邦らの建築家が委員として深く関わり、その方向性が決定されていった。第4号埋立地には荘厳な日本風の建築を、対照的に第5号埋立地には欧風の建築を作ることにしたのも、「東西文化の融合」というテーマをふまえた会場計画委員会の決定である。また第4号埋立地の正面には、建国記念館(のちに肇国記念館と名称変更)を配置することが決定され、競技設計がおこなわれた。この点に関して、詳しくは第2章を参照されたい。
 少し遅れて1937年7月に設置された交通委員会では、東京会場の交通計画が進められた。この会場計画の目玉は、何といっても勝鬨橋だろう。第4号埋立地と銀座・築地方面を結ぶ勝鬨橋は、当時東洋一の開閉橋と呼ばれ、また紀元2600年万博関連で構想されていた会場施設のうち、現存する唯一の建造物である。ほとんど前例がなかった開閉式の橋を架けるためには、周囲の交通状況を的確に把握する必要があったため、大規模な調査が実施され、その結果33の既存の橋梁のチェックやバスのダイヤの大幅改正などがおこなわれた。約4,500万人という推定入場者数も交通委員会の見積もりによるもので、1日平均26万6,000人、混雑日はその倍の53万200人、混雑時の1時間入場者が約8万人というのがそのより詳細な内訳だった。
 出品部類目録委員会では、陳列館に出品されるさまざまな展示品の選択基準の審議がおこなわれ、特に「東西文化の融合」というテーマに沿った出品部類目録を編纂することが目指された。1937年12月に商工大臣の認可を受けた『出品部類目録』はその成果である。この目録には陳列館の類別に即した陳列体系が示されていて、「2600年の歴史と伝統に培われた日本」と「躍進する産業立国」を明示した構成になっている。ここには、欧米諸国の視線を念頭に、すでに海外でも定着した伝統的な日本観を踏襲する一方で、産業立国としての新たな日本像を打ち出したいという二重の欲望が露呈している。
 陳列体系が明文化されたあとは、その体系に即した展示品を選ぶ作業が控えている。そのため、1938年1月には「出品調査委員会」が設置され、出品が申し込まれる全国各地の多くの産品を審議し、前述の2つの体系に即して展示品を選定する作業にあたった。この基準による出品物は「直営出品物」「館長出品物」「指定出品物」の3種に大別され、委員会の審査に合格した産品だけが展示されることになった。
 万博の趣旨や開催の周知徹底を図るには、精力的な広報・宣伝活動が欠かせない。1935年2月11日、牛塚虎太郎万博協会会長がJOAKの全国放送で紀元2600年万博を告知したが、おそらくこれが最初の宣伝・広報にあたるものと思われる。JOAKにはその後も藤原万博協会会長や吉原眞棹万博協会宣伝部長が出演し、広報媒体として活用された。
 万博関連の印刷物は、1938年3月10日に全国いっせいに発売された抽選券付き回数入場券を機に急増した。先述のとおり、この入場券は財源の確保が主目的だったが、これはパリ万博(1889年、1900年)やシカゴ万博(33年)の成功に倣った手法だった。また広報誌「万博」をはじめ、ポスター、パンフレット、絵はがきなどが多数頒布されたが、これらの印刷媒体で最も著名なのが、万博公式ポスターの懸賞で当選した2等1席の図案と3等1席の図案だろう。この両者には、ともに金鵄が用いられているという共通点があり、なかでも3等1席の図案には富士山も描かれていて、「日本」の表象という明快な意図をもっていた。
 1937年4月に英文パンフレットが発行されたのを機に、海外向けの宣伝・広報活動も活発化していくことになった。欧米を主なターゲットにしていたこともあり、英語のほかフランス語やイタリア語のパンフレットも制作された。
 1937年8月3日、藤原万博協会会長は外務省を通じてフランスの博覧会国際事務局(BIE)に「第二種一般博覧会」の開催承認書類を提出して正式な承認を受け、38年3月には在外公館を通じて各国に招待状を発送した。開催を2年後に控え広報活動にもますます力が入ろうとしていた。ところが、その後事態は急転直下し、38年7月15日の閣議決定で開催延期が決定され、紀元2600年万博の開催の可能性はこの時点で事実上消滅する。2度あることは3度あるというように、日本の万博開催はまたしても幻に終わってしまったわけだが、その最大の原因は、前の年に始まった日中戦争だった。

漂う暗雲――日中戦争開戦

 1937年7月7日に勃発した盧溝橋事件を機に、日中両国は交戦状態に突入する。7月11日は日中の現地軍同士で停戦協定が結ばれるなど、当初この紛争はすぐに終結する兆候が見られたのだが、7月15日に毛沢東が蒋介石に国共合作による徹底抗戦を呼びかける一方、日本軍も7月28日には華北地域で本格的な軍事行動を開始するなど、戦局は一転して長期化の様相を呈する。
 当初は、この紛争が奉祝行事に何らかの影響を及ぼすものとはほとんど考えられていなかった。政府関係者をはじめ、多くの日本人がこの紛争が半年か、遅くとも1年以内には日本の勝利によって安定するものと思っていたからだ。その証拠に、7月24日に召集された特別議会では日中戦争関連の案件は全く議題に上らず、前述の万博抽選券付き回数入場券の発売が承認されるなど、万博の準備が粛々と進められることになった。しかし、紛争が本格化した9月3日の第72臨時議会では、臨時軍事特別会計、輸出入品等臨時措置法、臨時資金調達法、軍需工業動員法の適用に関する法律などが続々と承認され、9月9日には内閣訓令によって国家総動員体制への準備が始まるなど、時局は一気に戦時色を強めていく。当初の予想に反して戦争は長期化を避けられない見通しとなり、その影響がにわかに奉祝行事の計画にも及び始める。
 最初に日中戦争の影響が表れたのが、オリンピック返上問題である。1940年大会の招致成功後、東京市オリンピック委員会、体育協会、組織委員会などが準備を進めていたが、8月25日に陸軍省が馬術競技への陸軍現役将校の出場とりやめを発表した。日中戦争が長期化するなかで、貴重な戦力をオリンピックには割けないという判断だった。また9月7日には、政府がオリンピックの開催権を返上する意向だとする政府高官の発言が報道され、オリンピックの返上問題が一挙に表面化した。その後、日中戦争の長期化に伴って物資の不足が深刻化すると、軍部からはオリンピックの返上を公然と求める意見が相次ぎ、また海外でも、開催権を争ったフィンランドや中国大陸に利権をもち、日中戦争に反対していたイギリス、オーストラリア、アメリカなどからオリンピックの東京開催に反対する意見が続出した。国内の物資不足と海外の開催反対の意見に挟み撃ちにされ、オリンピック返上問題は抜き差しならない状況になってしまう。
 一方の万博は、1937年9月には会場予定地である月島埋立地の地質調査が実施されていたので、少なくともこの時点では開催を前提に準備が進められていたようだ。しかし9月23日には、政府の意向によって前述の法案で承認され、印刷も進められていた前売り券の発売が延期され、また肇国記念館の工事着工も先延ばしになり、にわかに開催が危ぶまれ始めた。
 その後の数カ月、これといった動きは見られない。ただ万博協会が発行していた機関誌「万博」の表紙裏には、明治期の内国勧業博覧会が西南戦争や日清戦争の合間にも開催されていたことやドイツが東京の万博開催を支持していることを紹介する無署名の記事が掲載されていて、開催に向けた関係者の強い意志がうかがわれる(12)。
 1937年12月12日に国民党政府の首都・南京が陥落し、翌38年1月16日には、近衛文麿首相が講和条件として蒋介石の下野を求める。これに伴い、停滞していた万博の準備も再開されることになった。
 まず1月10日、前年に延期されていた入場券の発売が3月に実施されることが決定した。これ以上発売を延期すると工事が間に合わないという判断のもと、商工大臣が万博協会の要請を認可した。入場券は全国のプレイガイドや金融機関などで12枚つづり1組10円で販売され、好評のうちに完売した。当時の10円は現在の物価水準に換算すると数万円に相当するが、高額な入場券が売れ行き好調だったのは、軍需によって景気が好調だったことも一因である。

万博の「延期」とオリンピックの「返上」

 ともあれ、入場券の売上によって資金調達のめどが立ったこともあり、1938年4月には各地に招請施設が派遣され、また5月16日には月島埋立地で地鎮祭が開かれ、会場建設工事が正式に着工した。
 他方、東京市は1938年2月中旬に、3年間の継続事業としてオリンピックと万博の関連施設の土木費として1,090万円を割り当てている。36年の東京市の土木支出が約2,600万円だったのから、この2つの事業だけで総予算の8割を占めるなど、その巨額さがうかがわれる。
 しかし、いったん沈静したかと思ったオリンピック返上問題は、杉山元陸軍大臣が、日中戦争が終結しないかぎりオリンピックは開催できないという趣旨の発言をしたことで再燃する。加えて、明治神宮と内務省神社局が、主会場として予定されていた明治神宮外苑競技場をIOCの要望どおり収容人員10万人規模に改修することは不可能と難色を示したため、会場計画も見直しを余儀なくされた。結局、選手村の建設予定地だった駒沢ゴルフ場に新たに競技場を建設することが決定されたが、それに伴って当然、新たに多額の施設費が発生した。
 加えて、肝心の日中戦争は、イギリスの支援を受けながら首都を重慶に移した蒋介石の徹底抗戦によって停戦のめどが立たない状態だった。戦争遂行と軍備拡充のために物動計画の縮小を余儀なくされる一方、国際的な孤立も深まった日本は徐々に追い詰められていく。
 オリンピックに関しては、物資の不足が深刻化した結果鉄鋼の配給が統制され、10万人規模のスタジアムの建設が不可能になった時点で、事実上開催不可能となった。万博に関しても、現実的な選択肢は大幅に規模を縮小してでも開催を強行するか、もしくは中止するかの2つに1つに限られていた。
 結局、1938年7月15日の閣議で、オリンピックの「返上」と万博の日中戦争終了までの「延期」が正式に決定された。注意しなくてはならないのが、いずれも「中止」ではないことだ。万博の場合、後述の諸事情もあって「中止」とはできなかったのだが、日中戦争の終わりやその後の国際関係の修復が見通せない状況での「延期」は、事実上の中止に等しかった。またオリンピックは、最後まで大会招致を争ったヘルシンキで代替開催されることになったが、39年9月にヨーロッパで第2次世界大戦が始まったため、大会そのそのものが中止になってしまった。周知のように、その後東京が晴れてオリンピックの開催にこぎ着けたのは、第2次世界大戦からしばらくたった64年のことだ。
「延期」の理由として、池田成彬蔵相兼商工務相は「今や挙国一致、物心両面ともに総動員して長期戦の体制を取り聖戦の目的の達成に邁進しつつある重大時局に再開したるおり、予定のごとく昭和15年に本博覧会を開催するも、初期の成果を上げがたい(13)」ことを挙げている。この「返上」と「延期」のほうはすぐに外国にも伝えられ、同盟関係にあったドイツとイタリアはともに「遺憾の意」を表明したが、大多数の国は歓迎の意向を表した。当時の日本の国際的な孤立を如実に物語るものといえるだろう。
 こうして、万博とオリンピックは事実上の中止が決定し、組織委員会などの関連組織は大幅に縮小され、万博監理局も1939年6月に商工省の組織が改組された時点で廃止された。件の40年には、11月10日に宮城外苑(現在の皇居外苑)で内閣主催の紀元2600年式典が催されたのを筆頭に各地で多くの奉祝行事が開催されたほか、橿原神宮をはじめとする皇室関連史跡に多くの観光客が殺到し、朝鮮や満州の観光も盛り上がりを見せたが(14)、万博とオリンピックという最大の目玉が失われた喪失感はいかんともしがたかっただろう。

「延期」後の万博

 万博の開催計画は、明治新政府の樹立以後欧米列強と肩を並べることを悲願としてきた日本の近代化のプロセスを通じて浮上してきたものだが、2度の流産のあと3度目の万博として計画された紀元2600年万博には、奉祝行事と関東大震災からの復興という側面も加わることになった。最終的には1937年に開戦した日中戦争が原因でオリンピックともども事実上の中止に追い込まれた紀元2600年万博だが、当時の資料を当たると、経済的にも対外的にも追い詰められたあとも、38年の上期まではまだ開催の可能性が模索されていたことがわかる。長年の悲願をそう簡単に諦められなかったことに加え、すでに入場券が売り出されていたことや、皇族を名誉総裁に奉戴していたことなどが中止の決断にブレーキをかけたのだろう。閣議決定では「中止」ではなく「延期」と位置付けられたのも、そうした妥協の産物だ。実際、「延期」が決定したあとも万博開催の可能性を模索する動きがなかったわけではないのだ(15)。
 もっとも、「延期」によってすべての事業がすぐさま中止になったわけではなかった。会報「万博」は1941年2月の第56号まで、その後続誌である「博展」は44年3月の第34号まで刊行が継続されたほか、抽選券付き回数入場券の抽選、万博事務局新庁舎の陸軍病院への転用、1939年に開催されたサンフランシスコ万博とニューヨーク万博への参加などの事業はそのまま継続されることになった。また「はじめに」でふれたように、発売ずみの入場券は戦後になって開催された大阪万博や愛知万博でも使用することが認められたのである。椹木野衣は『戦争と万博』で、70年の大阪万博が文字どおり「延期」された紀元2600年万博の「復興」だった(16)との見解を示しているが、一連の経緯を振り返ると、その指摘はいたって適切なものと思われてくる。
 2014年11月上旬のある日、中央区の郷土天文館で紀元2600年万博関連の常設展示を見た私は、晴海通りを抜けて月島方面へと向かった。紀元2600年万博の開催予定地だったこの一帯も、現在ではもはや開かなくなって久しい勝鬨橋がわずかに当時の面影を忍ばせるにすぎない。だがその日の私の目には、小雨交じりの天候にも影響されたのか、いかにも現代的なウォーターフロントの光景がかつての未来都市の光景とダブって見えたような気がした。都知事時代、臨海副都心の再開発に熱心に取り組んでいた鈴木俊一の目にも同様の光景が映っていたはずだと邪推するのは、はたして私だけだろうか。


(1)東京湾岸のバスツアーについて取り上げた「日本経済新聞」2014年3月8日付の記事には「1996年には台場で世界都市博覧会(都市博)の開催が予定されていた。当時の鈴木俊一知事は幻となった1940年万博の再現を目指した、とも伝わっている」との一文がある。
(2)以下、紀元2600年記念万国博覧会の開催計画については、「紀元2600年記念日本万国大博覧会」「紀元2600年記念日本万国博覧会概要」「紀元2600年記念博覧会ニ関スル方針要綱」「出品ニ関スル方針要綱」「紀元2600年記念博覧会概要」「紀元2600年記念博覧会 International exposition of Japan」(いずれも津金澤聰廣/山本武利総監修、加藤哲郎監修・解説、増山一成解説・解題『近代日本博覧会資料集成』〔別巻〔「紀元二千六百年日本万国博覧会」Ⅱ〕、国書刊行会、2016年〕に所収)に依拠する。
(3)増山一成「昭和戦前期に計画された「紀元2600年記念日本万国博覧会」」、同書所収、26ページ
(4)「東京朝日新聞」1931年2月27日付夕刊には、「待たれた万国博 昭和十年は見合わせ 十五年に延期さる」という記事が掲載されている。
(5)古川隆久『皇紀・万博・オリンピック――皇室ブランドと経済発展』(中公新書)、中央公論社、1998年、68―69ページ
(6)橋本一夫『幻の東京オリンピック――1940年大会招致から返上まで』(講談社学術文庫)、講談社、2014年、20ページ。以後、オリンピック招致と返上の経緯については同書に依拠する。
(7)前掲『皇紀・万博・オリンピック』78ページ
(8)機関誌「万博」の第1号の巻頭で、牛塚は博覧会協会会長の肩書で「即ち此の年に於て、我国には未だ嘗てない万国博覧会を開催し、遠く建国の昔を回顧して皇祖の御偉業を賛仰し、国民精神を作興すると共に、洽く海外を招請して現代産業文化の精髄を展列し、愈々進んで産業経済の発展充実を促進せんとすることは実に絶好の記念事業であると信じます」と万博開催の意気込みを語っている(「万博」第1号、日本万国博覧会協会、2ページ〔津金澤聰廣/山本武利総監修、加藤哲郎監修・解説、増山一成解説・解題『近代日本博覧会資料集成』第1巻〔「紀元二千六百年日本万国博覧会」Ⅱ〕、国書刊行会、2016年、4ページ〕)。
(9)『紀元2600年記念日本万国博覧会概要』紀元2600年記念日本万国博覧会事務局、1938年、1―4ページ(前掲『近代日本博覧会資料集成』別巻、65―66ページ)
(10)前掲「昭和戦前期に計画された「紀元2600年記念日本万国博覧会」」49ページ
(11)前掲『紀元2600年記念日本万国博覧会概要』7ページ(前掲『近代日本博覧会資料集成』別巻、69ページ)
(12)「世界一万国博覧会の開設を待つ」「万博」第27号、日本万国博覧会協会、2ページ(津金澤聰廣/山本武利総監修、加藤哲郎監修・解説、増山一成解説・解題『近代日本博覧会資料集成』第2巻〔「紀元二千六百年日本万国博覧会」Ⅱ〕、国書刊行会、2016年、278ページ)
(13)「東京朝日新聞」1938年7月16日付
(14)紀元2600年関連の観光ブームについては、ケネス・ルオフ『紀元2600年――消費と観光のナショナリズム』(木村剛久訳〔朝日選書〕、朝日新聞出版、2010年)を参照のこと。
(15)串間努の『まぼろし万国博覧会』(小学館、1998年)では、紀元2600年万博の代替企画として、1942年に「大東亜共栄博覧会」の構想があったことが指摘されている。
(16)椹木野衣『戦争と万博』美術出版社、2005年、148ページ

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