第2回 タイム・トラヴェルは決定論を招き寄せる――氷河の世界の憂鬱

浅見克彦(和光大学教授。専攻は社会理論、社会思想史。著書に『時間SFの文法』〔青弓社〕など)

過去の「改変」というのはありうるのか

 今回は、決定論的な世界像について紐解いてみようと思います。もちろん、わたくしの本(『時間SFの文法』)のなかでも、十分説明はほどこしたつもりですが、本ではやっぱりお行儀や慣習を気にしてしまいます(人となりはさほど上品ではないのですが)。けれどもそうすると、ちょっと遠回しな部分も出てきてしまう。そこでこの連載では、かなりおふざけも交えながら、ストレートに痒いところを掻くような説明をしてみよう、というわけです。
 さて本題。いちばん肝心なのは、決定論的な世界像が、時間SFというサブ・ジャンルと切っても切れないものだという点です。言い換えると、タイム・トラヴェルを想定するときには、時間世界がつねにすでに確定された(!)出来事の連なりになっちゃうということ。これ、そんなに難しくない理屈なんですけれど、意外に理解されていなかったりする。で、決定論的なテーマが脇にやられちゃうことにもなる。もうわたくしの魂胆は透けて見えたかもしれませんが、まあぶっちゃけで説明するという趣旨なので、お許しください。
 まずは、過去の改変というのが、論理的にはアリエナイという点から入りましょう。決定論的な世界像では、改変や消去はまったく排除されるわけですから。もちろん、想像的な物語がこのアリエナイ話を展開することには、意味も魅力もあると思いますが、論理のうえではこの手の物語は過去の確定性という現実に反するという話です。
 事情をわかりやすくするために、思いっきり卑近な話をいたしましょう。わたくし、高校1年のときに右足首の靭帯をブツンと切ってしまいました。部活の座興でバレーボ―ルをやり、ブロックしたあとの着地で運悪く先輩の足の上にわたくしの足がのって……。足首がブツンと音を立ててぐにゃりとなったわけです。おかげで、足を上げて寝る日々を過ごすことになりました。かくてわたくし、始まったばかりの物理や数学についていけなくなり、理系の選択肢を失うはめに陥ったのであります(多少サボリをごまかしてます)。
 ちょっと私事に入れ込みすぎました。過去の改変に話を戻しましょう。わたくしがタイム・マシンを使えるとしたら、何よりもこの過去をなかったことにしたいと思うのです。あの日の放課後、部活に行かずに悪友たちと喫茶店で一服していたら……。これ、過去を改変する話ですね。そうなれば、タバコと麻雀の日々にのめり込んでいき、みごと留年? やっぱダメだ。まあ、それはともかく、こういう過去の改変には決定的な矛盾があります。つまり、同じ時の経緯として、靭帯を断裂した経緯とそれを回避した経緯が、両方成り立つというのは理屈上ありえないということです。
 これ、わたくしの勝手な考えじゃありません。『タイム・パトロール』(1960年)でポール・アンダースンがちゃんと書いてる話です。歴史は1つと想定するなら、2つの経緯が両立することはありえないという論理。ところが、巷には「改変型」の物語がわんさかあふれている。これ、理屈を詰めていけば、同じ1つの歴史のなかではアリエナイ話でしょう。あえて理屈を通すとするなら、前とは違う時間世界の同じ時点に戻って、違う経緯を生み出す話だと解釈するしかありません。第1回に書いたように、「改変型」の物語は、事実上「並行世界」にジャンプする話だということです。
 こう言うと、少なくない方々から、違う考え方もあるじゃん、と突っ込みが入るかもしれません。つまり、「改変型」は2つの時間世界を想定してるんじゃなくて、前の経緯を消去する話なんじゃないの?、と。なるほど。けれども、そう考えたとしても、矛盾は解消されません。靭帯断裂の話で解説いたしましょう。わたくしは、タイム・マシンを使って、あの日の授業が終わる時点に戻ります。そして、部活に向かわずに喫茶店……いや、図書館にこもるとしましょう。そうしてめでたくあのブツンを回避し、ゆくゆくはお医者様に、という筋書きを目指します(あくまで目指す話ですが)。
 そのとき、前の経緯は消えて、新たな経緯が成り立つと想定します。すると、過去の改変に成功するように思えますよね。けれども、あのブツンとそれに続く悲劇の経緯がなくなると、タイム・トラヴェル自体が不合理を抱え込んでしまうのです。わたくしは、あの悲劇の延長上にある現在から、過去へとジャンプしました。ところが、その時間的な経緯は消えちゃったわけです。すると、そもそものジャンプの出発点がなくなることになるでしょう。こりゃオカシイ。改変が改変の前提を否定するという矛盾に陥りますから。
 てなわけで、「改変型」の物語は理屈上はアリエナイ話であります。もちろん、だからと言ってこの手の物語が無意味なわけじゃありませんし、むしろ大いに魅力的な場合もあります。想像的な物語の世界とは、論理と理屈だけで成り立っているわけじゃありませんから。とはいえ、論理的な観点に立つなら、一度成り立った過去は、決して改変されえないということ。まず過去に関しては、歴史は決定されているという世界像が、当然のごとく認められるというわけです。

歴史の「自己整合性原理」

 いろいろ書きましたが、まあいわゆる「タイム・パラドクス」が生じてしまうような話はアリエナイということです。つまり、歴史は1回限りのものであって、繰り返しやリテイクは(もちろん改変も)ないというお話。これ、アイザック・アシモフが『永遠の終わり』(1955年)で語り出していることと符合します。「時間旅行の基本的パラドクス」は、「永遠不変の現実」に背馳するっていう、あれです。
 これは著書でも紹介したことですけれど、すでに時間SFの草創期から、この矛盾を指摘する向きはありました。しかも、SF雑誌の投稿欄で。P・J・ネイヒンの著書(Time Machines)によると、1920年代の末にヒューゴー・ガーンズバックが編集したSF雑誌では、問題の疑問や懐疑が繰り返し取り上げられていたとのことです。で、ちょっと驚きなのは、こうした投稿のなかに、「祖父殺しのパラドクス」を持ち出して異を唱えるものがあったということ。なかなか鋭いと感心しちゃいます。
 そんなわけで、過去は決定論的な世界だという点はご理解いただけたかと。ただしこれ、過去にトラヴェルした者が何かことを起こしちゃまずいという話じゃありません。排斥されるべきは、あくまで過去の改変です。つまりは、一度起きたことを改変するのでなければ、トラヴェラーの行為は何ら排除されないということ。よくわからない? いえいえ、単純な話です。過去に遡ったトラヴェラーも、初めてで1回だけの歴史に関与できるということ。改変を排除するというとすぐに、トラヴェラーは何もしちゃいけないんだ、と考えちゃうかもしれませんが、実はそうじゃない。肝心なのは、その行為が一度起こったことのやり直しじゃない、ということ。歴史にリテイクはないのですから、過去はトラヴェラーの介入を織り交ぜながら、一回的なプロセスとして成り立つことになる、というわけです。
 ここでも卑近な想像の助けを借りましょう。ただし、あのブツンの話はちとまずい。それはわたくしが経験した動かぬ事実なので、あの出来事への介入は、これまでもこれからも、決してありえないからです。ここは一つ、ありもしない話をでっち上げましょう。一人の男がいつも利用するレンタルビデオ店のバイトさんに思いをよせているとしましょう。彼はある日、いつものようにCDを借りようとその店に向かいます。すると、入り口の前で後ろから肩をポンとたたかれます。お定まりですが、振り返ると未来からジャンプしてきた「自分」がいるというわけです。「彼」は、皺だらけの顔をくずしながら、彼女のお気に入りのアーティストを教えちゃったりします。で、その秘密情報を得た男は、そのアーティストのCDを手にレジの彼女に話しかけると、彼女が嘘のように親しみのあるほほ笑みを浮かべ……。こうした経緯で2人が結ばれたとしても、ことの推移そのものには不合理も矛盾もありません。そして、未来の「彼」が、ジャンプする前に齢を重ねた彼女に「きみの幸せのきっかけを作ってくるよ」と語っていたとしても。
「改変型」が不合理なのは、歴史の経緯に、「あったとなかった」、あるいは「かくあったと別様にあった」を両方想定してしまうからです。つまりは、こうした不合理さえなければ、歴史はタイム・トラヴェルを織り込んだうえで整合的に成り立つということ。これ、I・ノヴィコフという物理学者が大真面目に語っている、歴史の「自己整合性原理」です。この原理さえ守られていれば、トラヴェラーによる過去への介入は排除されない。ただし、しつこいようですが過去のやり直しはありえません。歴史は、トラヴェラーによる介入を織り込みながら、あくまで初めてで一回的なプロセスとして展開するというわけです。

トラヴェラーを律する決定論

 さて、そろそろ決定論的な世界がなぜ理屈上の必然なのか、という話に移りましょう。出発点としては、いま例に出した告白男の話がわかりやすいと思います。ただし、さっきとは観点を変えて、齢を重ねた彼が過去にジャンプする場面から考えてみましょう。彼は妻になった彼女に、トラヴェルする事情を話します。そのとき、彼女が過去へのタイム・トラヴェルなんてほんとにできるの?、と心配したとします。けれども「彼」は、きっぱりとこう答えるはずです。「そんな心配はいらない、だってぼくは未来から来たぼくと現に会ったのだから」。あるいは、こうも付け加えるでしょう。「ぼくがジャンプしないことは考えられない、だってきみとぼくとの過去はすでに確定しているんだから」
 おわかりいただけるでしょう。過去にジャンプする男の現在から見ると、彼の過去への介入は、すでになされた既定の事実です。だからトラヴェルをしないという選択や行動は、歴史の「自己整合性原理」からしてアリエナイ。つまり、彼が過去にジャンプするということは選択の余地がない必然なわけです。これを過去の彼から見て、将来自分がトラヴェルすることは決定されている(されていた)と言ってもいい。タイム・トラヴェルは、いま現在の出来事の経緯を決定論的に確定してしまうということです。
 実はこれ、未来の行動についてもあてはまります。少なくとも、既定の過去に介入した別のトラヴェルが、はるか未来からなされる(なされていた)とするなら。そしてまた、そのトラヴェルを阻むことになるような出来事の経緯も、決して起こってはいけません。この意味では、はるか未来まで、出来事の経緯はネガティヴには拘束されることになります。つねに、すでに確定している出来事の連なり。時間SFは、こうした決定論的な世界像を必然的に引き寄せるというわけです。
 この世界像、わたくしの偏屈な想像によるものじゃありません。マレイ・ラインスターの『タイム・トンネル』(1967年)、ロバート・ハインラインの「時の門」(1941年)、リチャード・マシスンの『ある日どこかで』(1975年)、ハリイ・ハリスンの『テクニカラー・タイムマシン』(1967年)、そして小松左京の「時の顔」(1963年)……。すべてこれらの作品には、いま明らかにしたような時間世界が描き出されています。少なくとも時間SFについて考える以上、この世界像は絶対に外してはならないということ。第1回に繰り返し強調した点は、こうしたジャンル理解にもとづいていたわけです。

一巡したあとのモダンの憂鬱

 いちおう所期の目的は達成されたので、大急ぎで注釈をつけておきましょう。タイム・トラヴェルが招き寄せる決定論的世界像は、すべての時間SFにあてはまる話じゃありません。著書ではあえてこの点を強調しなかったので、少しだけ説明を補っておきましょう。
 時間SFというサブジャンルには、タイム・トラヴェルなしの物語もわんさかありますし、仮にトラヴェルが展開される話でも、あえて理屈を棚上げして過去の改変を自由に描き出すものもあります。つまりは、決定論的世界像というのは、ある条件のなかでしか必然とはならないということです。その条件とは、次の2つです。まずは、同じ一つの時間世界のなかでタイム・トラヴェルが展開される物語でなければ、この理屈は成り立ちません。並行世界にジャンプする話ではこうはならないということです。それからもう1つ。時間世界を論理的に筋が通ったものとして描き出す物語であること。この2つの条件が前提された場合には、理屈上、物語は決定論的な世界を想定することになるわけです。
 時間SFを論じるときには、決定論の観点がとても大切だということ、これがわたくしの著書の根本的なスタンスです。おそらくは、こりゃまたずいぶん古い話を引っ張り出して、と呆れる向きもあるでしょう。けれどもわたくし、この手の反応は痛くも痒くもありません。わたくし、「もうそういうのは古いんですよね?」という言葉で、何か言った気になっている輩が大嫌いでして、「問題は古い新しいじゃないだろー」と反論するのさえバカバカしくなります。肝心要のことは、古くも新しくもある。だから『時間SFの文法』には、中世後期の神学者、アウグスチヌスの時間論さえ登場します。しかし、それでいいということです。
 とはいえ、第1回に大澤真幸さんの整理を取り上げながら書いたように、決定論的世界像が社会や文化の現在と無縁だという話じゃありません。いやむしろ、これがいま意外に重みを増しているんじゃないか、という感じがするんです。何か手が届かないところで、私たちの願望や意志をなぎ倒しながらことが決定していく状況、そして超越的な「第三者」の力を前に無力なまま翻弄されるしかない現実。こういう現在の意識状況と決定論的な世界像は、奥深いところで通じ合うように思えてならないのです。
 誤解されないように言っておきますが、わたくし、ポストモダンなんて空虚だ、人々はまだモダンから脱出していない、などと主張したいのではありません。少なくとも「第三者の審級」による決定という問題について言えば、ポストモダンと言われる状況はモダンを内包しながら、モダンの客観的な変容に対する解釈と想像をもシステム化するかたちで展開してきた。けれども、解釈と想像でいくら糊塗したとしても、やっぱり私たちは奥底のところはでモダンの「第三者の審級」につきまとわれている。そして、いま現在は、ポストを思い描いてきた解釈と想像がグルッと一巡し、それでもモダンに打ちのめされ続けている現実が、問題の意識状況のうちに浮かび上がってきているんじゃないか。そんなふうに思っています。
 こう考えるとき、決定論的な世界像に付随するある道具立てが興味をそそります。それは、時間世界全体をつねにすでにあるもの、言わば不変不動のものととらえる理解です。いくらなんでもと言いたくなるほどにトンデモですが、このしつらえもただの妄想ではなく、やっぱりしかるべき理由と論理を背景にしたものです。
 これ、しばしば「四次元世界論」とセットで登場する話なんですけれど、直接にはタイム・トラヴェルを可能としている物語の想定と関係したしつらえです。しばしばトラヴェラーは、時の跳躍を疑う人々に対して、過去も未来もそこにあるのだと豪語します。要するに、過ぎ去った過去も無に消え入ることはなく、いまだ訪れぬ未来もすでにどこかに「在る」という話です。たしかに、別時間へのジャンプは可能だと言う以上、跳躍していく過去や未来がどこかに存在しているという話は辻褄が合っているように思います。しかしそうだとすると、時間世界はいつも「在った」し、これからも「在る」ということになる。いちおう、理屈はあるわけですね。
 この不変不動の時間世界を、人々が思考し行動する背景や舞台にすぎないものと考えてはいけません。歴史は、出来事や行動や意識を織り込んだものとして構成されています。つまり、理屈を突き詰めるなら、人がなすこと思うことも、不変不動のかたちでつねに存在していることになる(実際には不変不動の世界を想定しながら過去を改変するような物語もありますが)。
 つまり、不変不動な時間世界は、人々の意志や行動によって動かしたり変えたりすることができないものなわけです。この点に、いま現在の人々の意識状況と共鳴し合うところがあるんじゃないか。わたくし、そう思うのです。もちろん誰しも、明日の朝は野菜サンドを食べようとか、定年を迎えたら熟年離婚しようだとか、生活上の私的な選択や決定の余地を与えられています。けれども、世界の大きな問題、そしていちばん深刻な問題については、わたしたちは「そうでしかありえないもの」と考え、無力に受け流してはいないでしょうか。どう考えても理不尽な殺戮行為を止められない世界の現実、動機や理由が皆目わからないような犯罪の悲劇、そして間違いなく人類を破滅に導く環境破壊の進行。
 時間SFの決定論的な世界像は、ここのところでいま現在の時代意識とシンクロするのではないか。これがわたくしの著書の基本的な発想です。そんな暗い話を聞いても何の足しにもならないじゃん、という反発は百も承知です。ですが、物語というものは、何かの役に立たなければならないものでしょうか。「勇気をもらう」とか、「生き方を学ぶ」とか、そんなところで物語を意味づけることには、わたくし、疑いの目を向けずにはいられません。むしろ、いま現在の悲しみと苦悩に浸されながら、その悲惨を生き続ける現実を受け止めていくこと。このつらい生のいとなみとリンクした作品にこそ、現代性の彩りがあるのだと思います。
 一巡してふたたび私たちが直面しているモダンは、底なしに憂鬱だということです。たしかにこれ、避けて通れない問題ではあります。とはいえ、やっぱりちょっと息が詰まっちゃいますかね。書いているわたくしも、肩が凝ってきました。いま書いたことと少々矛盾するようですが、次回は何か息抜きになるような話題を用意しましょう。もちろん、ただの逃避的お楽しみではありませんけれども。

 

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