第1回 「ループもの」から決定論の問題を考える

浅見克彦(和光大学教授。専攻は社会理論、社会思想史。著書に『時間SFの文法』〔青弓社〕など)

「ループもの」って何?――巷の整理への疑問

 去年、暮れもおしせまったころ、『時間SFの文法』を上梓しました。で、この作品の裏話などを連載してはどうかというお誘いをいただいたというわけ。せっかくの機会ですから、二つ返事で連載を始めてみることにしましたが、さて何を書いたものか。大物評論家のように、隠し球やどんでん返しの用意があるわけでもなし。
 とはいえ、書き物としてのサイズを考えて、省いてしまった話題はいくつかあり、これを少しぶっちゃけ風に書いたらオモシロいのではと考えました。
 実は『時間SFの文法』は、論壇やネットで展開されている批評とは、かなり違った発想に立っています。で、そこから少々稀有な切り口やテイストも飛び出すというわけで、世間からやや奇異なものとして扱われるかもしれません。けれども、この特異な論じ方には、そこそこ理由があるのです。決して自己弁護や言い訳ではなく、実はそれが基本のキだとさえ思っている次第で……。そんなこんなで、まずはこのあたりの前提的なスタンスの話から入ってみようと思うわけです。
 で、最初の論題は、「ループもの」です。ただしこれ、いまどきの流行に乗ろうというスケベ心ではありません。わたくし実は、「ループもの」には、時間SF論の一つの肝があると思うのです。ところが、「ループもの」に関する世間の話は、どうもわたくしの発想とはズレているような……。しかし、必ずしもわたくしがお門違いなわけではないと思うのです。
 そもそもの話になりますが、「ループもの」って言うとき、ループしているのは何なんでしょう。そんなの時間に決まってんじゃん、と普通はなります。でも、世間で言われている「ループもの」は、時間が循環してるかどうか微妙じゃないでしょうか。ループって円環ですから、時間のループというのは、世界が同じ出来事を繰り返すことじゃないかと……。
 ところが、いまどきの作品だと、過去に戻ったと言いながら、出来事の経緯が変わるストーリーがほとんどです。小説では乾くるみの『リピート』(2004年)や西澤保彦の『七回死んだ男』(1995年)、アニメの『時をかける少女』(2006年)、それから『魔法少女まどか☆マギカ』(2011年)、さらには少し古い映画ですけど『恋はデジャ・ブ』(監督:ハロルド・ライミス、1993年)。みんな、時間の「枠」を同じとしていても、経緯の改変ができる話になっています。
 わたくしはどうもここが気になる。おまけに、ロバート・A・ハインラインの「輪廻の蛇」(1959年)まで「ループもの」だ、なんて話さえ飛び出したりする。これ、たしかに因果ループの物語ですけど、因果ループってのは時間のループとはまったく話が違います。だって、因果ループの物語では、普通時間の経緯は一回的で不変ですよ。たしかに物語は、両性具有だった作家が、自分の若き日にトラヴェルしていく話です。けれどこれ、一度起きたことのやり直しではないんです。話のポイントはこうです。その作家は若き娘だったときに、通りすがりの男に押し倒されて子どもを産んだと語ります。で、この男を恨む作家が過去にトラヴェルして復讐しようとするんだけど、なぜか公園にいた若い娘を押し倒しちゃう。そう、問題の男は、未来から来た自分だったというわけです。
 この物語には、同じ時間の繰り返しはありません。そうじゃなくて、すでに起きてしまっている出来事に、未来から来た自分の介入が織り込まれてたって話でしょう。同じときの出来事が違った視点から語り直されてはいても、その出来事は1回きりのものでしかないわけですね。つまりそれは、同じ出来事を描く物語言説の循環であって、時間の「ループ」なんかじゃないということです。

本当の「ループもの」の忘却

 少し議論が脱線しました。「改変型」の物語が「ループもの」と呼ばれている問題に話を戻しましょう。世間では、同じ時間枠の繰り返しが、アバウトに「ループ」と言われているのでしょう。わたくし、これ以上名前のつけ方に固執するつもりはありません。けれども、そこにはちょっと見過ごせない問題もあるように思います。このアバウトな整理だと、「本当の」ループを描いた作品群が忘れられかねない、ということです。いまどきは、「改変型」の「ループもの」が大はやりですから。 
 実際、「Wikipedia」の「ループもの」の項目を見ても、同じ経過の反復を描いた作品はほとんど出てきません(『ゼーガペイン』〔2006年〕は、まあ「本当の」ループに近いかも)。「ループもの」っていうのは、たぶんはじめからいまどきの「改変型」をくくる言葉として浸透したんでしょう。でもわたくし、そこがどうも気になる。
 SFの歴史に目を向けると、同じ経過が繰り返される「反復世界型」が多いことに気づきます。リチャード・A・ルポフの「12:01PM」(1973年)、ソムトウ・スチャリトクルの「しばし天の祝福から遠ざかり……」(1981年)、それから反復のスパンが遠大だけれど、サミュエル・R・ディレーニの『エンパイア・スター』(1966年)。あるいは、テクストの一部で反復を展開しているものとして、A・E・ヴァン・ヴォークトの「避難所」(1942年)というのもあります。
 たしかに古めのものが多いです。でもここは、あえて古い作品を持ち出すことに意味があると思うのです。なぜか。こうした「本当の」時間ループを描いた作品では、いまどきの整理が忘れがちな点が浮き彫りになるんですよ。典型的なのは「12:01PM」と「しばし天の祝福から遠ざかり……」でしょう。前者は1時間、後者は1日の出来事が、否も応もなく同じように繰り返されます。つまりこれ、どうやっても変えられない決定論の世界ですよね。ここです、わたくしがしつこく関心を向けたいのは。
 これに対して、「改変型」に偏った整理は、「ループ」する世界をだいぶ違ったふうにとらえてないでしょうか。そこには、「複数の生を体験しうる」「変わる可能性に賭ける」といった傾きがあるように思うのです(杞憂でしょうか)。それもそのはず、実はこうした「改変型」が描く世界は、「同じ時間」の反復じゃないのです。そもそも、経緯が「書き換え」られたなら、それは先行する時間世界とは別物と考えるべきでしょう。たしかに、先行する時間世界は消失して新たなものにすげ替えられると考える手もあります。しかしその場合でも、元の時間世界は消失してしまった以上、新たなものと同じでないことになります。
 だから「改変型」の「ループもの」というのは、むしろ複数の時間世界が並立する「並行世界もの」と言うべきでしょう。だとすれば、「ループもの」というカテゴリーが、かなり質の違うパターンにズレちゃってるような……。

大澤真幸の「決定不可能性」論はちと違う

 ここでちょっと、わたくしの主張のポイントを浮き彫りにするために、いまどきの説と突き合わせてみましょうか。例えば、学生などがよく口にする、大澤真幸の説があります。「ループもの」というのは、現代社会が抱え込んでいる「決着をつけることの困難」を表現してるっていうやつ。
 この議論、なかなか巧妙なので一筋縄ではいかないんですけれど、細かいことを脇にやってぶっちゃけてみましょう。煎じ詰めればこれ、決定の先送り、ないしは回避というのが「ループもの」の核心だという話じゃないでしょうか。するとそれは、さっき書いた決定論的なテーマを切り捨てちゃう整理になりかねない。だって決定論的な物語は、時間的な経緯が何だかわからない力で決定される話なわけですから。こういう物語をネグっちゃうことが、まず心配。
 もちろん大澤さんの説は、ひとまず「オタク文化」への批評ですから、オタクにとって決定論はどうでもいいんだよと言われれば、ひとまずわたくし、引き下がります。けれど、話を現代社会全体のありように広げるときには、問題が2つ浮かび上がると思います。1つは、社会の構造を問題にするわけですから、人々の夢想や願望に傾斜して「決着」をつけていいのか、という疑問です。
 仮に人々が、物事の決定を回避する想念にとらえられていたとしても、ブラック・マンデーはやってきただろうし、海面上昇は起きてしまうでしょう。わたくし、現代社会だろうが未来社会だろうが、人間が動物であり、社会という構造のなかにあるかぎり、決定なしの状態っていうのはありえないという立場です(ていうかこれ必然)。社会構造について云々する以上、世界のこういう客観的な動き、人の手の届かないところでの決定について、「関係ないね」と言うのは自己欺瞞なしには無理だと思うのです(もちろんこれは大澤さんも百も承知のことでしょう)。
 で、2つ目です。仮にオタクたちがこういう外の世界から、意識的に身をそらしてるとしましょう(実はなかなか難しいと思いますけど)。けれど、それは現代の文化の中心っていうか、焦点をなしてるんでしょうか。わたくし、これは違うような気がします。たしかにいまを生きる人々の間に、決定の先送りとか回避を続けたいという意識は感じられます(ま、昔も違ったかたちでありましたが)。けれど、この「外」の事実から目をそらす態度は、現実を生きるなかでは自己への懐疑に陥らないですかね。だって、なんだかんだ言って、その現実にまみれて生きていくしかないし、生きちゃってるんですから。
 そうだとすれば、わたくしのようなありふれた者は、決定論的な世界の問題を考えないわけにはいかない。これ、いまどきの文化状況についても、無視できる枝葉とはいえない気が……。そうです。世の中の動きが、人々が抱く理念や価値観などおかまいなしに、悲劇的な事態に帰結する現実。そして、その理不尽な推移が、自分たちには変えようがないという無力感。
 この問題、オタクたちはホントにすり抜けちゃうんですかね。むしろオタクたち(すでに大澤さんの整理からズレちゃってますがご勘弁を)だって、決定を回避する内世界と決定論的な外世界を、セットにして生きてるんじゃないでしょうか。つまり、手の届かないところでの決定を逃れられないからこそ、虚構世界でのループに、いろいろと思いを膨らますんじゃないかと。
 そうです、ことの前提には、大澤さんも確認している抽象的で不可視な「第三者の審級」があるように思います。この近代の構図は、いま現在も、オタクたちにとってさえ、リアルな問題でしょう。もちろん、反論が予想されます。そんな近代的な構図はもうないんだよ、「第三者の審級の無能性」こそが問題なんだから、と。ですが、ごく素朴に考えて、これはさすがに言い過ぎかと。

現在に潜む宿命論

 ポストとか超とかという話はたしかにワクワクするのですけれど、ここはわたくし、コンサーヴァティヴと言われてかまいません。こと決定論に関するかぎり、文化の現在は近代をしつこく引きずってるし、むしろあらためて問題化しているとさえ思います。これ、世間で言う「ループもの」にもあてはまるところがありませんかね。『ゼーガペイン』の主人公たちは、否応なく反復される時間に対して、自律的な自由を取り戻そうとするわけですし、『まどか』の「ほむら」は、圧倒的な決定力をもつ「ワルプルギスの夜」に対して、親友を救おうとするヒューマニズムを突き付けていますよ。
 そんなデカい話はどうでもいいよ、と言われそうですが、実はこれ、「ループもの」をめぐる力点の置き方と無関係じゃない。大澤さんが「第三者の審級の撤退」を云々するときの前提に、価値の相対化という話があります。そう、相対性のうちでグルグルするポストモダン的な意識の問題です。たしかに、ここに焦点を当てると決定論というテーマは、人々の関心から消えていくように思えちゃいますね。
 実際、大澤さんの議論のなかでは、「こうありえたかもしれない」という可能性を求める意識が大きく扱われています。ただ、時間SFの常識をまた持ち出して何ですけれど、こういうのは、世界を無限に枝分かれさせる「多世界もの」のパターンです。なるほどそういう物語では、決定論の要素は希薄だけれど、さっき確認したように、SFの世界で言う「ループもの」には、これとは違う決定論の物語が少なくない。もうおわかりいただけたでしょう。時間SFの歴史から考えるかぎり、「ループもの」を「第三者の審級の撤退」で斬っていくのはかなり強引じゃないか、ということです。むしろそこには、近代の影がしつこくつきまとっていて、決定から逃げられないというテーマが大切なんじゃないかと。
 現代の文化を生きる者も、宿命論を捨てきれないし、運命の亡霊につきまとわれているという話です。大きく出たって? いえいえ、これわたくしの率直な考えです。
 よくよく思い直してみると、いまどきの「ループもの」にも、決定論的な発想と問題は潜んでないでしょうか。例えば、『ゼーガペイン』の反復される仮想世界。舞浜サーヴァーの情報世界に閉じ込められている人々の意識は、時間の繰り返しを強いられているのですから、世界のあり方を決定されちゃってるわけじゃないですか。「改変型」の物語だって、部分的には同じことが言えるように思います。例えば、『まどか』の「ほむら」の境遇。たしかに彼女は、「まどか」を何とか救おうと自分で決定して時間を「やり直し」ます。けれど、何度「やり直し」ても、どうやっても敵を倒せないという無力感に襲われちゃいますよね。出来事の経緯と結果が、手の届かないところで決められちゃうというムード。これ、無視できないと思うんです。

「ループもの」は4つに分けられる

 少し整理話もしておきましょう。この手の繰り返しの物語(「並行世界」での「繰り返し」も含みます)については、2つのポイントを立てて整理したらどうでしょう。つまり、1つは繰り返しそれ自体が選択できるか決定されてるか、もう1つは繰り返された時間世界での行動や出来事が選択できるか決定されてるか。こうすると、2×2の4つのパターンが見えてくるわけです。で、わたくしが心配しているのはこういうことです。前者の点で決定論的な構成になっている物語が忘れられていないか、そして後者の自由な選択が強調されると、前者に関する決定論的な作りが切り落とされちゃうんじゃないか。
 ただし、大急ぎで補足。いまどきの「ループもの」には、谷川流の『涼宮ハルヒの暴走』(2003年)の「エンドレスエイト」みたいなものもあります。これは、モラトリアムを求める意志が反復を生じさせるっていう、かなりのご都合主義。だからまあ、決定論のケの字もありません。その点では、わたしくしの考えは少々割り引かないといけませんね。ですが、「改変型」に偏った整理が、決定論という大切なテーマを脇にやりかねないというのは、お察しいただけるかと。
 これ、分類好きのたんなる揚げ足取りじゃありません。むしろわたくし、同じ時間枠の繰り返しという表面的な整理の仕方に、問題がないかと言いたいのです。ただの枠組みだけじゃなく、時間世界がどうとらえられているか、物語の主旨は何なのかという内容的な問題が肝心じゃないかと。要するに、物語構成ですね。この内容構成をとらえる観点からすると、ますます決定論的な世界像は落とせない、ということです。だから、ここを外すと、現代文化の雰囲気に偏った色づけをしちゃうんじゃないか。そういう心配で、日夜グルグルしてるわけです。

あえて古めの作品から紐解く

 決定論的な世界像は、少々古いんでしょうね。少なくとも、とくにいまどきとは言えないです。けれどわたくし、これがいまだに、いやあらためて重みを増しているような気がするのです。例えば、佐藤友哉の『世界の終わりの終わり』(2007年)が描くような若者の心象を思い浮かべてください。「何やっても無駄な感じだし、どうしたらいいかもわかんないよ」といったムード。そう、時間世界の動きはどうしようもないという、諦めのニヒリズム。世の中では、こうしたムードが強まってると思うのです(実はこれ、大澤さんが「相対主義的なアイロニズム」について語っていることとけっこう重なります)。
 いささか古いパターンが、いまどきとつながってるような気がする。これがわたくしの発想です。例えば、しばしば「ループもの」の原型とされる、ケン・グリムウッドの『リプレイ』(1987年)に耳を傾けてみてください(実はこれ、単純な「ループもの」ではなく、奥底に「並行世界」の想定を秘めた物語ですが)。主人公のジェフは、繰り返し心臓発作で死に、何だかわからない力によって何度も生き返ります。反復が強制されているということですね。しかも、そのつどの人生であれこれと目標を立てて生き方を模索しても、結局は虚しさが膨らんでいきます。彼の吐き捨てるようなセリフ「重要なものなんか何もない」が、物語の主調音なのでしょう。
 あるいは、『まどか』とよく似た展開になっている、J・T・マッキントッシュの「第十時ラウンド」(1964年)。これは、意識トラヴェルの技術を使って、ある女性との関係を成就しようとする男の話です。彼は、彼女へのアプローチを10回もやり直すわけですが(かなり粘着質ですね)、10回目にやっと目的成就の芽が出たときに、なんと別の女性と幸福な関係を結んでしまうというストーリー。どうです? 「ほむら」と同じように、時の複雑な綾に翻弄される者の無力を思わせますよね。
 そんなこんなで、いまどきの文化に漂うムード(近代の亡霊もお忘れなく)を意識しながら時間SFを論じる場合、古典的な物語を踏まえるのが意外に重要だというお話。だから、『時間SFの文法』では、かなり古臭いものもあえて素材として拾い上げました。これ、わたくしの読書の時間が30年前で止まっているからじゃありません。あくまで、いまどきのお飾りに惑わされて、時間SFの本旨をつかみそこねないための方策。そして、絶対に取り逃がしてはならないのは、これまで確認してきた決定論的な世界像です。
 しかし、この決定論的な世界像というのは、かなりトンデモであります。ですけれど、これ、ただの妄想や奇想じゃありません。多くの場合それは、ある想定から論理的に導き出された世界像になってます。だから、そのおもしろさを味わうには、少々物語の理屈と格闘する必要もあるというわけ。つまり、「四次元世界論」「タイム・パラドクス」、そして時間世界の「自己整合性原理」だのって話です。
 この手の話は、たしかにヘヴィーな理屈の積み重ねになりやすいので、敬遠する方々がいらっしゃるのもわかります。けれども、決定論の現代的な重要性を語ろうとするときには、どうしても素通りするわけにはいかないのです、ハイ。しかもその理屈は、論理としては筋が通っていても、「常識的」な直観には真っ向から対立していたりする。てなわけで、この点を噛み砕いておくのも一興かと……。
 ですが、脱線が災いして、1回目の分量をとうに超えています。いったん話を区切って、仕切り直すことにしましょう。

 

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