風化させてはならない宝塚の記録
――『白井鐵造と宝塚歌劇――「レビューの王様」の人と作品』を書いて

田畑きよ子

 白井鐵造は、いまも歌い継がれる「すみれの花咲く頃」の訳詞者であり、宝塚歌劇一筋にその基礎を築いた人物でもある。そのために白井の研究者は後を絶たず、さらに、白井の自伝『宝塚と私』(中林出版、1967年)、そして、愛弟子の高木史朗『レビューの王様――白井鉄造と宝塚』(河出書房新社、1983年)が刊行されていて、白井論は出尽くした感がある。それなのに、なぜいまさら、白井鐵造なのか? 
 大阪にある阪急文化財団池田文庫を退職後、3年かけて白井と向き合ったのにはいくつかの理由がある。その一つには、胸中に多くの“なぜ”が渦巻いていたからである。例を挙げれば、13歳で故郷を離れて染め物会社に奉公に出た白井が、なぜ音楽の道を志したのか。どのようにして宝塚へとたどり着いて、豪華絢爛の「夢世界」を築き上げたのか、その経緯は明白ではなかった。「すみれの花咲く頃」の元歌は「リラの花咲く頃」、しかし、なぜ、白井は「リラの花」を「すみれの花」に置き換えたのか。その誕生秘話は明かされず、ずっと歌は独り歩きしてきた。いわば肝心要の節目が曖昧なのである。これらを資料に基づいて明らかにしてみよう、白井の業績を一本の線につないでみたいと考えたのが、本書執筆のきっかけである。
 それは取りも直さず、白井が残した約1万3,000点に及ぶ資料群のなかの、パリ留学の際に舞台を観て記録をつづったノートやパリのミュージックホールのプログラム類、洋雑誌などの整理に携わった証しでもある。白井が生前に集めていた資料群をめぐっては、白井が住んでいた伊丹市と阪急電鉄がちょっとした争奪戦を繰り広げて、当時、新聞でも話題になっている。結局、白井の遺言が決め手になってそっくり池田文庫に寄贈された。実際に、1984年(昭和59年)2月23日にダンボール160個分をトラック6往復で搬入したと記録に残っている。
 こんな経緯で受け入れられたにもかかわらず、和図書以外の資料は未整理のまま書架に積まれていたようだ。皮肉にも、私がこれらの資料と出合ったのは、1995年(平成7年)1月17日の未明に起こった阪神・淡路大震災がきっかけだった。書庫内の書架が崩れて本や雑誌や資料は床に飛び散り、余震のたびに本が落ちてくるような状態だった。しばらくして運び出し作業が進められて、それらは閲覧室や展示室に並んだ。白井の資料はそのなかにあった。寄贈を受けてから11年もたっていた。司書としてのノウハウを教えてくれた先輩がシャンソンの楽譜の整理を担当し、それ以外の雑多な資料類は私が受け持った。こうしてみると、白井の原資料にいちばん近いところにいた者として、白井の業績を一本の線につなぐ仕事は、いわば天命というべきものだったのかもしれない。整理作業それ自体が大変な労力を要するものだったが、その作業が白井鐵造研究の何よりの絶好の機会であり、そのチャンスをこのような形で本書に生かせたことは、感謝すべきことだと思っている。

 白井が亡くなったのは、1983年(昭和58年)12月である。没後30年以上もたっているのだから、風評が流れて憶測が乱れ飛び、本来の白井鐵造像は見失われている。真の姿をあぶり出すには、資料をよりどころに論を編むこと以外に方法はない、と私は考えた。もともと司書や学芸員として仕事を重ねてきたので、それは当然のことなのだが、意外に労力を要して困難を極めた。とはいえ『パリゼット』(月組、1930年)や『花詩集』(月組、1933年)、『虞美人』(星組、1951年)などの主立った作品に関するコピーは、「白井鐵造生誕百年展」(2000年)の企画の際にファイリングしていた。もう一つの味方は、「宝塚歌劇90周年展」(2004年)を担当したとき、「歌劇」や脚本集(一時期、小林一三や白井などの論考が載っている)などを創刊号から92年(平成4年)頃まで読み通していたことである。歴史をきっちりととらえたいという思いから試みたのだが、雑誌名と執筆者、発行年月を記して、記事の要点も入力している。今回、これが大いに役立った。しかし、引用したくても発行年を書き忘れていたり、雑誌名があやふやで資料に届かなかったりすることもあった。さらに、「歌劇」の読書投稿欄「高声低声」や小林一三が大菊福左衛門のペンネームで「歌劇」誌上に掲載していた辛口の公演評を中心に、今回改めて調査した。こうして、駆け引きなしの白井の人と作品が浮かび上がったのである。これは、白井鐵造がファンの声に一喜一憂しながら成長していった記録でもあり、同時にタカラヅカの出版物の歴史でもあるのだ。歌劇団当局が、各方面の批評家の意見や読者の声を、その酷評さえも克明につづってきたからこそなしえた仕事である。
 70歳のデビュー作である本書はことのほか難産だったが、いざ産声をあげてみると、驚くほどの好評価で迎えられた。「風化させてはならない貴重な記録」「今後長きにわたって宝塚研究者の進む道を照らすもの」などの葉書が届いた。また、本書には演出家による称揚を所収しているが、その一人の岡田敬二先生からは、「すごい労作! 感動して二回も読みましたよ」というメッセージをいただいた。友達からは「根性と努力に乾杯!」と花が届き、白井の厳しい指導ぶりを語ってくれた宝塚OGからは激励の電話や手紙が相次いだ。まだ身内の範囲ではあるが、小さな波紋が広がりつつある。
 やっと完成した自著を改めて読み返してみると、タカラヅカってすごい! 100年の歴史を築くのに、どれほどの汗と涙と根性と努力があったかを実感できるのである。宝塚の歴史の深さにいちばん感動したのは、実は、こうして白井の足跡をつづった私なのかもしれない。
 
「読売新聞」2016年2月13日付夕刊が「パリを歌う すみれの花」と題して、「花の種類を変えた背景に、「すみれこそがパリを象徴する花」という白井の強い思いがあったこと」を田畑きよ子が突き止めた、と社会面に大きく取り上げてくれた。「白井は、すみれを野に咲く控えめな花ではなく、レビューの本場を代表する花として捉えていた」ことを「宝塚グラフ」(1973年1月号、宝塚歌劇団出版部)の記事から発見したと報じている。この新聞記事と拙書を、毎日放送の浜村淳さん宛てに送ったら、「白井先生とは、宝塚の花の道ですれ違ったことがある。あのときお話をしておけばよかった……」と、ご本人から直接電話をいただいた。翌日のMBSラジオ『ありがとう浜村淳です』では、「よく調査されている。本を読んでから舞台を観るとまた違った観劇が楽しめる」と紹介してくださった。
 タカラヅカは、歌舞伎のように代々芸を引き継いでその芸を極めていくというようなことはないが、個々の、それぞれの個性的な演技が光る。そしてスターもいつかは卒業してトップも次々に変わっていく。だからこそ、宝塚はいつまでもフレッシュさを失わない、という構図が成り立つ。そのぶん宝塚は新陳代謝が激しい、花の短い命を競い合うような集団であり、ここに宝塚の人気の秘訣がある。こうしたアマチュアリズムが根底にある宝塚だからこそ、美しい色彩と甘美な音楽が似合い、歌あり、舞いあり、演技ありの舞台が、新時代の演劇として成り立ったのである。
 白井が育ててきた宝塚レビューは、新たな発展の道を歩み続けている。これが宝塚歌劇100年の歴史に、そして次の100年へとつながる道なのだ。本書は、白井の過去の栄光にスポットを当てて昔を懐かしむものではない。原点に戻って、「宝塚とは何か」と考える機会になれば幸いである。
「文字が小さい」「内容が濃くてなかなか読み進まない」という声が届くが、書くのに3年かかったのだから、3年かけるつもりでじっくりと読んでほしいと思っている。

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